書きっぱなしにして胸を張れるほどの文才に恵まれないから、書く行為に続けて文体や表記を整える編集は欠かせない。但し、書くのと同じ視点で編集はおこないがたい。いったん書いた文章を突き放さなければならない。日本語ならまだしも、外国語の場合は徹底的に読み手側に立たねばならない。英文ライティングを生業としていた頃、文体や表記の厳密さに舌を巻いた。千ページに近い分厚いスタイルマニュアルで調べるたびに、よくぞここまで細かく規定するものだと感心した。
〈ウィドウ(widow)〉と〈オーファン(orphan)〉という、見た目に関する禁忌事項がある。ウィドウとは未亡人、オーファンとは孤児のこと。いやはや過激なネーミングである。日本語の「段落の泣き別れ」に近いが、もっと厳しい。ウィドウとは、段落の最終行が次のページの一行目にくる状態である。短い文章だと宙ぶらりんに見える。オーファンには二つある。一つは、ページの最終行が新しい段落の一行目になる状態。もう一つは、ページの最終行が短行になったり段落の最終行が一語だけになったりする場合である。いずれも孤立したように見えて落ち着かないし、可読性も悪い。
上記のことは編集上のルールなので、明快である。しかし、〈推敲〉と呼ばれる語句の練り直しに決まりきったルールがあるわけではない。作者自らが納得の行くまで表現や語感を研ぎ澄ます。五七五の余裕しかない俳句などにおいては推敲そのものが作品を形成すると言っても過言ではない。先日、古本屋で函に入った立派な『芭蕉全句集』を買った。前後して『日本語の古典』(山口仲美著)を読んでいたら、『奥の細道』にまつわる推敲のエピソードに出くわした。高校の古典の教師に聞かされたか別の本で読んだような記憶がある。
静寂な空間に大舞台を連想させる、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が完成するまでの練り直しの過程が紹介されている。最初に「山寺や石にしみつく蝉の声」が詠まれ、次いで「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と書き直された。これら二作なら自分でも作れそうだと思ってしまう。下の句の「蝉の声」だけ変化していないが、動詞は「しみつく」、「しみこむ」、「しみいる」と変化している。このように比較すると、「しみいる」が絶対のように見えてしまうから不思議である。なお、蝉の種類についてはアブラゼミかニイニイゼミかで論争があったそうだが、岩にしみいるのは「チー……ジー……」と鳴くニイニイゼミだろうという結論のようである。
「文章をチェックしました」よりも「文章を推敲しました」と言われるほうが信頼性が高そうに思える。「すいこう」という音の響きには文章が良くなったという印象が強い。推敲は「僧推月下門」に由来する。中国は唐の時代の賈島という詩人の詩の一句だが、門を推すの「推す」を「敲く」にするかどうかで迷っていた。韓愈の奨めで「推」を「敲」に変えたので、推敲が字句を練ることに用いられるようになったのである。
スタイルや表記の統一はある程度可能だが、こだわり出すと推敲は延々と続く。類語辞典を引いて、類語が三つや四つならいいが、何十とあると困り果てる。推敲は重要な作業ではあるが、語彙以上の表現やこなれ方を欲張ってはいけないのだろう。