語句の断章(9) 知見

わざわざこんな単語を使わなくても他のやさしい類語でいいのではないかと感じる時がある。いぶかしんで意図を突き止めたくなる。「知見ちけん」もその一つだ。

別に意見や見解や見識でもいいのではないかと言いたくなるが、意見と見解を分別できている自信はない。〈意見⊃見解〉、つまり意見が見解の上位集合らしきことは何となくわかる。見解のほうがフォーカスしている感が強い。見識は、見解に質の高い判断力を足したようなイメージだろうか。

少々小難しい本を読んでいると、著者が「私の知見では」などと言う。「私の意見では」とするのはダメなのか。辞典を調べて本の文脈にあたってみると、「なるほど、ここは知見でなくてはならない」と納得する。そんな著者は適語を選択しており語感もすぐれているのだろう。そうでない著者はたぶん「見せびらかし」に酔っている。

知見は「見聞に裏打ちされた意見」のことである。必ずしも体験でなくてもよさそうだが、実感が漲っていて「よく身につけている自信」を感じる。意見と知見を対比させると、意見は私見に近くて揺らぎそう。それが証拠に、発言直後にすぐ取り消されるのが意見の常だ。知見には筋金が入っていそうである。以上はぼくの”愚見”である。

なお、愛用している類義語辞典では、〔意見――ある物事について持っている考え〕を共通の性質として、次のような単語が列挙されている。

考え、論、意見、けん、所見、見方、観、見解、知見、了見、見識、一見識、一家言、私見、私意、貴意、高見、卓見、達見、達識、愚見、卑見、管見、浅見、探見、定見、偏見、僻見へきけん僻目ひがめ謬見びゅうけん臆見おっけん、創見、先入観、先入主、成心、色眼鏡、異見、異存、異議、異論、故障、主観、人生観、世界観、史観、政見。

どうだろう、知らなかった、知っていたが使えそうもないのがかなりの数あるに違いない。驚いたのは「故障」だ。故障とは「異議や反対意見」のことらしい。たしかに、「機械の故障」は機械による異議申し立てであり持ち主に対する反対意見ではある。

上記の中では「創見」が新鮮に見えた。「独創的な新しい考え」のことである。さっそくどこかで使ってみようと思うが、話しことばで使うと「総研、送検、壮健、双肩」などと同音異義語が多いからまず伝わらない。「爽健美茶」の略語と思われる可能性すらある。

現実を押し売りする人たち

仕事中なのに、仕事とまったく無関係な文言が脳内を往来することがある。たとえば「行き詰まっているときは息詰まっている」とか何とか。「咽喉の痛みには特濃ミルク8.2」とか何とか。周囲に何かがあって、それを見た結果、ことばが浮かんでくるのではない。アタマの中の別の鉱泉からフツフツと湧き出てくるのだ。

考えれば考えるほど陳腐な常套句しか思いつかないこともある。表現の枯渇状態。その突破口になってくれるのが類義語辞典だ。調子のいい時はまったくお世話にならないが、一日中引きまくっている日もある。広辞苑や新明解を適当にペラペラめくることもある。見出し語との偶然の出合いに期待する。ついさっき、「きゅう【灸】」が目に入ってきた。そして、何年か前のある事件にタイムスリップしてしまった。


それは想像力を欠く情けない話であった。東京都の「鍼、灸、あんま、マッサージ、指圧師会」が、「灸を据える」はもともと治療行為である、それを懲罰という意味で辞書に掲載しているのはけしからん、定義を変更せよとケチをつけたのである。

そう言えば、さらにずいぶん昔、医師会もクレームを申し立てたことがある。テレビドラマで医者がタバコを吸う場面があり、それに対して「医者はそんなにタバコを吸わない」と怒ったのである。「そんなに」だったか「あんなに」だったか忘れたが、とにかく「医者にヘビースモーカーはいない」あるいは「そんなにスパスパ吸わない」とでも言いたかったようだ。しかし、例外的であっても、ヘビーに下品にタバコを吸う医者の一人や二人はいるわけで、それをネタにして何が悪いのか。医者が殺人事件を起こす物語はありえないのか。

お灸の話に戻る。ぼくはお灸は平気である。平気だが、家庭用の台付きモグサとは違って、専門家の施術時は若干の緊張が走る。鍼灸はある意味でストレスをかける療法で、痛くも痒くもなければ効果がない。一瞬の直線的熱さというか痛みというか、それを快とするか不快とするかは人が決めるものだ。実際、ぼくの周囲では鍼灸の未体験者は体験者よりも圧倒的に多い。

「灸を据える」が「痛い目に合わせる」という比喩表現に使われても構わないではないか(実際に使われてきた歴史がある)。それだけ一般汎用しているのは市民権を得ている証拠だ。専門家が考えるほど、ぼくたちは想像力欠如ではない。治療行為が現実で、ペナルティが比喩表現であることくらいはちゃんとわかっている。むしろ、現実だけを反映する一義的な意味しか持たないことばがいかに退屈かという点に想像を馳せてもらいたい。

ことばは現実を反映する。しかし、そこで止まらない。現実から乖離して跳びはねる。別の意味を取り込んだり別の意味が憑依したりする。だからこそ、ことばはおもしろい。