当世マーケット雑感

「利己から利他の時代へ」とつぶやかれる。わかってはいるけれども、懐具合がよろしくない。景気がかんばしくない時代、かつての「損して得取れ」は通用しそうにないのである。高度成長時代の真っ只中、接待漬けは当たり前だった。下流の職種にある人々は上流の顧客に対して接待攻勢をかけた。そして、それなりの見返りがあったのである。

利益はついてくるものである。利益の前によい仕事をすることが必須である。ゆえに、目先の小さな利にこだわらず利を先に送る教えも成り立つ。たしかに信用と安定の時代には通用したのであるが、今となっては一度損をしてしまうと後々に利として回収できる保証はない。小さな損はさらに大きな損になる可能性を秘めている。利他という綺麗事ばかりでは生存が危ういことも現実味を帯びてきた。

「損して得取れ」にぼくはある種のさもしさ、腹黒さを逆に感じてしまう。プロフェッショナルとしての倫理を保っているのなら――そして、よい仕事にコミットしているのなら――「ほどよい利」を取ることに遠慮はいらない。利は懐を温めるだけではなく、よい仕事を続けていくための条件の一つなのだ。大欲で利を貪るのは戒めなければならないが、今の時代、下手にピンチを招いてしまうとチャンスの芽が摘まれてしまう。ピンチはチャンスと鼓舞されてぬか喜びしていてはいけない。


ぼくのような年齢になるとIT不感症になりがちである。パソコンを使うだけでも精一杯だ。スマートフォンやタブレット型のPCまで手が回らない。若い人はぼくをフェースブックに誘ってくれるが、まだ踏ん切りがつかない(ツイッターははじめから捨てている)。しかし、同時に、新時代の利器に億劫であってはならないとも思う。先日デジタルカメラのSDカードがパソコンで動作しないので、量販店で調べてもらった。子細は省くが、いろいろと教わりSD対応のケーブルを買ったらうまくいった。最新のIT情報についていくのはつらいが、四苦八苦はよいトレーニングになっていると思いなしている。


先週の講演会で久しぶりにジョー・ジラードの話をした。そして、「人は商品を買うのではなく、人を買う」という名セリフを紹介したのである。ここまで豪語できるセールスマンはそうは多くはないだろうが、商品を売っているのは人であることは間違いない。どんなメディアを通じて商品を買おうが、人は人から商品を買っている。ぼくたちが手掛ける広告、イベント、販促活動は商品を売るためであるが、もっとたいせつなのは、売る人と買う人を支援しているという発想である。人が売りやすく人が買いやすくするための環境づくりという視点からマーケットを眺めてみると、アイデアがいろいろと浮かぶ。


「折り込みチラシを作ったら、競合相手に真似られた。どうしたらいいでしょう?」という相談を受けた。悩み? その経営者にとってはそうらしいが、なぜ悩むのかぼくにはわからない。真似られるのは「本家としての認証」を得たことである。類似することによって顧客が向こうに流れるから、部分的には機会損失になるだろうが、お互いさまだ。相乗効果を期待するくらいに腹を据えておけばよろしい。もし真似されるのが嫌なら、真似が不可能な商品なりサービスなりを取り揃えるしかない。一番真似しにくいのは人である。人で差異化するのがいい。

コンセプトと属性

使用頻度が高いにもかかわらず、適訳がないため原語のまま使っている術語がある。ぼくの仕事関係では〈コンセプト(concept)〉がその最たるものだろう。ちなみに社名の「プロコンセプト研究所」の中でも使っている。近いのは「概念」ということばだが、これでは響きが哲学的に過ぎる。「核となる概念」や「構想の根源」などは的確に意味を示せているものの、こなれた日本語とは言えない。やむなくコンセプトをそのまま流用することになる。

商品コンセプトや企画コンセプト、さらには広告コンセプトなどとも使われる。多分にイメージを含んではいるが、イメージとは呼ばない。「こんな感じ」と言って誰かと共有するのもむずかしい。“Conceive”という動詞から派生したのだから、やっぱり「考えたり思いついたりすること」である。ならば、その商品で、その企画で、その広告で一番伝えたい考えや命題を言い表わすものでなければならない。ことばに凝縮表現できてはじめてコンセプトなのである。

企画を指導するとき、コンセプトは欠かせないキーワードになる。「もっとも重要な考え」という意味では〈ビッグアイデア(big idea)〉と呼んでもいい。「この企画で一番言いたいこと、伝えたいことは何か?」とぼくはしょっちゅう質問している。言いたいこと、伝えたいことがぼんやりしているうちは、まだコンセプトが見つかっていない、あるいは作り込まれていないということだ。企画をモノにたとえたら、モノの最重要属性を決めかねているなら、「これがコンセプト!」と答えることはできない。


リンゴとは何か? 定義を知りたければ辞書を引けばいい。手元の『広辞苑』には「バラ科の落葉高木、およびその果実」と書いてある。さらに読む進むと、「春、白色の五弁の花を開き、果実は円形、夏・秋に熟し、味は甘酸っぱく、食用(……)」とある。だが、企画において「リンゴとは何か?」と尋ねるときは、リンゴのコンセプトを聞いている。「リンゴの最重要属性は何か?」、または「リンゴの売りは何?」とずばり問うているのである。定義はコンセプトと同じではない。

リンゴには形があり、色があり、味がある。場合によっては、好敵手のミカンと対比されたうえでの「関係性」もある。半分に切れば、そこに断面が現れるし、そのまま皮を剥けば白い果実に変身する。黒い鉛筆で描いたモノクロのリンゴの絵を二歳の子に見せたら、「リンゴ」と言った。では、ただの赤い円を見せても「リンゴ」と言うだろうか。いや、言わない。幼児にとって、リンゴの最重要属性は色ではなく、ミカンやイチゴとは異なる、あのリンゴ特有の形なのである。

赤い色は大半のリンゴに共通する属性の一つである。しかし、同時に、赤い色はリンゴ固有の属性ではない。リンゴをリンゴたらしめているのは色や味ではなく、どうやら他の果物とは異なる形状のようである。話を企画に戻す。企画のコンセプトもかくあらねばならない。もっともよく差異化され固有であると言いうる属性をコンセプトに仕立てるのである。「際立った、それらしい特性」を抽象して言語化したもの――それがコンセプトだ。抽象とは引き出すことであるが、この作業には「それらしくない性質」の捨象しゃしょうが伴う。何かを「く」ことは別のものを「捨てる」ことにほかならない。

語句の断章(7) 万端

この歳になるまで、「万端ばんたん」を単独で使った用例にお目にかかったことがない。単独用法があるのかもしれないが、ぼくの知るかぎり、準備万端か用意万端のいずれかである。類義語に「万般ばんぱん」があるが、これも「万般の準備を整える」のように使い、辞書には「万般にわたるご支援」という用例もある。しかし、「万端にわたってお世話になり……」などは見たことも聞いたこともない。「万事」は万般に近く、事柄のすべてを意味する。しかし、万端は事柄だけでなく手段も含んでいそうである。

彼はメールで「万端を排してやり遂げる」と書いた。「そこは万端ではなく、万難だろう。万難を排して、だろう。万難とは困難や障害のことだから、排除したり克服したりする。万端には悪い意味など微塵もない」と指摘した。彼は何かのきっかけで「万端を排す」と覚えてしまったらしいのである。むずかしく考えることなどない。万難は「すべての困難」、万端は「すべてのはし」である。

自分が心得ている慣用句や用法が正しくても、そこに居合わせる自分以外のその他大勢に「あなた、間違っている!」と言われたら、なかなか説得しにくくなる。あまりお利口さんでない人や勘違いしている人たちがいるところでは、辞書を携えているのが望ましい。かく言うぼくも誤用のまま使ったりうろ覚えしたりしていることが時々ある。彼のミスを「他山の石とせねばならない」と思う。この用法はおそらく正しい。

遠近にとらわれない記憶

記憶に遠近感があることに誰もが気づいている。脳には遠い記憶と近い記憶が入り混じって同居している。直近の事件や事故は大きく見え即座に想起できるが、実質的にはより深刻だった過去の事件や事故が小さく見え意識に上ってこない。高齢になると例外的に逆の現象が起こるが、病理的な原因もあるだろうし、最近の出来事への関心が薄れるという理由もあるだろう。美空ひばりの思い出が強く、AKB48には興味がないという場合などだ。直近の事柄が記憶にすら入っていないから、想起できないのもやむをえない。

数百年前の人々が生涯に見聞してきた情報量に、現代人はほんの数日もあれば曝されてしまう。日々忙しく生きているから「点情報」を動態的に追い掛ける。憎しみや悲しみはさっさと忘れてしまいたいという心情もある。しかし、忘れることができても、憎しみや悲しみはいくらでも更新される。マスコミは情報を垂れ流すし、ぼくたちも最新の事件ばかりに目がくらむ。大震災があって津波があって原発事故があった。悲惨である。しかし、すべての媒体が「悲しい色」に染まるべきではなかった。NHK教育テレビぐらいは子ども向け番組を編成してずっと放送し続けてもよかったのではないか。

直近の悲劇を深刻に受け止める代わりに、その直前までに起こっていた大小様々の問題や怠慢や失態を忘れる。もっと恐いのは、やがて一段落すると、次なる目先の「どうでもいい芸能ニュース」が復活し始めることである。実際、そうなりつつある。熱しやすく冷めやすいと揶揄され続けてきた国民性だ。何度も見てきた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がまた蘇りそうな空気が漂う。執念や執着のプラス側にも目を向けておきたい。同時に、どんな悲劇があっても、それまでの幸福や恵みを忘れてはならない。


口の中に入った瞬間は熱くてたまらないから身に染みる。しかし、いったん飲み込んでしまえば、喉を火傷していないかぎり、ついさっきの熱さもすぐに忘れてしまう。苦い経験も苦痛も、過ぎ去れば忘れる。嫌なことをいつまでも覚えているのはストレス因になるから、忘却は脳生理学的には健全であるとも言える。人間は「忘却の生き物」なのである。しかし、よいことも忘れる。恩も忘れる。学んだことも教訓も忘れる。あれほどまでに憤り憎しんだ記憶も彼方に消える。カレー事件はすぐに思い浮かぶか、耐震強度偽装問題はどうか、食品偽装の数々はどうか。裁判で結審の報道があるたびに、「そう言えば、そんな事件があったなあ」という始末である。

記憶全体の地図上で行き先の一点のみを見ているようなものだ。直近の外部からの刺激に過剰反応して行動するのは、「目の前のエサしか見えないカエル」と同じである。カエルをバカにするわけにはいかない。あまりにも多種多様な情報が飛び交っているから、同時にあれこれと想起し考えられなくなっている。やむなく一つずつ処理する。目の前の事柄のみに日々追われる。まるで情報浮浪民である。

点しか見ないから、昨日の点を忘れる。点と点がつながらない。過去からの経験が連続体として生かされず、今日の記憶から過去の記憶が排除されてしまっている。記憶の線が途切れれば、論理的思考どころではなく、刹那的発想しかできなくなる。一見すると、〈いま・ここ〉の生き方をしているようだが、〈いま・ここ〉を通り過ぎるばかりで、〈いま・ここ〉に集中し注力しているわけではない。遠近両用の記憶を保つためには、もっと頻繁に過去や歴史への振り返りをするほかない。場合によっては、瑣末な最新情報に目をつぶることも必要ではないか。

「だから?」と言いたくなる時

誰が言ったか忘れたが、「人は頭で納得して動くわけではない」という発言が耳にこびりついている。いつもそうとはかぎらないし、人それぞれなのではないかと反発した。だが、冷静に考えてみれば、「ぼくたちは必ずしも・・・・頭で、あるいは理性的に納得して行動するとはかぎらない・・・・・」と丁寧に――つまり、現実に即して部分否定的に――読み下せば、このコメントは間違いではないだろう。問題は、この発言に続くべき「だから……」が抜け落ちている点だ。

「人は頭で納得して動くわけではないから、説得する側はこうせよ」と言いたいのか、「人は頭で納得して動くわけではないが、そんなことではダメだぞ」と言いたいのかが語られていない。素直に尋ねてみよう、「人は頭で納得して動くわけではない。だから?」 もう一つ聞いてみよう、「では、人は何に納得して動くのか?」 さらにもう一つ。「人は発作的に動いたり思いつきで動くのか?」 これらの問いにまっとうな答えが返ってくる気がしないのはぼくだけだろうか。

相手に頭で納得してもらおうとする人は、おそらく論理的説得を試みる。したがって、この発言は「論理的説得で人を動かせるわけではない」と置き換えられる。しかし、そこで終えてはいけない。それはやむをえないと言うにせよ、ハートに訴えかけよと言うにせよ、前言をつなぐ意見を明らかにしなければ、ただの評論的な独り言で終わってしまう。「人は頭で納得して動くわけではない」という言説に分があるのなら、誰も頭を説得しようとしなくなるだろうが、適当な説得や衝動的な納得でいいわけでもないだろう。


定期的に送られてくるメルマガに次のようなくだりがあった。

「日本人は情緒的な民族でロジックが苦手です。理詰めで考えることに違和感を持つ人が多いのではないでしょうか。」

「人は頭で納得して動くわけではない」と似通っている。論理や情緒の話になると、なぜこうもステレオタイプな一般論が平然とまかり通るのか、不思議でならない。「あなたは情緒的で、ロジックが苦手、おまけに理詰めで考えることに違和感を持っているだろ?」と言われて、どんな気分になるか。これは「あなたはバカです」と言われているに等しいのである。

「日本人は論理は苦手だが、繊細で感性にすぐれている」などという論評は通俗的にすぎるし、かなり認識不足と言わざるをえない。仮にこの主張が現実を正しく言い当てているとしても、それでいいのかと問うのが論評する者の義務である。そう問い掛けて、このままでいい、いや、このままではいけないと意見を述べてもらわねば、時間を割いてメルマガを読んでいる意味がない。

深刻化する原発問題を見て、わが国の世論が情緒的解決を望んでいるのか。まさか。論理的思考に違和感を強めているとはとても思えない。仮にロジックが苦手であっても、この局面で「理詰めで考えることが苦手です」などと言っている場合ではないのである。それはそうと、世界の民族を情緒優位系と論理優位系などに二分することはできるのだろうか。もしできるのならば、アメリカ人などはどちらに属するのか、聞いてみたいものである。

たとえば米軍の「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」は情緒的なのか論理的なのか。情緒的動機から生まれた論理的行動なのか、それとも論理的判断に基づいた情緒的行動なのか。こんなことは永久にわからないし、問う意味もないだろう。なぜなら、どう考えるかは定義次第だからだ。ついでに言えば、米軍は壊滅された東北の街を救済する作戦も立てるし、リビアの市街地を破壊する攻撃作戦も立てる。両方を同時にやってのける。この状況を見て、「だから……」という意見や論拠を持つべきだろう。ぼくには頭以外の納得も説得の方法も思い浮かばない。

時間の目測感覚

「時間がわかる」のは大人の証である。時間という、見えない何か――おそらく概念――についての感覚を子どもたちに語り教えることははなはだむずかしい。毎日食べて遊んで学び、何年もかけて他者とともに生きていくうちに、生活と心身のリズムが一つになって時間を認識するようになる。ぼくたちは時計によって具体的に時間を認識するが、時計がなくても時間感覚は身に染みついてくるようになる。やがて瞬間瞬間の連なりを時間の流れとして感じる。

今日が月曜日だとしよう。そして、仕事の期限が金曜日の正午だとしよう。このとき、四日間と数時間という時間の目盛は万人に同じである。しかし、こと時間の目測ということになると、能力や段取りとも相まって、人それぞれの感覚が生まれてくる。あまり仕事上手でない人間が「まだだいぶ時間がある」と考えたり、処理能力の高い者が期限の目印をごく間近に見ているということがありうる。

歩いて5分の距離を「遠い」と感じたり、何十キロメートルを「近く」と感じたりする。誰かが言っていたが、オーストラリアで隣の牧場でパーティーがあるから行こうと誘われたので気楽に応じて出掛けたら、車を飛ばして1時間もかかったらしい。ぼくも、10年ほど前に帯広に滞在した折り、帯広の知人の「もう一泊して陸別の別荘に行きませんか」という申し出にオーケーしたことがある。とても近いと言われたからだが、実際はたぶん100キロメートル以上で、2時間半ほどかかったような気がする。


二段一気に上がれると見込んだ階段なのに、実際には一段半しか足が上がっていない。若かりし日々の駆け上がりの記憶、老いかけている硬い足の筋肉という現実。身体的な運動神経の現実を脳が目測違いしているのである。人柄がよくて人懐こいAさんに気軽に親しく声を掛けたら、怪訝な顔をされた。親近感と礼儀の目測を誤ったらしい。テリトリー感覚の相違かもしれない。距離と同じく、時間の目測感覚も人によってだいぶバラつきがある。

時間の目測間違いには想定間違いという甘さも含まれる。3日後にできると思っていた仕事だが、ふいの来客とクレーム対応に追われて、結果的に5日後になったなどというケースだ。さらに、リズムも時間の目測に影響を与える。生活リズムと仕事リズムである。そして、このリズムは性格、ひいては楽観主義や悲観主義などの人生観によって大いに左右されると思われる。新幹線にギリギリに乗り込む者はいつもたいていそうなるし、半時間以上余裕をもって喫茶してから早めに指定席に着く人はいつもそうしている。

「楽観主義者はドーナツを見るが、悲観主義者はドーナツの穴を見る」という表現がある。時間感覚に置き換えるとき、時間を少なめに感じるほうが仕事のミステイクや遅延は少ないだろう。実際、時間はたっぷりあるようで、あっという間に過ぎていく。ゆったりと過去を回顧したり未来に想いを馳せるのも悪くないが、こと仕事に関しては身を引き締めるように時間を目測すべきだろう。なお、楽観主義者がドーナツを、悲観主義者がドーナツの穴を見るが、ドーナツをさっさと食べてしまうのが現実主義者である。

語句の断章(6) 注文

今さら取り上げるまでもなく、〈注文ちゅうもん〉の意味は明々白々である。「カツ丼を注文する」「飲み物の注文を取る(または注文を聞く)」などの用例が示す通り。注文する、注文を取るという段階ではすでに対象が特定されている。カツ丼を注文して親子丼が出てくることはない。なお、飲み物や食べ物だけではなく、希望や条件を注文することもある。この場合、「注文をつける」という使い方をする。注文をあれこれとつけられる側は「小うるさい」という印象を持つ。

宮沢賢治に『注文の多い料理店』という短編がある。客に対して店側から注文がつけられるのだが、それがうまい料理にありつける条件と思いきや、実は客が食材として料理されてしまうという話。

出張先でチェーンの牛丼店に入った。久しぶりだった。そこで目撃したのは「注文の多い客たち」であった。食事時間わずか10分ほどの間に、誰かが「つゆだく」と言い別の誰かが「つゆなし」と注文をつけた。次いで聞こえてきたのは初耳の「タマネギ抜き!」だ。タマネギを抜いたらもはやそれは牛丼とは呼べないのではないか。以前、天丼の店で「上天丼。海苔とシシトウ抜きで」と注文をつけた男がいた。これは並のエビ天丼にエビが一尾トッピングされたものにほかならない。

何でもかんでも小さなニーズに細かく対応することが店のサービス方針になってしまっている。客も客なら、店も店なのである。メニューに載っているものを注文されたら、味加減も含めて自慢のレシピで料理を堂々と出し、客は出されるままに口に運べばいいではないか。牛丼店には望むべくもないが、物分りがよくて融通が利きすぎるのも考えものである。 

大量、集中、高速、反復

重厚長大じゅうこうちょうだい〉が遠い昔の幻影のごとく虚ろに見える。重くて分厚くて長くて大きいものが日本経済を支えた時代があった。造船、鉄鋼、セメント、化学などの産業が重厚長大の代名詞。半世紀前のこの国では「大きいことはいいこと」だったのである。しかし、高度成長時代の終焉とともに、そしてエレクトロニクスやサービス業の台頭もあって、重厚長大産業は急激に人気も業績もかんばしくなくなった。

代わりに主役に躍り出たのが〈軽薄短小けいはくたんしょう〉だ。多分に語呂合わせの要素もあるので、何もかもが軽く薄く短く小さくなったわけではない。省エネルギーや環境負荷の軽減の掛け声には軽薄短小のリズムがよく合ったようである。実際、身近な商品は多分にその方向にデザインされ製造された。とは言え、どれが軽薄短小かと自宅の中を見渡してみても、薄型テレビ、携帯電話、ノートパソコンくらいなものである。冷蔵庫や洗濯機は間違いなく大型化している。思うに、軽薄短小は目に見えない電子部品やソフトウェアを強く象徴したのだろう。

それはともかく、頼もしい雰囲気、語感という点で重厚長大に軍配を上げたい。「きみは軽薄短小な人だね」と形容されては喜べないだろう。環境負荷が大きくてエネルギーを食う重厚長大よりも優れているつもりで命名したはずの軽薄短小。なのに、なぜこんな響きの四字で命名してしまったのか。重↔軽、厚↔薄、長↔短、大↔小と、一文字ずつの漢字の単純反語を並べたのはいいが、もう少し知的に響かせる工夫があってもよかったのではないか。


ノスタルジックに重厚長大を志向する経済社会の復活を願うものではない。資源は希少であるから軽薄短小的に使うほうがいいだろう。ただ、ヒューマンリソースを同じように扱うことはない。個人の知的生産活動にあたっては軽薄短小に落ち着いてしまってはいけないと思う。読書も語学もその他の趣味も、大量かつ集中的に高速でおこなうのがよく、できれば何度も何度も繰り返すのがよい。何かに精通して生産的になるためには、大量、集中、高速、反復の要素が欠かせない。才能の有無にかかわらず、である。

大量、集中、高速、反復は、ムダな資源をダラダラと長時間浪費しないための心得だ。長時間取れないという前提、少なくとも決めた時間内だけの知的活動という前提に立っての条件なのである。大量とは、素材、すなわち情報に関わる条件である。多品種でも少品種でもいい、できるだけ多く扱い触れるようにする。以前3時間かけていたところを1時間でおこなう。これができれば、同時に集中と高速が実現していることになる。ぼくは速読の理解効果に関しては半信半疑の立場にあるが、速読の大量・集中・高速の効果を否定はしない。

しかし、勇ましい大量・集中・高速だけで終われば、バブリーな重厚長大の二の舞を演じてしまいかねない。知的生産活動には忍耐というものが必要だ。忍耐とは飽くことなく繰り返すことにほかならない。反復という単純行為は、大量・集中・高速で触れた素材を確実に記憶庫に落とす最上の方法なのである。記憶媒体や電子機器のなかった時代によく実践されたのは、音読であり紙に書くという身体的トレーニングであった。結局、読書にしても語学にしても、短時間で反復するほうが効果が上がっている。「継続反復は力なり」という格言を作ってもいいと思う。

すべて人次第

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記に「鋳物は型次第」のことばがある。これを、完成品に先立って構想や設計図が重要だと読み替えてみる。あるいは、「結果は前提に支配される」と抽象化してみる。「内実は形式に従う」でもいい。鋳物なら型の枠や形状が目に見えるが、型には見えないものもある。そのつど手が型を作る仕事もある。手で作った型がそのまま実になる仕事である。

少しジャンプする。もし「仕事は道具次第」ならどうだろう。仕事を極めてしまえば、後は道具で決まるというプロフェッショナルもいる。実際、「水彩画は紙次第」や「バイオリン演奏は楽器次第」という説がないわけではない。素人が「マイクが悪いからうまく歌えない」と言い訳するのとはわけが違う。そこで、ぼくにとって「それ次第」と言い切れる道具とは何かと考えてみた。しかし、企画をしたり講演したりするうえで、この道具でなければならないものなど思いつかない。筆記用具、紙、手帳、パソコン、マイク、演台……別に上等でなくてもいい。

仕事の出来はいいのに報われない。「講演は聴衆次第」や「企画は評価者次第」などと言いたくなる時もあった。しかし、そんな身の程知らぬ愚痴はもう20年前に卒業した。うまくいかない時はすべて人徳の無さ、実力不足と思いなすしかないのである。いずれにせよ、「ぼくの仕事は何々次第」の何々はぼくの技術・力量以外に見当たらない。ぼくのいる業界では、幸か不幸か、フランスの最高水彩紙アルシュやバイオリンのストラディバリウスに相当するようなものはない。出費が少なくて済むという点では、間違いなく幸いなるかな、である。


しかし、ダ・ヴィンチの原点に戻れば、「仕事は型次第」なら大いにありそうだ。固定した型などないかもしれないが、何がしかの型は仕事に先立ってつねに存在する。構想の型、企画の型、構成の型、手順の型、話しぶりの型、情報の型……探せばいくらでも出てくる。そして、この型を選び決めるのは、仕事をする本人以外に誰もいない。言い換えれば、「型は本人次第」というセオリーも見落とせなくなるのである。

さて、ここまで来れば、昔から繰り返されてきた「道具は使う者次第」にも共感せざるをえない。制度や仕組みや集まりの会を作る。インフラストラクチャでも法律でも何でもいい。明らかなことだが、作るだけで何もかもがうまく機能することなどありえない。機能させるには、意志と行動と能力が欠かせないのだ。道具を買い求める。その瞬間から便益が得られるわけではない。使う者の、善用に向けての良識が働かなければならない。

刃物も車も薬も、期待される通りにまったく同じ使われ方をすることなどない。すべての書物、すべての交通手段、すべての建物が同じ価値をすべての人々に供するわけではない。これらを便宜上すべて道具と呼ぶならば、人それぞれの道具の生かし方が存在する。「道具は使う者次第」とは、人が道具によって試されるということだ。道具を使う者が万物の尺度に値する良識を持ち合わせていることを願うしかない。

語句の断章(5) 推敲

書きっぱなしにして胸を張れるほどの文才に恵まれないから、書く行為に続けて文体や表記を整える編集は欠かせない。但し、書くのと同じ視点で編集はおこないがたい。いったん書いた文章を突き放さなければならない。日本語ならまだしも、外国語の場合は徹底的に読み手側に立たねばならない。英文ライティングを生業としていた頃、文体や表記の厳密さに舌を巻いた。千ページに近い分厚いスタイルマニュアルで調べるたびに、よくぞここまで細かく規定するものだと感心した。

〈ウィドウ(widow)〉と〈オーファン(orphan)〉という、見た目に関する禁忌事項がある。ウィドウとは未亡人、オーファンとは孤児のこと。いやはや過激なネーミングである。日本語の「段落の泣き別れ」に近いが、もっと厳しい。ウィドウとは、段落の最終行が次のページの一行目にくる状態である。短い文章だと宙ぶらりんに見える。オーファンには二つある。一つは、ページの最終行が新しい段落の一行目になる状態。もう一つは、ページの最終行が短行になったり段落の最終行が一語だけになったりする場合である。いずれも孤立したように見えて落ち着かないし、可読性も悪い。

上記のことは編集上のルールなので、明快である。しかし、〈推敲すいこう〉と呼ばれる語句の練り直しに決まりきったルールがあるわけではない。作者自らが納得の行くまで表現や語感を研ぎ澄ます。五七五の余裕しかない俳句などにおいては推敲そのものが作品を形成すると言っても過言ではない。先日、古本屋で函に入った立派な『芭蕉全句集』を買った。前後して『日本語の古典』(山口仲美著)を読んでいたら、『奥の細道』にまつわる推敲のエピソードに出くわした。高校の古典の教師に聞かされたか別の本で読んだような記憶がある。

静寂な空間に大舞台を連想させる、「しずかさや岩にしみる蝉の声」が完成するまでの練り直しの過程が紹介されている。最初に「山寺や石にしみつく蝉の声」が詠まれ、次いで「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と書き直された。これら二作なら自分でも作れそうだと思ってしまう。下の句の「蝉の声」だけ変化していないが、動詞は「しみつく」、「しみこむ」、「しみいる」と変化している。このように比較すると、「しみいる」が絶対のように見えてしまうから不思議である。なお、蝉の種類についてはアブラゼミかニイニイゼミかで論争があったそうだが、岩にしみいるのは「チー……ジー……」と鳴くニイニイゼミだろうという結論のようである。

「文章をチェックしました」よりも「文章を推敲しました」と言われるほうが信頼性が高そうに思える。「すいこう」という音の響きには文章が良くなったという印象が強い。推敲は「僧推月下門」に由来する。中国は唐の時代の賈島かとうという詩人の詩の一句だが、門をすの「推す」を「たたく」にするかどうかで迷っていた。韓愈かんゆの奨めで「推」を「敲」に変えたので、推敲が字句を練ることに用いられるようになったのである。

スタイルや表記の統一はある程度可能だが、こだわり出すと推敲は延々と続く。類語辞典を引いて、類語が三つや四つならいいが、何十とあると困り果てる。推敲は重要な作業ではあるが、語彙以上の表現やこなれ方を欲張ってはいけないのだろう。