語句の断章(13) 逆説

「パラドックスについて、知っている?」と聞けば、「はい」と答える。次いで、「では、ジレンマとの違いは?」と続けると顔が曇る。ぼくも若い頃はこんなふうだった。何となく違いはわかるが、いざ説明する段になると困惑したものだ。

ジレンマは両刀論法と呼ばれ、陥ってしまうと決断に右往左往してしまう。「ぼくは生涯独身を貫くべきでしょうか、それとも結婚すべきでしょうか?」に対して、「独身は不幸だ。結婚も不幸だ。しかし、きみは結婚しないかするかのいずれかを選ばなくてはならない。ゆえに、いずれにしてもきみは不幸になるだろう」と推論を立てるのがジレンマである。この推論を立てたのはソクラテスらしいが、あくまでも論理学上の三段論法の一つの見本に過ぎない。こんな人生不幸観は現実的ではないのだ。

パラドックスはジレンマとは違う。パラドックスとは「逆説」のことである。当然、何もないところに逆説は生まれない。広く受容されている通説があるからこそ、逆説に出番がある。逆説ばかりを言う人間をアマノジャクとさげすむ傾向があるが、数えきれないほどの定説や正説が逆説によって覆されてきた。それが歴史というものだろう。

正しいと見なされている通説が危なっかしい時に逆説は唱えられる。たとえば、「疲れたらアタマを休めよ」にぼくたちは納得する。ずっとそう言われてきたしそうしてきたからだ。しかし、さほど疲れが取れないことにも気づく。そこで、「疲れたらアタマを使え」という逆説を実践してみる。実際、こうして成果を上げている人が大勢いるのも事実なのである。正確に言うと、「仕事Aで頭が疲れたら、仕事Bに頭を使え」。疲れたら何もしないのではなく、疲れたら対象を変えるという発想だ。

「負けは負け」なのに、「負けるが勝ち」と敢えて逆説を立てる。するとどうだろう、どう考えても表現的に奇妙な説からふつふつと真なるものが浮かび上がってくるではないか。「急がば回れ」も「急がば急げ」に対する逆説だったに違いない。一見真理に反するようだが、こちらも真理っぽいぞというのが逆説である。発想法の一つとして、頭が疲れたら逆説を唱えてみたらどうだろう。

蒼ざめる彼がいた

地下鉄の車内。ぼくの前、一列の座席に6、7人が座っている。そのうちの半数が携帯電話を触っている。車内をざっと見渡せば、34割が画面を見ているようだ。メールかゲームかツイッターかのいずれかに違いない。リベラルに考えるほうなので、マナーがどうのこうのと目くじらを立てない。一人で移動中なら本を読むのも瞑想するのも携帯を操るのも大差はない。

少々残念に思うのは、家族連れなのに、子どもそっちのけでメールに没頭している親の姿。それに、二人でいるのにそれぞれが携帯を眺めているという光景。会話することもないのなら、一緒にいる必要などないだろう。かく言うぼくは、出張で長距離・長時間の車中ではほとんど読書をするか何かを書いている。時々うたたねをし、時々携帯で将棋をする。しかし、アプリの対戦相手であるコンピュータは上級モードでもあまり強くないので、すぐに飽きてしまう。

相談をよく受ける。ぼくから招くことはほとんどなく、たいて相手から相談事があると言ってオフィスにやってくる。ほんの半時間のうちに相手の携帯が二度三度と鳴る。メールの音、着信の音。「ちょっとすみません」と言って部屋を出て応答しても、ぼくは顔色一つ変えないで戻るのを待つ。着信音が鳴り遠慮して応答しなければ「電話に出てくださいよ」と促す。話に熱が入って予定の時間を過ぎると、相手は部屋の時計にちょくちょく目をやる。おそらく次の予定の時間が迫っているのだろう。「今ここに集中できない、気の散る人だなあ」とは思うが、知らん顔している。


電源オフかマナーモードに設定するのを失念して、講演や研修の最中に携帯を鳴らせてしまう人もいる。案外多いもので、三回に一回の割合だろうか。こんな時もポーカーフェースで話し続ける。携帯の音に負けないようにほんの少し地声のボリュームを上げる。と、こんな話を知人にしていたら、その知人もほとんどの場合意に介さないと言う。ぼくも知人も寛容の人なのである。但し、この知人は同一人物に対しては二度までしか許容しないと付け足した。

業者さんの一人で、若手だがなかなか見所のある男がいたらしい。気に入ったので応接室に招き、談話をした。かかってきた電話にその彼はそのつど応対したらしい。知人は別に何とも思わなかったと言う。次に会った時にランチに誘った。その時も一度だけだが、席を立ってレストランの外へ出て電話に応答したようだ。ランチの最中に数分間中座したので、「食事に誘われていながら……」とは思ったが、「まあ、いいか」と思い直した。

後日。いい仕事もしてくれるので、行きつけのちょっと高級感のある小料理店に連れて行った。知人は極力仕事とは関係のない世間話や自分の経験談を肴にした。若い男も料理の三品目くらいまでは問いかけたり身の上話をしたりしたそうだ。しかし、ふいにスマホを取り出して、「すみません、ここは何という店ですか?」と尋ねてツイッターをし始めたというのである。三度目の正直、知人は切れた。「顧客と飯食って会話している時に、携帯に触るな!」と一喝した。状況を飲み込めず、呆然と蒼ざめる彼。

その後の取引関係がどうなったのか知らないが、知人は「過去形」で語っていたので、だいたいの見当はつく。ぼくは同じような場面でこのような一事が万事の行為をめったに取らないが、知人の対応に理不尽を唱えることはできない。いや、むしろ共感する次第である。携帯やスマホが悪いのではない。「心ここにあらず」が目の前の人に失礼なのだ。

自前の証明

誰の言なら信じられるのか? 

たとえば「当店は黒毛和牛専門店です」や「わたしたちは安全安心の食材を使っています」などのメッセージ。メッセージそのものの真偽を見極める専門性からほど遠いとき、ぼくたちは発信源の信頼性をチェックする。「Pxxxである」という主述関係において、xxxの確かさはわからないが、発信者であるPがひとまず信頼に値するなら、「Pxxxである」を暫定的に承認するしかないのである。

P自身が「Pxxxである」と言う。そしてぼくたちがPを信じれば「Pxxxである」も必然的に信じることになる。「Pxxxでないかもしれない」という不安が一瞬よぎっても、信じているPがそう言うのだから受け入れるしかない。危ういマインドコントロールだが、よくある話である。では、P以外の誰か、たとえばQが「Pxxxである」と言えばどうだろう。このとき、ぼくたちは瞬時にQPの信頼性を比較する。「Q教授は、P大臣が大バカだと言っている」という文章において、無意識のうちにQPの偉さ(またはバカさ加減)を天秤にかけている。

あることの正しさを証明するのは必ずしも科学だけの仕事ではない。いくら実験を重ねた数字を示されても、信なきところに証明はありえない。はっきり言うと、信とは「悪くないね、いい感じだね」である。どれだけ張り切って証明しようとも、証明しようとする本人自身が不信の念を抱かれていれば話にならない。広辞苑では、証明力は「証拠の実質的な価値で、裁判官の心証に影響を及ぼす力」とある。心証とは心に受ける印象のことだから、証明には多分に「信頼感」の支えが必要なようだ。


プロ野球の審判だった二出川延明が、アウト・セーフの判定を巡っての抗議に対して「俺がルールブックだ」と言い放った。半世紀以上も前のエピソードだ。二出川本人による「二出川がルールブックだ」という発言が真実なら、「俺が絶対、他の権威は無用」という強弁である。まるで古代ローマの弁論家のようなたくましさではないか。

ラテン語の句、“ipse dixit”は「彼自身言った」という意味で、独断的な主張をおこなう際に用いられたという(小林標『ラテン語の世界』)。「彼が……と言った」という文において、「彼が言った」ということは確かだが、「……」の部分の信憑性はまったく証明されてはいない。「彼が言った」ことを認めても、「彼」を信じていなければ人の心は動かない。証拠も論拠も証明に不可欠な要素だが、証明者が怪しければどうにもならぬ。

では、時折テレビのコマーシャルで「私が証明です」とやっている、化粧品会社の女性社長のメッセージなんかはどうなのだろう。二出川の「俺がルールブックだ」ほど神がかってはいないが、「私が証明です」は私が証拠であり論拠であると主張している。こちらもなかなか自信たっぷりである。しかし、このメッセージだけでは商品の優秀性は証明できない。証明はひとえに当の「私」にかかっている。どうやら、証明ということを突き詰めていくと、究極は自分自身を自前で証明することになるようだ。ブランドはこうした証明の一つの印にほかならない。

一行と一冊の比較

読みやすく、すうっとアタマに入ってくる本は心地よい。文章表現が大いに関係する。けれども、どんなに平易な文章で書かれていても、不案内の事柄は難解である。読んでいてわかりやすいと感じるのは、書かれている内容にすでに精通しているからにほかならない。

「知っている」という確認だけに終わる読書であっても、記憶の強化には若干役立つだろう。しかし、知を広げるためには「知らないこと」に挑まなければならない。知らないことが書かれている本は、読んでも内容がアタマに入ってこないし、なかなか辛抱して読み続けることができないし、すぐに眠気も催してくる。これらの本は悪書かもしれないので、「さっさと読むのをやめてしまいなさい」という読書の専門家もいる。

しかし、少々読んでもわからないのは、その方面の知識に弱点があるからだ。ギブアップしていたら、永久に縁も取っ掛かりも生まれない。取っ付きにくいという理由だけで書物のセレクションをしていれば、永久に知らないことは知らないままである。時には、わからないのは自分のせいであると、己の識見に警鐘を鳴らしてみることも必要ではないか。


ところで、ぼくは本をよく買う。買った本のすべてに目を通すような精読をしているわけではない。基本は拾い読みで、多読と併読である。多読・併読を経て再読に値する書物だけを月に一冊ばかり取り上げてじっくりと読む。そのときはノートも取るし批評もする。できるかぎり自分の過去の、ちっぽけかもしれない知の体系に照らし合わせて縦横無尽に読む。但し、これは多読・併読という分母の大きさがないとうまくいかない。

こうして読書をしているうちに、一冊の書物中に一冊全体の重みと等価と思える一行の文章なり箴言に出くわすことがある。一つの文章、一つの語句との邂逅が〈知軸の転回〉を生じさせたり〈知圏の磁場〉を動かせたりする。重々承知していることであっても、たとえばフランツ・カフカの「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り」ということばによって、認識がさらに深まる。

しかし、短文テクストを読み解くときは注意せねばならない。ぼくたちは自分の都合に合わせて「勝手読み」するからだ。ことわざや格言や座右の銘の本意を理解するのは、案外手間暇のかかることなのである。場合によっては、一冊の本を文脈コンテクストとして絡め取らねばならない。点は付き合いやすい一方で、点ゆえに位置取りを見極め、他の点と繋ごうとする努力も怠れない。一行の読み方と一冊の読み方には関与の仕方に大きな違いがあるように思う。

語句の断章(12) 腰

「重要」という文字を書くたびに「腰」という文字が浮かぶ。そこに「かなめ」があるからだ。人の身体部位のうち、重さと軽さ、強さと弱さ、高さと低さという特徴をすべて比喩的に使えるのは頭と腰だけではないか。つまり、腰は豊かな表情を備えた〈かなめの文字〉なのである。

☆    ☆    ☆

腰が重い 疲れから腰あたりが何となく重く感じる。そんな症状ならマッサージである程度改善できる。深刻なのは、無精ゆえに機動力がなくなるという意味での腰の重さのほうだ。ぐずぐずして腰が重くなる症状は、中国整体でも指圧でも鍼灸でも治せない。

腰が軽い では、機動力をつけようと腰を軽くするとどうなるか。今度は落ち着きがなくなってしまう。身の軽やかさという意味がなくもないが、軽率というニュアンスが強くなる。「腰軽こしがる」は決して褒めことばではなく、「尻軽」に近づいて淫らになってしまう。

腰が高い 「足が長い」と言う代わりに、「腰高である」と遠まわしに足の長さを自慢する人がいる。とても図々しく響く。それもそのはず、腰が高いとは他人に対する態度が尊大で横柄なことを意味する。「が高い」の類義語である。

腰が低い 腰の位置が低い人は、身体特徴的には足が短いということになる。しかし、性格態度的には低姿勢となり、謙虚さをうかがわせる表現になる。なお、念のために付け加えておくが、短足の人が謙虚だという証明はまだ成されていない。

腰が強い 白鵬は腰が強い。しかも、強敵相手にも易々とは屈しない。肉体としての腰の強さだけではなく、氣が横溢する強靭さすら思わせる。これが転じて餅やうどんの粘りやアルデンテを意味するようになった。

腰が弱い うどんなら、ふにゃふにゃで粘りや腰がないさま。人好き好きだから、この種のうどんも好まれる地域がある。但し、腰の弱い人間はいただけない。信頼性に乏しいからだ。外圧に抗うすべもなく、意気地がなくうろたえる。

☆    ☆    ☆

あらためて腰という文字を眺めてみる。にくづきに要、つまり「身体のかなめ」。上半身と下半身のくびれている部分を、その昔はこしと呼んでいた。と言うことは、くびれのない身体には腰がないことになる。腰が腹に吸収合併されることを、現代では「メタボ」と呼ぶ。

生レバーの行方

「厚生労働省は6日、飲食店が牛肉の生レバーを客に当面提供しないよう求める通知を都道府県に出した。(……)厚労省の食中毒・乳肉水産食品合同部会が、食中毒発生の多い『レバ刺し』などについても法的規制を含め検討することを決めたため。生食用牛レバーの提供が禁止される可能性もある」(77日付 毎日新聞)。


ホル男 「また! 不粋というか野暮というか、余計なことをしてくれるもんだな」

モン太 「オレにとっては、生レバーのない焼肉店はクリープのないコーヒーみたいや」

ホル男 「比喩が古いね。要するに、焼肉を食べに行っても、いきなり肉を焼き始めない。まずは、ユッケかレバ刺し、それにキムチで生ビールだろ」

モン太 「なんで牛ばっかり責めるんや!」

ホル男 「生食用の牛レバーが原因で発生した食中毒は、1998年から2010年の13年間で116件らしい。牛刺しやユッケはわずか5件だった。厚労省は牛レバーの食中毒が多すぎると判断した」

モン太 「おいおい、ちょっと待って! それマジで!?」

ホル男 「驚く数字だったかい?」

モン太 「驚くも驚かんも、牛刺しにユッケはほとんど安全牌やないか。おまけに生レバーも、年に9件やろ。そんなもん、生ガキより安全と違うか!?」

ホル男 「証拠のないことを言わないように。でも、きみに理ありだな。豆腐でも牛乳でも魚でも、生ものに食中毒はつきものだからね。ちょっと不注意すると、生野菜でも起こりうる」

モン太 「フランスでは牛肉のタルタルステーキを食べとるぞ! ニュージーランドは羊のタルタルや!」

ホル男 「フランスのタルタルはユッケよりだいぶどす黒かったよ。ともあれ、大腸菌が内臓に付着しやすいことぐらいわかっている。それでも、素人考えでは、新鮮なものをしっかり咀嚼していたら問題ないような気がするな」

モン太 「絶望的……。これからどないして生きていったらええんや!?」

ホル男 「大袈裟な! お上が決めたら仕方がない。レバ刺しの代わりに上等の牛刺しにすればいいじゃないか」

モン太 「あかん、生レバーがないと焼肉屋に行く意味あらへん。あんたは平気か?」

ホル男 「ここだけの話、馬のキモのほうが血生臭くなく、コリコリしていてうまい。馬に鞍替えするよ」

モン太 「牛がダメなら、馬に乗るって? ダジャレ言うてる場合やないわ。宣誓書を書くから、オレだけ自己責任で牛の生レバー食べさせてくれ!」

自問自答という方法

十代でディベートを体験してから、「問いと答え」は最大関心事の一つになっている。8月の私塾でこのテーマを取り上げるので、ここしばらく意識がそこに向かざるをえない。この暑いさなか、決してすがすがしい主題ではないが、仕事である。仕事を前にして不機嫌な顔をしてはいけない。

一般的に問いはクエスチョンマークを伴うが、広く考えれば、前提や条件や原因などにも問いの機能がぶら下がっている。ところで、ぼくは問いが求める答えを自分なりに二つに大別している。じっくりと構想できる、猶予のある答え(a)と、挑発されて即興性を求められる答え(b)である。(a)はスタミナとロングショット。(b)は瞬発力とクローズアップ。他者から問われて答えるときは(b)が、自問自答の場合は(a)が重要になる。

不審に思われて「名前と職業は?」と聞かれ、「ええっと……」と遅疑逡巡していてはますます怪しまれる。考える余地のない、たった一つの答えしかなければ、さっさと言ってしまえばよい。ディベートが難儀なのは、答えが見当たりもせず思い浮かびもせずという状況で、相手のきつい尋問に応じなければならない点である。「そんなことは神に聞いてくれ!」と苛立つのを我慢して、笑みを浮かべて「そうですね、実は」と即時即答しなければならない。しかも、具体的に。「うやむや世界」に逃げ込むのは、政治家を見ていてお分かりの通り、潔くないし、カッコ悪い。


どういうわけか、学校教育は「問答」や「尋問」にあまり関心を寄せない。それどころか、「つまらん質問をするな!」という教師がいたりもする。学生はいつも問われる側にいる。そして、条件反射のように「問われれば答えようとする」(答えないとテストで点数が取れないから)。では、彼らは問われなくても「答えることができるか?」 おそらくノーである。なぜなら、答える前に問わなければならないからだ。この問いは自分への問いにほかならない。実社会では質問すらしてくれないことがある。自問自答できない人間には生きづらい環境だ。

「下線部の意味に近いものを次の中から選べ」というテスト問題がある。また、「次の文章を読んで、考えを四百字以内で書け」という問題もある。これらの設問はタイプが違うとされていて、後者を論文問題と呼んだりする。しかし、ぼくから見れば、これらの問いは同じである。「誰かに問われてから答える」という意味で同じである。もし問いがなければ、あることばに近い意味の用語を考えようとしないだろうし、文章について感想を書こうとしないだろう。外部からの刺激を待つ「反応型人間」はこうして生まれる。

問いを待ってはいけないのである。他者からの問いがあろうがなかろうが、つねにテーマや課題に対して問いかける。問わなければ、ソリューションも工夫も考えつかない。必ずしも明快で満足できる答えが編み出せるとはかぎらないが、「問いが立てられうるのであれば、答えもまた与えられうる」(ウィトゲンシュタイン)を拠り所にしようではないか。但し、自問自答という方法には偏見が宿りやすいので気をつけねばならない。

「役立つ」ということ

あまり時間帯がよくないので視聴できていないが、NHKのテキスト『100de名著』は初学者にはお勧めだ。4月がニーチェ『ツァラトゥストラ』、5月が『論語』、6月がドラッカー『マネジメント』、そして7月は福沢諭吉『學問のすゝめ』。このうち、『マネジメント』を担当していた講師が、ドラッカー学会代表の上田惇生である。本題そのものはうまくまとまっているが、「知識や教育も変化を続けている」という項に気になるくだりがあった。

(……)役に立たない知識を教養と考えている人は、まだ少なからず存在します。たとえばいまだに欧米ではラテン語を必須科目としている学校がある。論理性を養うためだとか、他の外国語を学ぶ基礎になるといった理屈をつけてラテン語を教えていますが、実際にはラテン語教育は今や何の役にも立たなくなっています。

この前段で、知識には役に立つものと立たないものがあり、今という時代は生きた知識、使える知識が求められる時代になってきたと述べている。少々ラテン語を齧った身としては、この意見は勇み足ないしは短絡的と言わざるをえない。最初から知識が役に立つか立たないかなどは勉強してみなければわからない。往々にして、役立つと思って学んだことが役立たず、役立ちそうもないと値踏みしていたら、後日大いに仕事にプラスになったなどということは常である。


欧米文化圏の礎であるラテン語が役立たずならば、この島国固有の平安時代の古語など必須教科にする意義などまったくなくなってしまう。ここに、上記の講師とまったく正反対の意見がある。「情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある」(白取春彦『勉学術』)。そして、ラテン語の意義を次のように説く。

ラテン語は古代に生まれた言語であり、現代世界ではもっぱらカトリック神父たちが共通語として使っているだけである。そんな古色蒼然とした言語が、知識として常に有効であり応用範囲が広い(……)。現代世界に通用している主流言語がラテン語を基礎にしているのである。だから、英語やフランス語やドイツ語がわからなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できる(……)。

実際のところ、現代の社会や技術の大半の概念は、ラテン語から用語を借りて成り立っている。役に立たないどころか、なくては困るほどの恩恵を受けているのだ。ラテン語役立たず論を展開するなら、「マネジメント」という術語も概念もありえない。英語の“manage”はイタリア語の“maneggiare”に由来する。この用語の起源は〈ラテン語“manus(手)不定詞語尾“-are”〉に遡る。「手で馬を訓練する」という意味だった。現代イタリア語にも「手で扱う」とか「調教する」という意味がある。英語の“management”にしても、第一義は今もなお「どうにかこうにか(工夫をして)やり遂げること」なのだ。経営や管理という抽象概念に先立って、このニュアンスが強い。

折りを見てラテン語の独習本に目を通すことは、少なくともぼくには役立っている。ことばを軽く流さないで、一歩踏み込んで考えることに役立っている。役立つか役立たないかは時代が決めるものではない。個々人にとっての有用性こそが重要なのである。ある種のご婦人にとって真珠は有用であり、豚にとっては無価値である。役立つことの一般化には誤謬がつきまとうものだ。

語句の断章(10)脱衣

もう二ヵ月前だろうか、テレビで珪藻土から足マットを作った左官屋さんが紹介されていた。梅雨の季節、風呂から上がって布か樹脂のマットに濡れた足を置く。脱衣場のじめじめしたマットは決して気持のいいものではない。その代替に珪藻土を固めたマットを作った。「マットは柔らかいもの」という固定観念へのチャレンジだ。

それにしても、「脱衣場」とは奇妙な表現である。銭湯でも家風呂でも、服を脱いでから湯に入る。脱衣とはまさにこのことを指し示すことばである。しかし、風呂から上がれば、そこはもはや脱衣場ではない。一糸まとわずに風呂に入っていたのだから、それ以上脱ぐものは何もない。ゆえに、風呂から上がれば、そこは「着衣場」でなければならない。着衣せずに銭湯から帰ってくると猥褻行為で逮捕されてしまう。

着衣の場でもありながら、なぜ脱衣の顔だけを立てるのか。おそらく、こと風呂に関するかぎり、着ることよりも脱ぐことに注意が向けられている証拠だ。あるいは、かつて番台が客の着衣行為よりも脱衣行為に大いに関心を寄せた名残りかもしれない。

ところで、アパレルの店では「試着室」という。ここでは、関心が着ることに寄せられている。着るのを試してもらい買ってもらわねばならない。しかし、あの狭い空間でいきなり試着することはない。まず身につけているものの一部を脱がねばならない。脱いでから試着するものである。

脱いだからには着なければならず、着るためには脱いでいる状態が前提になる。したがって、銭湯も洋装店も、これからは「脱着衣場」あるいは「脱着衣室」と呼ぶべきだろう。

エレベーターの話、二題

もう10年近く前の話である。「エレベーターには不思議な法則があるんですよ。ビル内の二基のエレベーターは、たいてい仲良く並んで上下します。若干の差があるにしても、一基が5階、もう一基が6階というふうに動くのです」と知人がつぶやいた。「そんなバカな!」とぼく。「いつもとは言いませんが、だいたいそうなんです。それに……」と言って、もう一つの法則を示した。「1階から乗ろうとしたら、二基のエレベーターがいずれも地下へ向かっているか、7、8階あたりで並んでいます。」

エレベーターに意思があるはずもない。左側と右側の二基が結託しているとも思えない、また、いつ何人の客がどの階でボタンを押して乗ってくるのかをエレベーターが予知する必要などない……と適当に聞き流しておいた。しかし、その直後からエレベーターを利用するたびに知人の法則をつい思い出すようになった。そして、驚いたことに、ほとんどの場合、彼の法則が当てはまっていたのである。

しかし、意識してから数日も経たないうちに法則は心理的なものであることがわかった。少し待って乗る時や1階にちょうどエレベーターが止まっている時、ぼくたちは苛立たないし、二基のエレベーターの現在位置に注意を向けない。但し、1階から乗る時にエレベーターがちょうど1階に止まっている確率は低い。ゆえに待つ。待っているあいだに目線が二基のエレベーターの位置ランプに向く。たまに二基が並んでいたりすると、「一方が上層階、他方が下層階になるようにすればいいのに……」と少し苛立つ。以上が事の次第である。すぐに乗れない時の心理を法則化しているにすぎない。


よく利用していたJR駅にエレベーターがあった。地上階と改札口を単純に行き来するだけのエレベーターである。途中階はない。きわめてのろまな動きをするので、おそらく階段を利用するほうが早い。

ご丁寧にもこのエレベーターは音声アナウンスする。地上階で乗り「閉ボタン」を押すと、「ドアが閉まります」と女の声で告げてドアが閉まる。のろまなこいつはなかなか動かないが、利用者はエレベーターが自動的に改札口に向かうはずなので、しばし待つ。すると、再び女の声でこいつが言う、「行き先ボタンを押してください」。

「おい、他に行くあてでもあるのか? 行き先は決まってるだろ!」と条件反射してしまう。ボタンを押した瞬間、ドアを閉めてさっさと2階の改札口へ向けて出発すればいいではないか。恥ずかしながら、もしかして改札口以外に行き先のオプションがあるのだろうかと、ぼくはエレベーター内のありとあらゆる表示をチェックしたことがある。今はこの駅を利用していないが、「このマニュアル女!」と擬人化して苛立っている利用者がいるに違いない。