空間ということばをわざわざ辞書で調べた記憶はない。ある程度イメージができているし、今さら辞書を引くことなどない。と思ってみたものの、気になるので広辞苑を引っ張り出した。「物体が存在しない、相当に広がりのある部分。あいている所」と書いてある。この「あいている」は、「空いている」であって「開いている」ではない。
この定義は、空間が閉じているか開いているかに言及していない。何もなくて空っぽであれば空間と呼べそうだ。空間とは、空の間ではなく、空いている間である。引っ越しの荷物が搬出されて、何もなく空っぽになった部屋の状態。閉じているが、れっきとした空間だ。結構広かったんだなあと述懐する。窓を開けて見慣れた景色に別れを告げる。目の前にはビルに囲まれた更地が見える。天に開いているが、あれも空間。
空間を最初に哲学したのは老子だ。老子は何を哲学したか。「うつわが有用なのはその中が空っぽだからである」と言った。たしかに。そのうつわは空っぽだが、そこにお茶を注げばお茶碗になる。コーヒーカップではない。お茶を飲み干してから、コーヒーを入れたらコーヒーカップ。それも啜り終えたら、空っぽになる。その瞬間、そのうつわは有用度を増す。
老子は次のようにも言う。
部屋が有用なのもその中が空っぽだからである。
昔の家には「何でも部屋」のような一室があった。普段は片隅に箪笥が置いてある程度で、ほぼ空っぽの和室。そこに卓袱台を持ち込めばにわか応接間になった。それ以外に、その一つの部屋が居間、食堂、書斎、寝室、裁縫室、娯楽部屋に変化した。片付けてしまえば、何にでも化けることができる有用な空っぽの部屋に戻る。
うつわにしても部屋にしても囲まれた有形である。しかし、中空の構造を持つ。有形のものが使い勝手がよく有用であるためには、無形の構造という条件を満たさねばならない。
ところで、広辞苑の定義には「相当に広がりのある部分」という記述があった。だからと言って、広大な宇宙を想像してはいけない。空間というのは広いから認識しやすいというものでもないのだ。大きい家、大きい部屋だが、空間の広がりを感じない場合もある。一方、まったく狭さを感じさせない小さな家、小さな部屋がある。広がりのある小ささは簡素で洗練された空間の理想形なのだろう。ル・コルビュジェが設計したレマン湖畔の〈母の家〉はその最たるものである。