百科事典の思い出

想定外の浪人生活が始まったので、予備校に行くことになった。しかし、授業料だけ払って2ヵ月ほどでやめた。受けた授業は何一つ覚えていない。ただ講師だけ一人覚えている。そして、その講師が脱線して話したエピソードだけ一つ覚えている。

その先生は一揃えで当時20万円もする百科事典を2セット買うというのだ。自宅の書斎に2セットとも置くのだが、1セットは通常の調べものに使う。もう1セットをどうするのかと言えば、出張や外出時に持って行く。もちろん全巻を携えることはできない。先生は、百科事典の任意の巻の任意のページを適当に破り取ってポケットの中や鞄に入れ、出先で読むのだそうである。そして、読み終わったら、行き先でそのページを捨ててしまう。同じものが自宅にあるから、いざと言う時はそれを読めばいいというわけ。もったいない。しかし、その驕奢きょうしゃぶりを羨ましくも思った。

当時すでに普通紙複写機(PPC)は開発されていたが、ほとんど流通しておらず、主流は青焼きであった。記録メディアはマイクロフィルムだったのではないか。これが40年ちょっと前の話。今では情報は複写も圧縮もやりたい放題となった。テレビの通販では100種類もの辞書や事典と名作全集を内蔵した電子辞書を2万円程度で売っている。もう紙の百科事典に出番があるようには思えない。所蔵するにしても、自分の寝床と同じくらいのスペースを食われてしまうのがつらい。


「百科事典よさらば!」という心境なのだが、何を隠そう、捨てるに捨てられない百科事典を持っている。それは“Encyclopaedia Britannica”1969年版だ。これが当時軽自動車一台に相当するほど高価なもので、給料の安かった父に無理やり買わせたことを今でも申し訳なく思っている。ある程度は活用し英語力の向上にもつながったが、投資に見合った回収ができているとは言い難い。しかも、自宅に所蔵スペースがないので、ここ20年、オフィスの書庫の奥に放ったらかしにしてきた。

紙の百科事典の弱点はそのボリュームにある。もう一つの弱点は情報更新ができないこと。ぼくの事典では1968年までの史実や事象しか調べることができない。ところが、よくよく考えると、弱点はこの二つ以外に見当たらない。この二つにさえ耐えることができれば、少なくとも使い道があるのではないか。書庫の奥に追いやられている気の毒な“Encyclopaedia”を前にしてそう思った。埃をかぶっていても、百科事典は〈Encyclo=すべての+paedia=教育〉なのだ。

近代や近世、さらには中世や古代にまで遡れば、あの事典でけっこう間に合う。今さらながら再認識したが、適当にページを繰って行き当たりばったりに読むおもしろさもある。必要な情報、役に立つ情報を求めていたのに、いつの間にか脱線したり支線に入ったりしている。やがて、あることを知るためには、ピンポイント情報だけでは不十分で、あれもこれも知らねばならないことに気づく。それならインターネットも同じ? たしかにほとんど同じである。違いは、ページをめくりながら書き込みできることと、全何十巻という全体が見えていることである。これは見捨てたものではない。また、やりたいことが一つ増えてしまった。

語句の断章(11) 観照

何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語、それが「観照かんしょう」である。

現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が観照という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が“contemplate”となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

この動詞は現代イタリア語では“contemplare”で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている。「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

するとどうだろう、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」と言ったダ・ヴィンチの真意が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。「理性は感性の限界を補う俯瞰や見晴らしをもたらす」というような意味のように思われる。

なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。

効果を見極める

一つの原因から一つの結果が生まれるようになれば、分析も予測も誰がやっても同じになるに違いない。たぶんものの見方もアタマの使い方も簡単明快になるはず。科学至上主義への懐疑も霧消して、科学は完璧主義という地位を獲得する。いや、運命決定論的にすべてを支配することも夢ではない。同時にそのことは、ハプニングや意外性やユーモアやジョークのない、さぞかしおもしろくない世界になるだろう。

ぼくのような浅学の身でも、少しでも考えようと頭に鞭打つのは、原因と結果の関係が定まらないからだ。直接・間接の原因があり、遠因と近因があるし、アリストテレスによれば質料因、作用因、形相因、目的因も考慮せねばならない。さらに、これらが混ざり合って一つの結果が生まれているわけではなく、結果も複合的であることがほとんどだ。因と果がぴったり対応しないからこそ、固定観念を反省したり創意工夫をする気になったりもする。原因も結果もよくわからないのは不安定だが、苦労せずによくわかってしまうよりもずっと精神衛生上はいいはずである。

医者に行く。「どうされましたか?」と聞かれ、「ちょっと熱があるんです」と答える。「咳は?」「時々出ます」などのやりとりの後に胸と背中に聴診器が当てられて、やがて「どうやら風邪ですね」と所見が下されて納得する。だが、なぜ風邪を引いたのかまで深く顧みることはない。仮にここ数日間を振り返ってみたところで、原因はわかりそうもないし、一つともかぎらないだろう。二、三日して体調が戻る。よくなった原因が薬だったのか、よく睡眠を取って休息したからか、あるいは自然治癒したのかは不明である。


一度でもお試しサプリメントを注文すると、その後しばらくDMが送られてくる。以前、そんなDMの一つにグルコサミンとコンドロイチン配合のサプリメントやサメのコラーゲンの案内があった。「足首や膝に痛みを感じたり階段を上り下りしたりする時に思うように動けない、脚力や関節に不安がある、そんな方にぜひ」というふれこみである。無料お試しを申し込んだのも、たしか同じような文言に反応してのことであった。

テレビにもDMにも折り込みチラシにも消費者の声が紹介されている。「歩くのも階段の上り下りも楽になった」と異口同音の摂取体験談。足に「何だか」力が入るようになり、痛みも「気にならなくなってきた」と言う。はたしてサプリメントは効いたのか。それとも、サプリメント摂取を機に、よく歩くようになり軽い運動すら始めるようになったからか。関節の痛みが改善されたのが、健康食品か新しい生活習慣なのかはわからない。

サプリメントや薬物には自己暗示を促す効果があるのかもしれない。プラシーボ効果である。ところで、こんなことを考えていくと、落ち込んでいたので買物をしたら気分がよくなったという因果関係にも同じことが言えるかもしれない。ふと、ぼくの研修もプラシーボなのではないかとの思いがよぎる。おっと、とんだヤブヘビになってしまった。残念ながら、直接効果のほどは証明のしようがない。ただ、改善や向上に努めようとするきっかけの一つになっていてほしいと願うばかりである。

嗚呼、商売センス

職住ともに大阪市中央区である。大阪城から徒歩10分圏内、行政機関が集中している地域だ。歴史のある街で、かつては熊野参詣の起点として栄えた。八軒家浜の名残があり、この船着場に京洛からの産品が届けられていた。その大川では七月の天神祭に船渡御ふなとぎょが執りおこなわれる。『プリンセストヨトミ』のロケ地にもなった空堀からほり商店街もこのエリアにある。ところが、マンションもテナントビルも、空堀ならぬ「空洞化」の気配が漂い始めた。

これで行政機関が大挙して移転でもしたら泣き面に蜂である。すでにテナントオーナーらは対策を講じるべく勉強会を立ち上げている。起業してオフィスを構えてから24年、住まいを移してから5年半が過ぎた。変遷を目の当たりにしてきて、繁栄よりも凋落のトレンドを肌身で感じる今日この頃だ。ランチタイムで出掛ける200メートル四方にかぎってみると、20年以上続いている店はおそらく十指かそこらだろう。

威張れるような経営をしてきたわけではないし、商売のセンスがいいとも思わない。誠実に仕事をしているのでどうにかこうにか生き残っているが、血眼になって商売をしてきたと胸を張れない。しかし、消費者としては賢明であると自負しているし、顧客として店や商売人を見る目はあると思う。その視点からすると、このマーケットで立地して失敗してきた飲食業の典型が浮かび上がる。オーナーたちはあまり研究していない。①夜と土曜日で苦戦する、②地下で苦戦する、③メニューで苦戦する――これらが失敗に到る3大要因である。


当該エリアは官庁・ビジネス街だから、昼間人口は多い。良心的にやっていれば、昼は常連客がつく。健闘している店なら、800円のランチを百人にさばいているだろう。問題は、①の夜間である。大半の仕事人は、飲むなら帰路になるキタかミナミへ繰り出す。まずまず頑張っている店は、夜のターゲットを地元住民に定め、夜に飲食してもらえるよう工夫している。そんな店には土曜日の夜もお客さんが入る。

次いで②だが、成功例は二、三軒のみ。ビル地下では何度も店が替わっている。それでも、什器備品がそのまま使えることもあって、しばらくすると次の店が入る。

最後に③。ターゲットを絞り込んでいないからメニュー戦略を誤ってしまう。昼にアボガド丼やエスニックはダメである。また、夜のご馳走過剰もダメである。ビル地下で夜をメインにした鯨料理店があったが、あえなく3ヵ月で「反捕鯨状態」。絵に描いたような三つの苦戦ぶりであった。飲食業のためにアイデアを出す相談を何度か頼まれたが、総じて頑固なオーナーが多い。アドバイスを求めているくせに、アイデアを提供すると、「そうは言うものの……」と守りを固めて前例を踏襲する。

頑固とこだわりは商売人のDNAだから、やみくもに否定はしない。それならそれで、もう少し個性的なスタイル――たとえば無愛想と偏屈を売りにする職人芸など――を見せてほしいものである。ミスター・ビーンでおなじみの著名なコメディアン、ローワン・アトキンソンが英国の商売人についてこう書いている。

「小さな事業をしているのに、お客が来るのを嫌うのはイギリス的なんだ」

これは逆説的に読まなければならない。ヨーロッパではこんな商売人をよく見かける。うわべのお愛想を振りまくよりもよほどましで、さほど悪い気がしない。おそらく、お客さんを徹底的に絞り込んで、抑制のきいた商売をしているからに違いない。

観察は個性を投影する

企画力と言うと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に〈ア・プリオリな概念〉として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

しかし、観察――とりわけ視覚に強く依存した観察――に見誤りはつきものである。そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはない。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。


「ようし、観察するぞ」とりきむ企画の初学者は、ありのままの現実を正しくとらえるのが観察だと思ってしまうのである。観察は現実の細密な写実画であるのだと勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。

食性について

一ヵ月前になるだろうか、ある動物園の飼育員がテレビで冗談抜きの表情で語っていた。「(腹を空かしているときに)この中に入るとやられてしまいます」。この中とはジャガーの檻だ。ジャガーとは猛獣のジャガーである(ジャガー横田ではない)。その飼育員は檻の外にいて箸で生肉をつまみ、鉄格子越しにジャガーに与えている。赤ん坊の時から何年も飼育しているのに、中には入れない。

エサをもらっている姿を見ると、なついているように見える。だが、「ジャガーは懐いているようでも、いつでも(私を)狙っているんです」と飼育員は言う。ジャガーにとって動く標的はすべて獲物。お世話になっている飼育員もジャガーの食性内の食物にすぎない。ジャガーからすれば、人間は食物連鎖的に自分よりも下位なのである。「いつでも狙っている」という表現に、ぼくたちが愛してやまない「健気けなげさ」や「親しみ」や「信頼性」などの感覚が吹っ飛んでしまった。「エサはエサなんだよね」というジャガーの、クールでドスのきいたつぶやきが聞こえてきそうだ。

肉食獣が草食動物を追いつめ首筋を一撃する。次いで、腹を食い破って内臓を頬張るシーンを見て、残酷だと思う。しかし、この光景はリスがクルミの殻を割って実を食べ、クマが蜂蜜を捕って食べ、人が山芋を掘ってトロロ飯を食べるのと何ら変わらない。動物対動物の食物連鎖の血生臭さゆえに、ジャガーが草食動物を「襲っている」という印象を強く抱いてしまう。実は、ジャガーは食材を調達して食事をしているのである(なお、動物園のジャガーは調達しなくてもよいのだが、自力での調達本能を失ってはいない。この本能があるからこそ、飼育員は狙われる)。


食性について考えていくと、必然食物連鎖に辿り着く。絶滅危惧種を案じるものの、食物連鎖に関わる植物・動物の〈食う・食われるの関係〉において、食う側のみが生き残り、食われる側が滅びることはふつうはありえない。経済論理では食う側(捕食者)ばかりが得して食われる側(被食者)が損することになるが、食物連鎖はそんな単純なものではない。そこに損得などはなく、自然の摂理ではめったなことではバランスが崩れることはない。

味にせよ食物にせよ、動物には一定の食性がある。シカは生の草を食べている。塩・コショウやドレッシングを使っている様子はない。コアラは無添加ユーカリ一筋、イワシは動物性プランクトンが主食である。ほとんどの動物は食性的には「挟食」を特徴としている。これに対して、「広食」しているのが人間。日本人はその最右翼だ。一昨日の昼はフレンチ、夜は煮魚、昨日の昼はラーメン、夜は焼肉、今日の昼は鶏の竜田揚げにお惣菜、夜は天ぷらそば……と、まさに日替わり。こんなに手広く何でも食べる雑食人種は他にいない。

ぼくはこれまで出されたものを一度も拒んだことはない。だから、好き嫌いや食わず嫌いをする者の気持ちがわからない。それでもなお、食性のことを考えれば、何でもかんでも食べることなどないと偏食者を擁護しておこう。欧米の子どもたちが納豆やコンニャクを嫌がっても、親が「好き嫌いを言わないの!」などと躾けている話を聞いたことがない。同様に、日本の子どもたちがピーマンやチーズを嫌がっても無理に食べさせることはない。嫌なものを無理に食べるよりも、好きなものをたくましく食べるのがいい。ジャガーのように。

語句の断章(9) 知見

わざわざこんな単語を使わなくても他のやさしい類語でいいのではないかと感じる時がある。いぶかしんで意図を突き止めたくなる。「知見ちけん」もその一つだ。

別に意見や見解や見識でもいいのではないかと言いたくなるが、意見と見解を分別できている自信はない。〈意見⊃見解〉、つまり意見が見解の上位集合らしきことは何となくわかる。見解のほうがフォーカスしている感が強い。見識は、見解に質の高い判断力を足したようなイメージだろうか。

少々小難しい本を読んでいると、著者が「私の知見では」などと言う。「私の意見では」とするのはダメなのか。辞典を調べて本の文脈にあたってみると、「なるほど、ここは知見でなくてはならない」と納得する。そんな著者は適語を選択しており語感もすぐれているのだろう。そうでない著者はたぶん「見せびらかし」に酔っている。

知見は「見聞に裏打ちされた意見」のことである。必ずしも体験でなくてもよさそうだが、実感が漲っていて「よく身につけている自信」を感じる。意見と知見を対比させると、意見は私見に近くて揺らぎそう。それが証拠に、発言直後にすぐ取り消されるのが意見の常だ。知見には筋金が入っていそうである。以上はぼくの”愚見”である。

なお、愛用している類義語辞典では、〔意見――ある物事について持っている考え〕を共通の性質として、次のような単語が列挙されている。

考え、論、意見、けん、所見、見方、観、見解、知見、了見、見識、一見識、一家言、私見、私意、貴意、高見、卓見、達見、達識、愚見、卑見、管見、浅見、探見、定見、偏見、僻見へきけん僻目ひがめ謬見びゅうけん臆見おっけん、創見、先入観、先入主、成心、色眼鏡、異見、異存、異議、異論、故障、主観、人生観、世界観、史観、政見。

どうだろう、知らなかった、知っていたが使えそうもないのがかなりの数あるに違いない。驚いたのは「故障」だ。故障とは「異議や反対意見」のことらしい。たしかに、「機械の故障」は機械による異議申し立てであり持ち主に対する反対意見ではある。

上記の中では「創見」が新鮮に見えた。「独創的な新しい考え」のことである。さっそくどこかで使ってみようと思うが、話しことばで使うと「総研、送検、壮健、双肩」などと同音異義語が多いからまず伝わらない。「爽健美茶」の略語と思われる可能性すらある。

未来をどこに見るか

自分の過ちを正直に認めない子どもに父親が言った。「ワシントンは、お前と同じ歳の時に、桜の木を切ったことを認めて謝ったんだぞ」。これに対して息子が言った。「ケネディはパパと同じ歳の時に、大統領だったんだよ」。

父親が息子を諭したのは、息子に未来の姿を垣間見たからである。ウソをついているようではまともな大人になれない。そこで、ワシントンという例を持ち出して、正直が立派な大人になるための条件であることを示そうとしたのである。ところが、子どもの切り返しはそれ以上だった。

亡くなった井上ひさしが『ボローニャ紀行』の中で書いている。

「日本の未来を考えようとよくいうけれど、日本も未来も抽象名詞にすぎない。こんな抽象的なお題目をいくら唱えても、なにも生まれてこない。だから日本の未来を具体化することが大切だ。では、どう具体化するか。それは、毎日、出会う日本の子どもたちをよく見ることだ。彼ら一人一人が日本の未来なのだ。彼らは日本の未来そのものなのだ。その彼らのために、わたしたち大人は、なにかましなことをしてあげているだろうか……」

この一節を読んで、「ドングリの実にはバーチャルな樫の木がある」を思い出す。「卵は圧縮された鶏のバーチャルリアリティである」という喩えもある。ドングリは未来の樫の木であり、卵は未来の鶏というわけだ。つまり、未来はある日突然降って湧くのではなく、現在にすでに宿っているのである。ピーター・ドラッカー流に言えば、「未来はわからないからこそ、すでに起こった未来を見ればいい」。現在のうちに何がしかの未来の予兆が感知できるはず。


「すでに起こった未来」とは「将来に続くだろう現在・過去」のことである。今夜暴飲暴食すれば、明朝という未来に体調不良に苦しむ。わかりきったことである。おおむね今日の頑張りは明日の成果につながるし、今日の怠惰は明日のツケとなって表面化する。リアリティとしての今日は「バーチャルな明日」と言い換えてもよい。「本を読んだかい?」に対して、「いや、まだ。でも、目の前に積まれた本はバーチャルな知だよ」と言うのは詭弁である。読んでいない本は、熟成させても読んだことにはならない。

企画研修で「構想の中にバーチャルな未来がある。いや、構想しなければ未来などない」と力説する。ぼんやりしていては明日などいっこうに見えてこない。もっと言えば、この瞬間に集中して対象に注力しているからこそ、未来への予感が湧き起こり未来への展望が開けるのである。

実は、現在や過去に自分の未来そのものや未来を創成するヒントを見つける方法がある。

一つは、歴史に温故知新することだ。箴言や格言の中には未来に向けての羅針盤になってくれそうな、おびただしいヒントが溢れている。

もう一つは、人間に自分の未来を見るのである。年長者と自分との間を対照的に見れば、年齢差の分の未来が忽然と現れる。ぼくは最近自分より若い人たちにそのように接するようにしている。ぼくの姿に彼らの10年後、15年後を見据えてもらえればありがたい。そこに情けない未来が見えるのなら、「反面未来」にすればいいのである。

問いは人を表わす

1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかる。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは」に近い。英語を学習し始めた当初、“How are you?”に対して、いちいち“Fine, thank you. And you?”とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。


インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や“OR”は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと……」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とは言え、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

一見すると、「ABか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるABが同格同等、かつ満足に関わる時、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。その時は、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

プロに期待すること、しないこと

知人の戯言たわごとも織り混ぜて気まぐれにプロフェッショナル論を書いてみる。

「ただ今の時間は薬剤師が不在ですので、この薬品は……」云々と札がかかっているドラッグストア。この時間帯、この店の店員さんに薬に関して専門的な説明を求めようとはしない。不躾ぶしつけでさえなければ、アマチュアで十分である。

以前住んでいた町内に「酒屋」と呼ぶにふさわしい、昔ながらの酒店があった。目当ての焼酎があったので尋ねたら、「知らないし、置いていない」と言う。では、やや辛口でさっぱりの麦焼酎を一本奨めてくれと言うと、「私、酒を飲まないんですよ」と照れ笑いする。タクシーに客を乗せてから、「すみません、私、運転できないんです」と言うよりはましだが、聞いてみれば、日本酒や焼酎のことをほとんど知らないのだ。「じゃあ、(新しい銘柄の何々)ビールを2缶ください」と言うと、「あ、冷えてないんで、表の自動販売機で買ってもらえますか」。忍耐と寛容は三、四番目にランクしているぼくの座右の銘なので、これしきのことでキレることはない。

ここ何年も行っていないが、ステーキと伊勢エビ専門の鉄板焼店でのシェフの手さばきは見事だと思う。少々デフォルメが過ぎるが、あれだけの料金を取るのだから、あれぐらいのエンターテイメントをしてもらってもいい。ところが、家庭用プリンターのインクカートリッジの販売に手さばきは余計だろう。若い男性店員が「お求めはこちらですね」と言って、棚から小箱を、まるでマジシャンのように指先で回転させるように引き寄せたのである。申し訳ないが、この技をぼくはプロに期待していない。

☆     ☆     ☆

プロフェッショナルと呼ばれているなら、楽な商売をしていてはいけない。そもそも、プロは小さな技術や経験の「足し算」で成り立ってなどいないのだ。英語、数学、国語などの教科の成績の合計がその学生の全人格を象徴しないように。辛口で言えば、「日々コツコツ努力していること」を自慢すべきではないのである。精度の高いルーチンワークを積み重ねた足し算だけでは不十分で、「掛け算効果」でぼくたちを圧倒するのが正真正銘のプロだろう。但し、掛け算だから、一つでもゼロがあるとすべてがゼロになる。それでこそ、厳しいプロの世界ではないか。

手間暇かけて素材を厳選し、レシピには独自の工夫を凝らし、見事な皿に繊細に料理を盛りつけるフランス料理店。そのフレンチの厨房の奥から電子レンジの”チン”の音がして、それが仕上げの温めだったりするとがっかりしてしまう。これではコンビニ気分にさせられる。いや、黙って”チン”するシェフよりも、一言「温めますか?」の声を掛けるコンビニの店員さんが良心的に見えてくる。

もし主婦が自分一人のお昼を冷凍うどんで済ませようと思うのなら、レンジで”チン”して生醤油をかけて食べればいい。何なら生卵を一つ落としてもいいだろう。しかし、テレビのコマーシャルではないが、ネギを切り、ゆずを用意し、自分で天ぷらまで揚げたのなら、冷凍うどんではなく、少なくとも半生のうどんをじっくりと七、八分間見張るように茹でてほしい。

プロに期待することを暗に書いてきたつもりだが、プロにとってもアマチュアにとっても「とことんやること」と「上手な手の抜きどころ」は同じなのかもしれない。