「役立つ」ということ

あまり時間帯がよくないので視聴できていないが、NHKのテキスト『100de名著』は初学者にはお勧めだ。4月がニーチェ『ツァラトゥストラ』、5月が『論語』、6月がドラッカー『マネジメント』、そして7月は福沢諭吉『學問のすゝめ』。このうち、『マネジメント』を担当していた講師が、ドラッカー学会代表の上田惇生である。本題そのものはうまくまとまっているが、「知識や教育も変化を続けている」という項に気になるくだりがあった。

(……)役に立たない知識を教養と考えている人は、まだ少なからず存在します。たとえばいまだに欧米ではラテン語を必須科目としている学校がある。論理性を養うためだとか、他の外国語を学ぶ基礎になるといった理屈をつけてラテン語を教えていますが、実際にはラテン語教育は今や何の役にも立たなくなっています。

この前段で、知識には役に立つものと立たないものがあり、今という時代は生きた知識、使える知識が求められる時代になってきたと述べている。少々ラテン語を齧った身としては、この意見は勇み足ないしは短絡的と言わざるをえない。最初から知識が役に立つか立たないかなどは勉強してみなければわからない。往々にして、役立つと思って学んだことが役立たず、役立ちそうもないと値踏みしていたら、後日大いに仕事にプラスになったなどということは常である。


欧米文化圏の礎であるラテン語が役立たずならば、この島国固有の平安時代の古語など必須教科にする意義などまったくなくなってしまう。ここに、上記の講師とまったく正反対の意見がある。「情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある」(白取春彦『勉学術』)。そして、ラテン語の意義を次のように説く。

ラテン語は古代に生まれた言語であり、現代世界ではもっぱらカトリック神父たちが共通語として使っているだけである。そんな古色蒼然とした言語が、知識として常に有効であり応用範囲が広い(……)。現代世界に通用している主流言語がラテン語を基礎にしているのである。だから、英語やフランス語やドイツ語がわからなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できる(……)。

実際のところ、現代の社会や技術の大半の概念は、ラテン語から用語を借りて成り立っている。役に立たないどころか、なくては困るほどの恩恵を受けているのだ。ラテン語役立たず論を展開するなら、「マネジメント」という術語も概念もありえない。英語の“manage”はイタリア語の“maneggiare”に由来する。この用語の起源は〈ラテン語“manus(手)不定詞語尾“-are”〉に遡る。「手で馬を訓練する」という意味だった。現代イタリア語にも「手で扱う」とか「調教する」という意味がある。英語の“management”にしても、第一義は今もなお「どうにかこうにか(工夫をして)やり遂げること」なのだ。経営や管理という抽象概念に先立って、このニュアンスが強い。

折りを見てラテン語の独習本に目を通すことは、少なくともぼくには役立っている。ことばを軽く流さないで、一歩踏み込んで考えることに役立っている。役立つか役立たないかは時代が決めるものではない。個々人にとっての有用性こそが重要なのである。ある種のご婦人にとって真珠は有用であり、豚にとっては無価値である。役立つことの一般化には誤謬がつきまとうものだ。

アマノジャクな読書観

平成20年に国会で国民読書年の決議がおこなわれ、今年がその〈国民読書年〉であることをご存知の方も多いだろう。ちなみに「こくみんどくしょねん」と入力したら、「国民毒初年」と変換された。何だか初めて食べるフグの毒にあたりそうな雰囲気だ。たとえ文字離れに読書離れが進んでいるとは言え、また出版界に少数の勝ち組が出現するものの頻度は稀で大半が発行即消滅というご時勢とは言え、国民の読書人口の逓減を国家や有識者や出版業界に嘆いてもらうことはない。

国民読書年のスローガン、「じゃあ、読もう。」が情けなさに輪をかける。「じゃあ」はどんな叱咤や説教に反応しているのか。「きみ、本を読んだほうがいいよ」とか「立派な人間になりたければ読書が一番だ」とか言われての「じゃあ、読もう」なのか。たしかに「そこまで言うなら、しかたがないな、読んでやろう」と聞えてくるようでもある。意地悪じいさんのようにひねくれずとも、そのような含意を感じてしまう。

そうではなく、「みんな本は好き? じゃあ、読もう」というニュアンスか。それなら、幼少年期に一斉にみんなで本を読もうというのもいいだろう。読書が教養の基礎になるのは自明だから、早い時期に習慣を刷り込んでおくことは悪くない。だが、国民全体を視野に入れれば、一人前の人間に読書の必要性を説いたり書物への回帰を促したりするのは余計なお世話だ。読書体験はあくまでも個別なものであり、何をどのように読むか、いや、読むか読まないかまで自分で画策すればよろしい。

印象的なユダヤ格言がある。「ユダヤ人は本を読まない。本を書く」というのがそれだ。なるほど、本を読むのは消費行動であり本を書くのが生産行動であるならば、経済的には本を書くほうが理に適っている。だいたい、インプット過剰でアウトプット不足というのが一般人の知の収支状況だから、赤字から黒字に転換するには、勉強という仕入れをほどほどにして創造や表現を志向すべきだろう。学ぶ者以上に教える者が学ぶのは真理である。好きでもない本を無理やり読むくらいなら、ブログの一つでも書いているほうが勉強になるのかもしれない。


人からどうのこうのと言われて読書するほど不愉快なことはない。「読め」と命じられたら読みたくなくなるし、「読まなくてもいい」と慰められたら読んでみたくなる。とりわけぼくなどはへそ曲がりなので、自分の読みたいように本を読めないのならば、本など読む必要がないとさえ思っている。成人がこの場に及んでハウツーづくしの読書術を指南される姿は決して格好のいいものではない。

どういうわけか、ぼくは周囲の人たちから読書家と思われている。正直に言うと、中高生の頃は、本を読むのが好きだったわけではなく、むしろ苦痛に感じていたのである。活字を追うよりも絵を見るほうがわくわくしたし、ページを捲るよりも音楽の流れに乗るほうが好きだった。だいいち、どんなに本を読んでも内容を覚えていることなどめったにない。それでも「読まないよりは読むほうがいい」と思いなして、無理に読んでいただけの話である。

しかし、これではあまりにも情けないので、絵画や音楽に親しむように読んでみようと心掛けた。絵は何度も見るし音楽は何度も聴くではないか。せっかく読んだのだから何がしかの成果をアタマに残しておきたい、ならば本も再読すべきなのだろうと思った。しかし、記憶しておいてどこかで使ってやろうなどという魂胆はない。ぼくにとって読書は純然たる教養行為であるか、あるいは思考を誘発するためのきっかけにすぎない。だから、目次に目を通し、少し読んでみて教養にも思考の刺激にもならないと判断したら、中断する。また、冒頭の書き出し数行で立ち止まり、そこでずっと考えて残りのページを読まないこともある。

そのような読み方も含めれば年間百冊ほどの本を読んでいるだろうが、この歳になって何冊読んだとか、どんな本を読んでいるかを自慢してもしかたがない。職業的読書人ならともかく、ぼくたちは誤ってディレッタンティズムに陥ってはいけないのである。