語句の断章(10)脱衣

もう二ヵ月前だろうか、テレビで珪藻土から足マットを作った左官屋さんが紹介されていた。梅雨の季節、風呂から上がって布か樹脂のマットに濡れた足を置く。脱衣場のじめじめしたマットは決して気持のいいものではない。その代替に珪藻土を固めたマットを作った。「マットは柔らかいもの」という固定観念へのチャレンジだ。

それにしても、「脱衣場」とは奇妙な表現である。銭湯でも家風呂でも、服を脱いでから湯に入る。脱衣とはまさにこのことを指し示すことばである。しかし、風呂から上がれば、そこはもはや脱衣場ではない。一糸まとわずに風呂に入っていたのだから、それ以上脱ぐものは何もない。ゆえに、風呂から上がれば、そこは「着衣場」でなければならない。着衣せずに銭湯から帰ってくると猥褻行為で逮捕されてしまう。

着衣の場でもありながら、なぜ脱衣の顔だけを立てるのか。おそらく、こと風呂に関するかぎり、着ることよりも脱ぐことに注意が向けられている証拠だ。あるいは、かつて番台が客の着衣行為よりも脱衣行為に大いに関心を寄せた名残りかもしれない。

ところで、アパレルの店では「試着室」という。ここでは、関心が着ることに寄せられている。着るのを試してもらい買ってもらわねばならない。しかし、あの狭い空間でいきなり試着することはない。まず身につけているものの一部を脱がねばならない。脱いでから試着するものである。

脱いだからには着なければならず、着るためには脱いでいる状態が前提になる。したがって、銭湯も洋装店も、これからは「脱着衣場」あるいは「脱着衣室」と呼ぶべきだろう。