遠近にとらわれない記憶

記憶に遠近感があることに誰もが気づいている。脳には遠い記憶と近い記憶が入り混じって同居している。直近の事件や事故は大きく見え即座に想起できるが、実質的にはより深刻だった過去の事件や事故が小さく見え意識に上ってこない。高齢になると例外的に逆の現象が起こるが、病理的な原因もあるだろうし、最近の出来事への関心が薄れるという理由もあるだろう。美空ひばりの思い出が強く、AKB48には興味がないという場合などだ。直近の事柄が記憶にすら入っていないから、想起できないのもやむをえない。

数百年前の人々が生涯に見聞してきた情報量に、現代人はほんの数日もあれば曝されてしまう。日々忙しく生きているから「点情報」を動態的に追い掛ける。憎しみや悲しみはさっさと忘れてしまいたいという心情もある。しかし、忘れることができても、憎しみや悲しみはいくらでも更新される。マスコミは情報を垂れ流すし、ぼくたちも最新の事件ばかりに目がくらむ。大震災があって津波があって原発事故があった。悲惨である。しかし、すべての媒体が「悲しい色」に染まるべきではなかった。NHK教育テレビぐらいは子ども向け番組を編成してずっと放送し続けてもよかったのではないか。

直近の悲劇を深刻に受け止める代わりに、その直前までに起こっていた大小様々の問題や怠慢や失態を忘れる。もっと恐いのは、やがて一段落すると、次なる目先の「どうでもいい芸能ニュース」が復活し始めることである。実際、そうなりつつある。熱しやすく冷めやすいと揶揄され続けてきた国民性だ。何度も見てきた「喉元過ぎれば熱さを忘れる」がまた蘇りそうな空気が漂う。執念や執着のプラス側にも目を向けておきたい。同時に、どんな悲劇があっても、それまでの幸福や恵みを忘れてはならない。


口の中に入った瞬間は熱くてたまらないから身に染みる。しかし、いったん飲み込んでしまえば、喉を火傷していないかぎり、ついさっきの熱さもすぐに忘れてしまう。苦い経験も苦痛も、過ぎ去れば忘れる。嫌なことをいつまでも覚えているのはストレス因になるから、忘却は脳生理学的には健全であるとも言える。人間は「忘却の生き物」なのである。しかし、よいことも忘れる。恩も忘れる。学んだことも教訓も忘れる。あれほどまでに憤り憎しんだ記憶も彼方に消える。カレー事件はすぐに思い浮かぶか、耐震強度偽装問題はどうか、食品偽装の数々はどうか。裁判で結審の報道があるたびに、「そう言えば、そんな事件があったなあ」という始末である。

記憶全体の地図上で行き先の一点のみを見ているようなものだ。直近の外部からの刺激に過剰反応して行動するのは、「目の前のエサしか見えないカエル」と同じである。カエルをバカにするわけにはいかない。あまりにも多種多様な情報が飛び交っているから、同時にあれこれと想起し考えられなくなっている。やむなく一つずつ処理する。目の前の事柄のみに日々追われる。まるで情報浮浪民である。

点しか見ないから、昨日の点を忘れる。点と点がつながらない。過去からの経験が連続体として生かされず、今日の記憶から過去の記憶が排除されてしまっている。記憶の線が途切れれば、論理的思考どころではなく、刹那的発想しかできなくなる。一見すると、〈いま・ここ〉の生き方をしているようだが、〈いま・ここ〉を通り過ぎるばかりで、〈いま・ここ〉に集中し注力しているわけではない。遠近両用の記憶を保つためには、もっと頻繁に過去や歴史への振り返りをするほかない。場合によっては、瑣末な最新情報に目をつぶることも必要ではないか。