批判精神と自己検証

批判に弱い人間と付き合っていると疲れる。棘を抜き、辛口表現をオブラートで包む必要があるから。いつも顔色をうかがい傷つけまいと差し障りのない寸評でお茶を濁すことになる。疲れるだけならまだ我慢するが、こんなうわべの物分かりの良さを演じていると、こっちの脳が軟化してしまう。付き合いが続くものの、お互いに成長できる見込みはまったくない。

以前アメリカのコミュニケーションの専門家が書いた本を読んで愕然としたことがあった。「部下が出来の悪いレポートを持ってきた。あなたはどうコメントし、対応するか?」というような設問がある。四択。「こんなもの話にならん!」や「もう一度やり直しだ!」の類が最初の三つの選択肢になっており、四番目が「きみは普通この種のレポートは上手だが、今回はちょっと残念なところがある。一緒に考えてみようじゃないか」のようなコメント。著者はこれを正解としている。優しさにもほどがある。

「きみ」という部下がこの種のレポートが普段から下手だったら、どうするのか。「ちょっと残念」も「とても残念」も採択できないという点では同じだ。こんなところに「物は言いよう」などという法則を適用するのは場違いなのである。ぼくも「ダメ! やり直せ!」には与しない。自力でやってダメだった人は、しかるべき助言もなしに再挑戦してもたいていダメである。だから「一緒に問題検証すること」には賛成だ。けれども、プロフェッショナルどうしなら、少しでもダメなものを褒めてはいけないのである。生意気なことを言うようだが、白熱教室のマイケル・サンデルの設問やハーバード大学の学生の答えにも同種の骨の無さを感じて情けなくなる。


共感と賞賛し合うだけの甘い関係を求める人たちが少しずつぼくの回りから減っていく。寂寞感に耐えかねないなどということはないから、去る者を追わない。しかし、よく考えてみよう。評価してもらうことと批判されることは二つの別のことではない。弱点や問題点を指摘され、納得すれば反省して対策を立てればいいだけの話だ。批判精神が横溢する関係に身を置くようにすれば、仮に批判者が不在でも自己チェックする習慣が身についてくる。自己検証能力は希少なヒューマンスキルの一つなのである。

事実認識、知識、意見、価値観、方法、生活習慣・態度、人生観、人間性・人格……批判の対象はいろいろである。事実誤認を指摘され意見を批評されるのはいいが、矛先が人生観や人間性に向けられるとグサッとくる。しかし、対象などどうでもいい。要は、批判者の批判行為が善意か悪意か、助言か非難か、啓発か否定かをよく見極めればいいのだ。空砲と実弾の区別がつかない鈍い感覚こそを大いに自省すべきだろう。

別に硬派を気取っているわけではない。ある人にとって軽いことが、別の人にとって重いことくらい百も承知である。ある人は批判を受け止めるし、別の人は批判を聞き流したり苛立ったりする。プライドなのか別の何かがそうさせるのかわからないが、批判の負荷に耐えられなければ高みに到ることなど望めないだろう。リーダー側に立ち始めたら、誰かからの批判機会は当然減る。ここを境にして裸の王様度が強くなる。だからこそ、その時に備えて日頃から自己検証力を高めておかねばならないのである。自分が自分に一番辛い点数をつけるということだ。最近のリーダーを見ていると、自画自賛が過ぎるとつくづく思う。ちょっとハードワークするたびにマッサージや温泉やご馳走などのご褒美とは、自分に甘すぎるのではないか。

批判からの逃避

この話が当てはまる人々に老いも若きも男も女もない。批判からの逃避には二つの意味を込めている。一つは「批判することからの逃避」であり、もう一つは「批判されることからの逃避」である。対話にあって波風を立てないよう、批判することを避けてひたすら共感し同調する。これによって今度は批判されることを回避できる。

以前このテーマについて某所で話したときに、「批判と批評との違い」を尋ねられたことがある。即座に回答しかねる問いだが、ぼくも老獪な一面を持ち合わせているから、「非難と対比すれば、批判と批評は同じ仲間だ。この話に関しては同義と思ってもらっていい」と伝えた。後日辞書をチェックしてみたら、さほど苦し紛れの対応でもないことがわかった。批評がより価値論議に向けられるものの、批判も批評も物事の長所・短所を取り上げるという点では共通している。非難の「欠点や過失を取り上げて責めること」とは根本が違う。

批判でも批評でもいいのだが、とりあえず批判にしておく。この批判がいつの間にか「非難」と同義になってしまったかのようである。ぼくにとっては批判は改善・成長を視野に入れた、問題解決の処方箋である。問題を解決するためには問題を明らかにせねばならない。問題を明らかにするとは原因を探ることである。その原因探しと問題解決に助言をしようとするから批判するのである。どうでもいいことを取り上げて、どうでもいい人間にわざわざ改善や成長のための批判をするはずがないではないか。


批判は非難ではない。ぼくにとっては批判されることも批判することもつねに良薬である。苦くて刺々とげとげしい毒舌であっても毒ではない。ところが、「それって批判ですか?」「そう、批判」「ひどいなあ、いきなり非難するなんて」「非難じゃない、批判。全然違うものだ」「ケチをつけるんだから一緒ですよ」という類のやりとりが、嘆かわしいことに現実味を帯びてきた。

ストレートな話し方をするほうなので、辛辣な毒舌家と受け取られることが多いが、ぼくなどは穏健で温厚な「ゆるキャラ」だ。批判と非難の区別もつかない連中は、批判の中身に耳を傾けず、批判の語り口に神経を尖らせている。彼らにとってきつい表現は非難であって、助言などではないのだろう。

批判は成長の踏み台であり、非難は意見攻撃、ひいては人格否定につながる責めの行為だ。この違いがわからない者に助言しにくくなってしまった。批判から逃避する彼らはどうなるか。結局は差し障りのない関係を保ちながら、甘く低いレベルで折り合ってしまうことになる。切磋琢磨しようと思えば棘の一つや二つは刺さる。だが、そんなものは繰り返し慣れてしまえば、すぐに免疫ができる。批判というのは一種の人間関係ゲームなのである。逃げたらダメ、避けたらダメ。

類型を好む人たち

昨今ほとんど集まりに出ないが、かつてはよく集いを主宰してもいたし、よく招かれもした。義理と形式を絵に描いたような会合に顔を出すこともあった。そんな席でたまたま隣に座った人が「どこどこの誰々と申します」と名乗ることがある。自己紹介してくる人に知らん顔は失礼なので、つられるように名を告げる。但し、明らかに一過性の出会いでぼくは社名や職業名まで紹介しない。

話しかけてきた人がさらなるひと言ふた言続けることが稀にある。「今日出席した理由は何々で……」と言うから、「そうなんですか」と相槌を打つ。それ以外に応対の方法を思いつかない。たった一度きりだが、自己紹介の後に唐突に「ところで、あなたの血液型は何ですか?」と聞いてきた男がいた。会合のテーマは「献血」ではなかったが、赤十字が協賛団体なのかとバナーに目を向けたほどだった。「O型ですが、それが何か?」と言うと、長く深い話にされてしまいそう。かと言って、「初対面のあなたに血液型を明かす筋合いはない!」などと偏屈になることもない。「O型です」とだけ言って、後は黙った。彼もうなずいただけだった。何のために聞いてきたのだろうか。

血液型や何月生まれや星座が話題になることがよくあるが、別に不快にならない。好きな人はどんどん話題にすればよろしい。ぼくは輪に入らない。人間を4種類や12種類に分けてみたところで、何かがわかるわけでもないと思っている。かと言って、分けることに批判的でもない。どうぞご自由に、というわけだ。


広辞苑などでは類型の定義を「一定種類に属するものごとに共通する形式」としているが、そうではないだろう。最初からそんな種類に属しているのではなく、いろんなサンプルから共通特徴を少々強引に抽出して型を作りラベルを貼ったのである。だから、「私は水瓶座なので……」とか「B型のあなたは……」という、はじめに類型ありきのプロファイリングは手順前後である。まあ、星座や血液型ならいいだろう。だが、「私は慌て者。だから……」などと自ら看板を立てる連中は、それに続けて己の欠点を見事に正当化する。一見ダメそうな慌て者に理があるような論法を組み立てる。

「オレは根っからの感性派なので……」の類には辟易する。「感性派なので、理性のことはよくわからん。腹が立てば怒るし、共感すれば涙を流す。理屈を超えたところで人間どうしは心を通わせるのだと思うんだよな」と一、二行のコピーで一本筋を通すように話をまとめ上げる。ぼくは心中つぶやく、「あんた、それって仮説の論法で、結構理屈っぽいと思うけど」。

誰かにどこかで感性派という類型を教わったのか、あるいは「お前は感性派だ」という天啓があったのか知らないが、十人十色の人間に一言で済ませられるようなラベルが先験的に貼られるわけがない。おびただしいサンプルのことごとくに言及できないから、類型という方便を編み出したにすぎないのである。ともあれ、感性派と理性派などという二元論的類型など不器用極まりない。そんな単細胞的に自分をブランディングする必要はない。類型はつねに変わるのだ。

愚者と賢者

十日前に自宅近くの寺の前を通りかかった。ふと貼り出されている今月のことばに目が止まった。「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」と筆書きされている。法句経の「もしも愚者が愚かであると知れば、すなわち賢者である。愚者であって、しかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる」を思い出した。この種の「命題」を見ると是非を考えてみたくなる。まさか本能の仕業ではない。後天的に獲得した職業的習癖のせいだと思う。

問いにせよ命題にせよ、何事かについて議論しようと思えば、定義に知らん顔はできない。弁論術が生まれた古代ギリシアの時代から議論の出発点に定義が置かれるのは当たり前であったし、定義を巡る解釈は議論を闘わせる随所で争点になるものだ。堂々巡りになったり退屈になったりもするが、定義論争を避けて通ることはできない。定義をおざなりにしてしまうと、行き場のない「ケースバイケース論」や「人それぞれ論」の応酬に終始し、挙句の果ては泥沼でもがいて責任をなすり合うことになる。

話を戻すと、愚者と賢者の定義をおろそかにしたままで「愚者は教えたがり、賢者は学びたがる」の是非に判断を下せない。この命題、冷静に考えると、教えたがるのであるから教える何かを有しているに違いない。愚者ではあるが無知ではないのだろう。また、知は無限であるから、どんな賢者にしても学びに終止符を打つことはできそうもない。賢者だからこそ、おそらく学ぶ(そして、学べば学ぶほど無知を痛感する)。賢者はつねに知的好奇心を旺盛にしている。


命題の「教える」と「学ぶ」は辞書の定義通りでいい。やはり焦点は愚者と賢者の定義に落ち着くしかないのか。いや、ぼくは保留したい。愚者も賢者も辞書通りでいい。むしろ注目すべきは「~したがる」という表現のほうである。これは強い願望を表すが、さらりとした願望ではなく、意固地でわがままで病みつきのニュアンスが強い。では、教える、学ぶ、愚者、賢者などの用語をそのままにしておいて、命題を読み替えてみようではないか。

「愚者は意地になって教えようとし、賢者は意地になって学ぼうとする」

どうだろう。ぼくがひねくれているせいかもしれないが、命題の前段にはうなずけるが、後段には首をかしげてしまう。この命題の書き手は、学ぶことを教えることの優位という前提に立っているのだ。学ぶことと教えることのいずれかが他方の上位であるはずがない。対象が何であれ、やみくもに意地を張らないのが賢者であり、対象が何であれ、いつも意地を張るのが愚者ではないか。賢者は素直で淡々としており、愚者は色めき立つのである。というわけで、もう一度読み替えてみる。

「賢者は学び教え、愚者は学びたがり教えたがる」

これはこれで行間を読まねばならない一文になってしまった。愚者と賢者の本質や相違を語るとき、一文でスマートに表現しようなどと思わないほうがよさそうだ。最近名言集の類がもてはやされているが、格言や箴言は「点」である。「点」は読み損なうことが多いから、時々「線」にも親しむべきなのだろう、愚者だからこそ。こう自覚したぼくは、いったい愚者なのか賢者なのか。

過剰と不足

需要と供給の経済学ではなく、サービスを施す人々の接遇や態度や表情などにまつわる過剰と不足の話。

守破離に見る型の心得とは似て非なる要領がある。「そんな守るためだけのマニュアルなど解体してしまえばいい」と常々考えてきたし発言もしてきた。案の定、「過激だ」とよく批判された。批判されて困ったわけではなかったが、わざわざ下手に世渡りすることもないだろうと考えて、あっさりと言い換えることにした。「くだらないマニュアルなど解体してしまえばいい」と。くだらないマニュアルとしたら、一気に賛同者が増え始めた。要するに、マニュアル必要論者にしても、くだらないマニュアルにはブーイングしているのだ。

くだらないマニュアルが、まっとうな人たちにくだらない所作やことば遣いを強いる。そして、強いられて日々繰り返しているうちに、臨機応変や融通がサービスの原点にあることをすっかり忘れてしまう。マニュアルを遵守しようとすれば、下手に気など利かせてはいけない。応用的な思考を完全に停止させて、ひたすらアルゴリズムに従う必要がある。やがてまっとうな人が音声合成機能付きの自販機みたいになってしまう。


今日の午後、博多方面ののぞみの切符を新大阪駅で変更したら、車両の最前列、ドアのすぐ前の席になってしまった。昼寝するつもりもなく、別にその場所に不満はなかった。乗客の出入りは頻繁であるが、読書の妨げにはならない。新神戸駅の手前、ドアが開いてワゴンサービスの女性の声が耳をつんざいた。職業柄、彼女たちの声はメタリックで車両の後方までよく響く。すぐそばで突然発声されるとびっくりする。顔もメークアップしているが、笑顔も声もメークアップしている。そして丸暗記された定番のセリフ。

心理学を学んだことは一度もないが、他人の言動をつぶさに観察すれば、したくてしているのか、やむなくしているのかの違いくらいはわかる。疲れていて笑顔を浮かべるのもつらい時があるだろう。それでも、サービスのプロフェッショナルたるもの、マニュアルがあろうとなかろうと、仕事への情熱をごく自然に言動に現してしかるべきである。

ぼくもそうだが、客の立場になると人はわがままに振る舞う。かまってくれないと文句を言い、かまわれすぎると放っておいてくれと言う。しかし、難しいことを突きつけているのではない。「良い加減」でいいのである。ワゴンサービスも車掌もドアから出入りする時に一礼などいらない。このバカ丁寧な所作、作り笑い、ノイズに近い呼び声は過剰である。くだらないマニュアルが垂範する数々の不自然な造作を見るにつけ、プロフェッショナル精神の不足に気づく今日この頃だ。

正解幻想論

「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

これは魯迅が残したことばだ。相田みつをにも「歩くから道になる 歩かなければ草が生える」という表現がある。

伝えようとしたニュアンスは微妙に違うのかもしれないが、「人はすでにできている道を歩いたのではなかった。歩いたところに道ができた」という意味はほぼ同じ。

これら二つの言に頭を巡らせていると、問題と解答の関係によく似ていることがわかる。つまり、正解など最初からどこにもなく、問題を解こうと努めることによってのみ正解が生み出されるということだ。解こうとする試みが答えを導くのであって、解こうとしなければ何も見えず混沌とするばかりなのである。

ここで注意しておきたいのは、〈起点→→→終点〉において、終点という到達点だけが問題解決なのではないという点だ。ソリューションとは「水溶液中でモノが徐々に溶けていく過程」を意味する。「→→→」が解を求める苦心の過程なのである。終点で正解が得られるかどうかは誰にもわからない。しかし、自ら正解をひねり出そうと努めたことは必ず将来に生きてくる。


「正解が見つからない、だからわからない」と言うのと、「正解などないから、わからない」と言うのでは、同じわからないでも覚悟が違う。前者は不安に苛まれ焦りに到る。他方、後者は潔く観念している。諦めているのではなく、「正解などどこにもない」と割り切っている。つまり、正解は自ら創造するしかないという思いがある。

「この場面ではどんな手を打つべきでしょうか?」と相談されても、それに対する助言はぼくの考える正解である。その「道」をお手本にするのはいいかもしれないが、同じ道を歩いてもしかたがない。もっと言えば、この質問者がぼく以外の誰かに同じ質問をして、まったく別の助言を求められたらどうするのだろう。結局のところ、自分で決めるしかないではないか。人の意見に右往左往するくらいなら、自力で未体験ゾーンに飛び込んで考えるのがいい。

正解は「発見」するものではない。「発明」するものである。どこかの国のように偽装と捏造は困るが、自らの創意工夫によって正解を生み出すのである。

魯迅や相田みつをの言に反して、今の時代、道はどこにでもあるかのように見える。しかし、たとえそうであっても、自分が歩むべき道は自分でつくるしかない。正解を求めるのに急な現代人は、他人のつくった出来合いの高速道路をすぐに走りたがる。途中の過程を短縮化してひたすら目的地へと向かう。誰もが同じく陳腐な答えばかりを出しているのはこのせいである。

自前の証明

誰の言なら信じられるのか? 

たとえば「当店は黒毛和牛専門店です」や「わたしたちは安全安心の食材を使っています」などのメッセージ。メッセージそのものの真偽を見極める専門性からほど遠いとき、ぼくたちは発信源の信頼性をチェックする。「Pxxxである」という主述関係において、xxxの確かさはわからないが、発信者であるPがひとまず信頼に値するなら、「Pxxxである」を暫定的に承認するしかないのである。

P自身が「Pxxxである」と言う。そしてぼくたちがPを信じれば「Pxxxである」も必然的に信じることになる。「Pxxxでないかもしれない」という不安が一瞬よぎっても、信じているPがそう言うのだから受け入れるしかない。危ういマインドコントロールだが、よくある話である。では、P以外の誰か、たとえばQが「Pxxxである」と言えばどうだろう。このとき、ぼくたちは瞬時にQPの信頼性を比較する。「Q教授は、P大臣が大バカだと言っている」という文章において、無意識のうちにQPの偉さ(またはバカさ加減)を天秤にかけている。

あることの正しさを証明するのは必ずしも科学だけの仕事ではない。いくら実験を重ねた数字を示されても、信なきところに証明はありえない。はっきり言うと、信とは「悪くないね、いい感じだね」である。どれだけ張り切って証明しようとも、証明しようとする本人自身が不信の念を抱かれていれば話にならない。広辞苑では、証明力は「証拠の実質的な価値で、裁判官の心証に影響を及ぼす力」とある。心証とは心に受ける印象のことだから、証明には多分に「信頼感」の支えが必要なようだ。


プロ野球の審判だった二出川延明が、アウト・セーフの判定を巡っての抗議に対して「俺がルールブックだ」と言い放った。半世紀以上も前のエピソードだ。二出川本人による「二出川がルールブックだ」という発言が真実なら、「俺が絶対、他の権威は無用」という強弁である。まるで古代ローマの弁論家のようなたくましさではないか。

ラテン語の句、“ipse dixit”は「彼自身言った」という意味で、独断的な主張をおこなう際に用いられたという(小林標『ラテン語の世界』)。「彼が……と言った」という文において、「彼が言った」ということは確かだが、「……」の部分の信憑性はまったく証明されてはいない。「彼が言った」ことを認めても、「彼」を信じていなければ人の心は動かない。証拠も論拠も証明に不可欠な要素だが、証明者が怪しければどうにもならぬ。

では、時折テレビのコマーシャルで「私が証明です」とやっている、化粧品会社の女性社長のメッセージなんかはどうなのだろう。二出川の「俺がルールブックだ」ほど神がかってはいないが、「私が証明です」は私が証拠であり論拠であると主張している。こちらもなかなか自信たっぷりである。しかし、このメッセージだけでは商品の優秀性は証明できない。証明はひとえに当の「私」にかかっている。どうやら、証明ということを突き詰めていくと、究極は自分自身を自前で証明することになるようだ。ブランドはこうした証明の一つの印にほかならない。

自問自答という方法

十代でディベートを体験してから、「問いと答え」は最大関心事の一つになっている。8月の私塾でこのテーマを取り上げるので、ここしばらく意識がそこに向かざるをえない。この暑いさなか、決してすがすがしい主題ではないが、仕事である。仕事を前にして不機嫌な顔をしてはいけない。

一般的に問いはクエスチョンマークを伴うが、広く考えれば、前提や条件や原因などにも問いの機能がぶら下がっている。ところで、ぼくは問いが求める答えを自分なりに二つに大別している。じっくりと構想できる、猶予のある答え(a)と、挑発されて即興性を求められる答え(b)である。(a)はスタミナとロングショット。(b)は瞬発力とクローズアップ。他者から問われて答えるときは(b)が、自問自答の場合は(a)が重要になる。

不審に思われて「名前と職業は?」と聞かれ、「ええっと……」と遅疑逡巡していてはますます怪しまれる。考える余地のない、たった一つの答えしかなければ、さっさと言ってしまえばよい。ディベートが難儀なのは、答えが見当たりもせず思い浮かびもせずという状況で、相手のきつい尋問に応じなければならない点である。「そんなことは神に聞いてくれ!」と苛立つのを我慢して、笑みを浮かべて「そうですね、実は」と即時即答しなければならない。しかも、具体的に。「うやむや世界」に逃げ込むのは、政治家を見ていてお分かりの通り、潔くないし、カッコ悪い。


どういうわけか、学校教育は「問答」や「尋問」にあまり関心を寄せない。それどころか、「つまらん質問をするな!」という教師がいたりもする。学生はいつも問われる側にいる。そして、条件反射のように「問われれば答えようとする」(答えないとテストで点数が取れないから)。では、彼らは問われなくても「答えることができるか?」 おそらくノーである。なぜなら、答える前に問わなければならないからだ。この問いは自分への問いにほかならない。実社会では質問すらしてくれないことがある。自問自答できない人間には生きづらい環境だ。

「下線部の意味に近いものを次の中から選べ」というテスト問題がある。また、「次の文章を読んで、考えを四百字以内で書け」という問題もある。これらの設問はタイプが違うとされていて、後者を論文問題と呼んだりする。しかし、ぼくから見れば、これらの問いは同じである。「誰かに問われてから答える」という意味で同じである。もし問いがなければ、あることばに近い意味の用語を考えようとしないだろうし、文章について感想を書こうとしないだろう。外部からの刺激を待つ「反応型人間」はこうして生まれる。

問いを待ってはいけないのである。他者からの問いがあろうがなかろうが、つねにテーマや課題に対して問いかける。問わなければ、ソリューションも工夫も考えつかない。必ずしも明快で満足できる答えが編み出せるとはかぎらないが、「問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(ウィトゲンシュタイン)を拠り所にしようではないか。但し、自問自答という方法には偏見が宿りやすいので気をつけねばならない。

「役立つ」ということ

あまり時間帯がよくないので視聴できていないが、NHKのテキスト『100de名著』は初学者にはお勧めだ。4月がニーチェ『ツァラトゥストラ』、5月が『論語』、6月がドラッカー『マネジメント』、そして7月は福沢諭吉『學問のすゝめ』。このうち、『マネジメント』を担当していた講師が、ドラッカー学会代表の上田惇生である。本題そのものはうまくまとまっているが、「知識や教育も変化を続けている」という項に気になるくだりがあった。

(……)役に立たない知識を教養と考えている人は、まだ少なからず存在します。たとえばいまだに欧米ではラテン語を必須科目としている学校がある。論理性を養うためだとか、他の外国語を学ぶ基礎になるといった理屈をつけてラテン語を教えていますが、実際にはラテン語教育は今や何の役にも立たなくなっています。

この前段で、知識には役に立つものと立たないものがあり、今という時代は生きた知識、使える知識が求められる時代になってきたと述べている。少々ラテン語を齧った身としては、この意見は勇み足ないしは短絡的と言わざるをえない。最初から知識が役に立つか立たないかなどは勉強してみなければわからない。往々にして、役立つと思って学んだことが役立たず、役立ちそうもないと値踏みしていたら、後日大いに仕事にプラスになったなどということは常である。


欧米文化圏の礎であるラテン語が役立たずならば、この島国固有の平安時代の古語など必須教科にする意義などまったくなくなってしまう。ここに、上記の講師とまったく正反対の意見がある。「情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある」(白取春彦『勉学術』)。そして、ラテン語の意義を次のように説く。

ラテン語は古代に生まれた言語であり、現代世界ではもっぱらカトリック神父たちが共通語として使っているだけである。そんな古色蒼然とした言語が、知識として常に有効であり応用範囲が広い(……)。現代世界に通用している主流言語がラテン語を基礎にしているのである。だから、英語やフランス語やドイツ語がわからなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できる(……)。

実際のところ、現代の社会や技術の大半の概念は、ラテン語から用語を借りて成り立っている。役に立たないどころか、なくては困るほどの恩恵を受けているのだ。ラテン語役立たず論を展開するなら、「マネジメント」という術語も概念もありえない。英語の“manage”はイタリア語の“maneggiare”に由来する。この用語の起源は〈ラテン語“manus(手)不定詞語尾“-are”〉に遡る。「手で馬を訓練する」という意味だった。現代イタリア語にも「手で扱う」とか「調教する」という意味がある。英語の“management”にしても、第一義は今もなお「どうにかこうにか(工夫をして)やり遂げること」なのだ。経営や管理という抽象概念に先立って、このニュアンスが強い。

折りを見てラテン語の独習本に目を通すことは、少なくともぼくには役立っている。ことばを軽く流さないで、一歩踏み込んで考えることに役立っている。役立つか役立たないかは時代が決めるものではない。個々人にとっての有用性こそが重要なのである。ある種のご婦人にとって真珠は有用であり、豚にとっては無価値である。役立つことの一般化には誤謬がつきまとうものだ。

食性について

一ヵ月前になるだろうか、ある動物園の飼育員がテレビで冗談抜きの表情で語っていた。「(腹を空かしているときに)この中に入るとやられてしまいます」。この中とはジャガーの檻だ。ジャガーとは猛獣のジャガーである(ジャガー横田ではない)。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与えている。赤ん坊の時から何年も飼育しているのに、中には入れない。

エサをもらっている姿を見ると、なついているように見える。だが、「ジャガーは懐いているようでも、いつでも(私を)狙っているんです」と飼育員は言う。ジャガーにとって動く標的はすべて獲物。お世話になっている飼育員もジャガーの食性内の食物にすぎない。ジャガーからすれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない「健気けなげさ」や「親しみ」や「信頼性」などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめ首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまう。実は、ジャガーは食材を調達して食事をしているのである(なお、動物園のジャガーは調達しなくてもよいのだが、自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員は狙われる)。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の〈食う・食われるの関係〉において、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうはありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこに損得などはなく、自然の摂理ではめったなことではバランスが崩れることはない。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生の草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。これに対して、「広食」しているのが人間。日本人はその最右翼だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はラーメン、夜は焼肉、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば……と、まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておこう。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などと躾けている話を聞いたことがない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。