積極的引きこもり

引きこもりは1990年代に社会問題化して現在に至る。社会問題化してからは、自宅・自室に閉じこもり、外界や他人と接点を持たずに孤立的生活を続ける意味になった。しかし、引きこもるという選択はいつも消極的とはかぎらない。

外出して歩けば何かが見える。世間や他人と交われば何かを学ぶ。しかし、そうしなければ何も見えず何も学べないわけではない。一時的であるなら、引きこもりには外出や交わりとは別の何かが見えるし学べるはずである。


台風21号に続いて24号である。少なく見積もっても同程度の被害が予想されるという。21号の日はオフィスで仕事をしていた。昼過ぎにさっさと帰宅して安全を期した。数時間後だったら暴風雨に削ぎ飛ばされた枝木を見舞われていたかもしれない。

自宅であれ避難所であれ、今日は積極的引きこもりが消去法的選択肢である。晴耕雨読に倣って本を読む。駄文を書く「雨書」でも、音楽を聴く「雨聴」でもいい。その代わり、次の晴天日には倍働くことにしよう。

ところで、わが国の平均雨天日は年間約120日。三日に一度読書できれば御の字だ。但し、降雨の地域差があるため、北陸では180日の雨読日があるが、広島のそれはわずか85日である。晴耕雨読説が正しければ、読書量が2倍以上違うことになる。

ふと夏目漱石

夏目漱石の函入りの復刻版は書棚の一番下に立ててある。視線を床の方に落としたついでにふと目に入った。久々である。自分で買ったのだから当然覚えている。『道草』『明暗』『心』の三冊セット。

おなじみの三部作は、前期が『三四郎』『それから』『門』、後期が『彼岸過迄』『行人』『こころ』である(復刻版では「心」、その後「こゝろ」と表記され、今は「こころ」のようである)。代表作の『吾輩は猫である』は三部作には入らない。

少年時代に漱石はかなり読んだか読まされたかしたが、半世紀も経つと書名と物語が連動しない。書名は知っている、物語も覚えている、しかし完全一致させるのは容易でない。幼い頃に早熟気味に読んだものは忘れ、直近に読んだものは覚えている。読書とはそういうものだ。

さらに言えば、昔手に取った本のうち、読了したものはあまり覚えておらず、むしろ挫折した本の嫌な記憶だけが残っている。モーパッサンの『女の一生』はうろ覚えだが、スタンダールの『赤と黒』を読んでいて、これから先読むのはやめようと決意した瞬間と話の箇所は覚えている。


さて、漱石である。このブログを始めてから10年と4か月。1,337回書いてきた。検索窓で「夏目漱石」をチェックしたところ一件しかヒットしない。つまり、ぼくが夏目漱石と書いたのは一度きりなのだ。小説のことを書いたのではない。英語教師として二つの類義語の違いを少々ユーモラスに語った場面だ。次のように書いた。

理論上の可能性と現実に起こりうる蓋然性の違い(……)。授業中にpossible”probable”の違いを説明した夏目漱石のエピソードがある。「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」。

では、ブログ以外に思い出す漱石がらみのエピソードにどんなものがあるか。脳内検索してみた。そうそう、知人友人宛に出した引越ハガキの文面がおもしろかった。「手伝うなら昼から、メシだけ食うなら夜から」というような内容で、独特のユーモアなのだが、受け取ったら昼に行かざるをえない仕掛けがしてある。

もう一つ。私塾の『愉快コンセプト』の講座だったと思うが、漱石パロディを紹介したことがある。テキストが残っていた。漱石の『草枕』の冒頭とそのパロディを並べて笑ってもらったのを覚えている。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
(夏目漱石 『草枕』)

耳をほじくりながら、こう考えた。
理を説けばかどが立つ。情にほだされれば流される。意地になられてはおしまいだ。とかくに女は扱いにくい。
扱いにくさが困じはてると、気安い女へ移りたくなる。どの女も扱いにくいとわかった時、あきらめが生じ、子ができる。
(郡司外史 『膝枕』)

ぼくの記憶の内にある漱石は、小説家ではなくユーモリストのようであり、またユーモリストに格好の材料を提供した人である。

何もかもコミュニケーション

紙面編集をテーマとする研修の依頼がある。情報誌やリーフレットなどの編集制作や印刷にお金をかけているが、なかなか読んでもらえないというのが発行者の悩みである。どうすれば手に取ってもらえるのか、読んでもらえるのか。媒体もコンテンツも多様化した現在、ペーパー編集物は苦戦している。

「読まれる」の前に「書き表わす」がある。総じて言えば伝える技術なのだが、表現もさることながら、記事の魅力がなければ話にならない。誰にとっても魅力のある記事などそうそうあるものではない。書き表わす前にコンテンツの精査が必要になる。それができた上での表現伝達である。

誰かに伝える前に書き手自身が内容を理解していないという問題もある。本人が書くのだからテーマも記事もわかっているのは当たり前だと思われるが、実はそうではない。意味の明快さとは人それぞれ、理解の程度も違う。時間に追われたりすると、あまりよくわからないままでも書いてしまうものだ。相手に伝わるかどうかなどは二の次になる。


「ちゃんとできているのか?」
「ええ、大丈夫です」
「後は頼んだよ」
「了解です」

上司と部下のこの短いやりとりのうちにコミュニケーションの等閑なおざりと甘さが凝縮している。たしかに会話はそうかもしれないが、書く段になればじっくり腰を落とす、だから精度が高くなる……こう思うのは錯覚である。

紙面づくりはコミュニケーション。マーケティングにしても危機管理にしても、一見事務的な会計もコミュニケーションだ。人間どうしや組織において、曖昧性や多義性を排除してお互いの意味を明快にする。コミュニケーションは人間関係の根だが、幹や枝葉として行動や考えにまで派生する。人と人はそこでしかつながらない。何もかもコミュニケーションなのである。

紙面編集は編集者や書き手が読み手とつながることである。つながりやすさ――伝わりやすさ、読みやすさ、理解しやすさ――には人間工学的な法則が少なくない。最低限の法則に従えば、ある程度効果が生まれるものだ。

デカルトの『方法序説』がわかりにくい、「我思う、ゆえに我あり」って何のことかさっぱりわからないと言う。少しでも興味をもって一考してもらえないものか、コンテンツが難しければいかんともしがたいのか……。紙面編集は読ませるためのあの手この手の創意である。

ポスター風に紙面を編集したデカルトの肖像を背景に、哲学命題の見出しを入れた紙面を自作した。研修で事例として使う。四つの規則を読んでもらう可能性は高まる。但し、理解できるかどうかは別問題。書き表わすにあたっては読む相手を見ないといけない。情報誌が読まれるか読まれないかは、この読者対象の特定に関わっている。

月のコンセプト

924日月曜日の今夜は十五夜、中秋の名月。昨夜散歩中に見上げたのは十四日月、翌日に満月を控えた待宵まつよいの月だった。青みのかかった灰色の雲に乗っかっているように見えた。

月面を拡大すれば模様が浮かび上がる。模様は文化圏によって異なって見える。わが国では餅をつくうさぎが定番だが、ワニ、吠えるライオン、カニに見える国があり、本を読むおばあさんなどというのもある。想像の違いであり、つまるところ、コンセプトが一様でないことを意味している。

月のモノクロのイラストを見ると、土星という際立ったコンセプトを持つ星を除くと、月が太陽か他の惑星か判別しづらい。丸いというのはたいていの惑星に言えるから、固有のコンセプトにはならない。

しかし、黄色ではなく、また模様もなく、単純に白く描いた月でも、満ち欠けさえ示せば即座に月だとわかる。

新明解国語辞典を引けば「地球の衛星。太陽の光を受けて、(夜)輝く。太陽に対する位置によって、種種の形を見せながら、約一か月で地球を一周する」と書いてある。この文中の「種種の形を見せ」という箇所、つまり、満ち欠けが月の月ならではのコンセプトということになる。

コンセプトとは対象の最も特徴的または印象的な「おおむね」を一言化したものである。ほとんどの場合、文化的に、または個性的に、捻り出されるものだ。おもしろいことに、月に関して言えば、地球上での共通コンセプトは満ち欠けなのである。

コーヒーと音楽

「コーヒーと○○」という組み合わせ。相性の良さそうなものを○○に入れてみる。コーヒーと読書、コーヒーとケーキ、コーヒーと観葉植物、コーヒーとギャラリー、コーヒーと新聞……。いろいろあるうち、相性抜群なのはやっぱり「コーヒーと音楽」ではないか。漠然と音楽としておくのがいい。ジャンル次第では合う合わないがあるからだ。

十数年前までコーヒーに合いそうな――つまり、ぼくが合うと思う――CDを買い集めたことがある。French café Italian bar style Paradise Cafe というタイトルのアルバムが棚に並ぶ。カフェミュージックにはポピュラーな定番があるが、専門のラジオ局の選曲は十人十色。コーヒーやカフェとの相性には個性が色濃く出るようだ。


おびただしいカフェ向けの曲が存在する割には、パリのカフェやローマのバールでBGMを耳にした記憶がほとんどない。夜遅くに入店したサンミッシェルのダイニングカフェではロックがガンガンかかっていた。アルコールと軽食の店で客層もかなり若かったし、たぶん音楽が売りの一つだったようである。

しかし、あの店は例外ではないかと思えるほど、パリやローマでは店内で音楽がかからない。パリではテラス派が多いからBGMを流しても音響効果がない。ローマのバールはカウンターでの立ち飲みが普通だから、エスプレッソを注文して一気飲みして23分で立ち去る。音楽を聴くために立ち寄る人はいない。

ホテル向けのラウンジミュージックというコンセプトやラジオ局も存在するが、いくら思い出そうとしてもホテルでBGMが流れていた記憶はない。コーヒーと音楽は抜群に相性が良いなどと思うのも、コーヒーの種類や音楽のジャンルの嗜好性と同じで、個人的な好みに左右されるような気がする。

音楽がなくてもいいが、あればあったで気分は変化するだろうし、いくらかリラックスできると思う。コーヒーを啜りながら音楽を聴いたからと言って、考えごとがまとまったりアイデアが湧いたりするわけではないが、今朝もオフィスでワークミュージックという環境音楽ジャンルの静かなジャズを聴きながら、一杯飲んでいる。

力(りき)む観光施策

街歩きは日課みたいなもので、人並み以上によく歩く。週末にはメトロで45駅の距離を往復する。居住地とその周辺は人口密度の高いエリアなので、大通りから裏通りまで四方八方道が走っている。つまり、目指す地点まで選べるルートは何十も何百もあるということだ。

どこを目指すにしても、気分転換のつもりで道順を変える。数ヵ月通らないと周辺の光景が変わり、見覚えのない街並みが出現していたりする。歩いていると前を行く人、後ろから来る人から聞こえてくるのは中国語や韓国語ばかり。その他のアジア人もよく見かけるし、カフェのテラスには西洋人がふつうに座っていたりする。

一目ホテルだと分かる建物もあれば、和風に設えた観光客向けのホステルがあったりする。

どんなふうに光景や街並みが変わっているか。新築マンションも建つが、何よりも目立つのが観光客をターゲットにした新しいホテルやホステル、民泊の類である。ワンブロックごとにホテルが一棟建っていることもある。増えたなあと言う印象では済まない。もはや乱立状態なのだ。宿泊施設に伴って近くの飲食店や販売店も装いを新たにする。店頭や店内の表示に日本語がほとんどないドラッグストアも珍しくない。何かもが観光客スペック。しかもオーバースペック。生活者仕様の場所を探すほうが難しい。


京都の知人が自民党総裁選の街頭演説に出くわしたという。安部首相は「訪日外国人観光客は就任当時800万人だったが、昨年は2800万人に増えた。観光を京都の成長の起爆剤にしていこうではありませんか」と訴えていたらしい。数値で観光の活性度を示そうとする発想がそもそも古い。

対して、石破氏の主張は「外国人観光客が京都府域で落とすお金の95%が京都市。舞鶴、宮津、伊根など、いろんな魅力がある。それをどうやって伸ばしていくかだ」というもの。観光の一極集中を嘆いているわけだが、これも多寡の話。地味かもしれないが、小都市の地道な質的取り組みの現状に気づいているのだろうか。

国家の唱える観光施策がりきんでいるように見える。観光を”ハレ”の現象として捉えている間はまだまだ本物の観光立国への道遠しと言わざるをえない。観光老舗の京都などは国家の認識よりもよく観光の何たるかを心得ている。これはパリやバルセロナやフィレンツェなどにも言えること。生活者の”ケ”としての街あってこその観光である。ケの母屋がハレに軒を貸しているという構造なのだ。

観光客のための街の整備や建築ラッシュなど目先を追っていると、やがては観光価値を失うことになる。よそ者がよそ者ではなく、滞在中に生活者と同じような視点で街を見ることができてはじめて、真の観光都市に値する。わが国家の感覚は未だに観光後進国的と言わざるをえない。

空間の話

空間ということばをわざわざ辞書で調べた記憶はない。ある程度イメージができているし、今さら辞書を引くことなどない。と思ってみたものの、気になるので広辞苑を引っ張り出した。「物体が存在しない、相当に広がりのある部分。あいている所」と書いてある。この「あいている」は、「空いている」であって「開いている」ではない。

この定義は、空間が閉じているか開いているかに言及していない。何もなくて空っぽであれば空間と呼べそうだ。空間とは、そらあいだではなく、いているである。引っ越しの荷物が搬出されて、何もなく空っぽになった部屋の状態。閉じているが、れっきとした空間だ。結構広かったんだなあと述懐する。窓を開けて見慣れた景色に別れを告げる。目の前にはビルに囲まれた更地が見える。天に開いているが、あれも空間。

空間を最初に哲学したのは老子だ。老子は何を哲学したか。「うつわが有用なのはその中が空っぽだからである」と言った。たしかに。そのうつわは空っぽだが、そこにお茶を注げばお茶碗になる。コーヒーカップではない。お茶を飲み干してから、コーヒーを入れたらコーヒーカップ。それも啜り終えたら、空っぽになる。その瞬間、そのうつわは有用度を増す。


老子は次のようにも言う。

部屋が有用なのもその中が空っぽだからである。

昔の家には「何でも部屋」のような一室があった。普段は片隅に箪笥が置いてある程度で、ほぼ空っぽの和室。そこに卓袱台を持ち込めばにわか応接間になった。それ以外に、その一つの部屋が居間、食堂、書斎、寝室、裁縫室、娯楽部屋に変化した。片付けてしまえば、何にでも化けることができる有用な空っぽの部屋に戻る。

うつわにしても部屋にしても囲まれた有形である。しかし、中空ちゅうくうの構造を持つ。有形のものが使い勝手がよく有用であるためには、無形の構造という条件を満たさねばならない。

ところで、広辞苑の定義には「相当に広がりのある部分」という記述があった。だからと言って、広大な宇宙を想像してはいけない。空間というのは広いから認識しやすいというものでもないのだ。大きい家、大きい部屋だが、空間の広がりを感じない場合もある。一方、まったく狭さを感じさせない小さな家、小さな部屋がある。広がりのある小ささは簡素で洗練された空間の理想形なのだろう。ル・コルビュジェが設計したレマン湖畔の〈母の家〉はその最たるものである。

「かつ」と「または」

3日前「あれもこれも」と「あれかこれか」について書いた。その折りに、論理学の基本用語の“and”“or”のことがよぎった。論理的ということについては諸説あるが、基本は文章の明快さのためのルールや法則に適っていることだ。「~は~である」もそうだし、「~は~ではない」もそうである。他に「すべて・・・all)といくつか・・・・some)」や、そして「かつ・・and)とまたは・・・or)」も論理的文章を書く上で欠かせない。

X and YXかつY)は「セット」という感覚。ケーキセットを注文すればケーキとドリンクが出てくる。ケーキが付いていない、あるいはコーヒーが付いていないならandの条件を満たしていない。「印鑑と運転免許証持参のこと」とあれば、両方を持っていかなければならない。

X or YXまたはY)はセットではなく、いずれか一方を満たせばよい。「運転免許証またはパスポート」とあれば、両方持って行く必要はなく、いずれか一つで身分証明の要件を満たせる。当たり前のことだが、「ケーキセットにはコーヒーか紅茶が付きます」とは、コーヒーと紅茶の両方は飲めないという意味である。


X and YX or Yに否定が絡んでくると、論理学の初心者には厄介である。「机の上に鉛筆と消しゴムがあった」の否定はどう言えばいいのか。よく間違われるのが「机の上には鉛筆も消しゴムもなかった」である。

あなたは危険な居酒屋に入った。この店では赤と白のグラスワインを差出して一言を添える。ところが、その一言はつねに虚言なのだ。いったん否定して真実を探らねばならない。

「赤ワインにも白ワインにも毒が入っていないよ」
こう言われたら、「赤ワインには毒が入っていない。かつ、白ワインにも毒が入っていない」と読み替える。そして、この文章を否定する。つまり、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」。否定する時、「かつ」を「または」に変えるのがポイント。一方が毒入り、他方が毒入りでないということになる。確率は五分五分だが、安全なのが赤か白かはわからない。

「赤ワインか白ワインのどちらかには毒が入っていないよ」
こうコメントされた。「赤ワインに毒が入っていない。または、白ワインに毒が入っていない」と読み替えて、否定する。「赤ワインに毒が入っている。かつ、白ワインに毒が入っている」となる。「または」を否定すると「かつ」に変わる。両方が毒入りであるから、たとえただでも飲んではいけない。

「赤ワインか白ワインのどちらかに毒が入っているよ」
こうつぶやかれたら、「赤ワインに毒が入っている。または、白ワインに毒が入っている」と読み替える。これを否定すると、「赤ワインに毒が入っていない。かつ、白ワインに毒が入っていない」となり、どちらを選んでも安全ということになる。


「かつ」と「または」を含む文章の否定形を作るには、次の変換法則を覚えておけばいい。

XYは~である」→3つの要素に分ける→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」。

XYのいずれかが~ではない」→3つの要素に分ける→「Xは~ではない」「または」「Yは~ではない」→(それぞれの要素を否定する)→「Xは~である」「かつ」「Yは~である」。

こんな論理図式に出番などなさそうだが、「論点Ⅰ論点Ⅱから結論が導かれる」という主張を覆すのに論点Ⅰと論点Ⅱの両方を検証否定する必要はなく、いずれか一つを否定できればいいことがわかる。

「あれもこれも」と「あれかこれか」

生半可に考えて作業に取り掛かると、つい「あれもこれも」と欲張り、足し算型の仕事になってしまう。対して、はじめによく考えておけば――先々まで全体を構想していれば――「あれかこれか」と決断でき、作業からムダが省かれて引き算型の動きが取れる。

足し算に問題があるのではない。あれもこれもと考えるのは仕事が始まる前がよく、仕事の終盤で足し算すると収拾がつかなくなりかねない。いったん作業が始まったら、なるべくシンプルに最短で事を運ぶべきなのである。

テーマを広げたり複雑にしたりするのは成り行きでできてしまう。成り行きなので当初の思惑と変わる。だいたい仕事がうまくいかないのは、よく構想したり段取りしたりせずに見切り発車しているからだ。計画から生まれるのは「あれかこれか」であり、作業は引き算中心になる。絞り込んだり簡素化したりできるのは、全体を見渡せているからである。


オフィスでは来客用にホットコーヒーをお出しすることがあるが、昨年までは一種類だけだった。これはこれで何の問題もない。ただ、来客がない時にも飲むので、自分の嗜好性からして他の種類も飲んでみたい。そこで、4月から数種類の豆を挽いてもらって飲み比べし、来客に合わせてセレクトして淹れるようにした。

ところがである。種類いろいろ、値段いろいろ、淹れ方いろいろ試して、自分なりの満足度ランキングができてしまった。そして、ランキング下位の豆にほとんど出番がなくなってきた。あれもこれもと豆を用意してはみたが、飲み比べしているうちに上位の二つが定番になり、この二種類でいいではないかということになった。

あれかこれかと吟味しているうちに、揃えた豆の種類が引き算されてきた。それはそうだろう、ここはオフィスなのであって、喫茶店ではないのだから、品揃えを増やす必要はない。と言うわけで、ぼくの好みのスペシャルティコーヒーを二種類だけ常備することにした。スペシャルティコーヒーとは全コーヒー豆の生産流通量のわずか1パーセントにすぎない。当然値も張るが、一日に惰性で何杯も飲むよりも、ここぞという一杯に気合を入れる。これは引き算型の嗜好ということになるだろうか。

と言う次第ではあるが、アイスコーヒー用の豆や廉価なブレンドの在庫がまだかなりある。当面は来客のコーヒー通の度合をわきまえながらさばくことになる。

無関係なメモ

バイブルサイズのシステム手帳、スマホのメモアプリ、A5判のシステム手帳、スタイラスペンで綴るiPadのノートアプリ……。一応これだけの「メディア」をいつもスタンバイさせているが、常用はバイブル判のシステム手帳と脳内記憶。これでたいていのメモやノートは間に合う。

とは言え、手書きが出発点でない場合もある。つまり、直接PCやスマホで打ち込む雑文が多々ある。紙のメモには手が届きやすく、情報はとりあえず一元化できている。電子デバイスのメモはあちこちに散在して、どこに何があるかわからない。メモやノートに関してはまだまだ紙優勢である。

ノート術のことをこのブログで何度も書き、講演でも何度も喋ってきた。「いったい何を書いているのか?」と興味を示す人は少なくない。何を書いているか? まだよく理解していないことを書く。書きながら内容が明らかになってくるのを期待している。同時に、未成熟なメモを、ただ気になるという理由だけで、走り書きすることもある。


25℃の朝の涼と23℃の朝の涼の違い。2℃の差を表わす語彙が「涼しい」と「昨日より涼しい」では情けない。

楽屋言語で分かり合えることは共通言語になりにくい。共通言語で分かり合えることは楽屋言語派からすれば面白味に欠ける。

一つの大きな愉しみに期待するよりも、日々複数の小さな愉しみを体験するのがよい。大きなものはめったに来ないのだから。

「みんな」と言う時、自分は除かれ、たいてい他者のみを示す。たった一人の他者をみんなと言う場合もある。そう、みんなとは“all”ではなく、都合のよい“someone else”なのである。

人は強い動機や願望によって変身するばかりではない。たとえば樹木や花壇のある川岸に佇んで、偶然にして人は、作曲家に、絵描きに、詩人に変身するきっかけを与えられる。稀にホームレスに変身する人もいる。
数年前、サンマルタン運河沿いでぼくは駄文を綴る徒然の遊歩人に変えられてしまった。その時のメモは紙のトラベラーズノートに残っている。