岐路の決断

人生は大小様々な岐路ばかり。こう言ってみれば、たしかにそうだろう。だからと言って、明けても暮れても清水の舞台から飛び降りるような決断を迫られるわけではない。こと日常に関しては経験の知で軽やかに凌ぐことができ、顔色変えて意を決するような場面はめったにない。

日常の些事をいつも「ハレ」の儀のように重く捉えている知人がいた。いちいち大仰に心を新たにしなければ行為できず、諸事をてきぱきと取り扱えなかった。日常の小さな意思決定に経験や習慣を生かせない。たまに読む書物からは概念ばかり学び、日常をふつうに生きていなかったようなのだ。日常から離れた概念で生きていたら息苦しくなるのは当たり前。相談を持ちかけられ、次のように言ったことがある。

読書して知的になりたい、美術館に行って芸術に触れたいなどときみは言うけれど、知性や芸術心は日常の外で育むものではない。日々の習慣の一部なのではないか。ふだん読書や芸術鑑賞になまくらなきみが一念発起して親しもうとするたびに、命を賭けるような決断をしているのが滑稽だ。知的であることもアート的であることも特別ではない。いくばくかの好奇心と主体性さえあれば、三度の飯の間も、飯と飯の間でもそんな生き方はできる。覚悟なんていらないし、いちいち深呼吸して身構えることもない。日常をしっかり生きていれば、非日常的事態にあっても決断のジレンマに戸惑うことはないはず。

日常から知恵を得ていなければ、ここぞという決断の場面で後悔が先に立つ。その結果、何も決断できなくなる。明日になったら考えようと、モラトリアム人生は続く。


あの時、(こうではなく)あのようにしていたら、自分の人生は別のものになっていただろうと、戻らぬ過去を振り返って悔悛する。今に到ったあの時の選択が「やっぱり間違いだった」と吐露する。それが確信に変われば、これから先の日常は無常となり、自暴自棄と隣り合わせの日々になる。経験と呼べる経験は積めず、習慣と呼べる習慣は形成されない。

あの場面では、今のxではなく、別のyという選択肢がたしかにあった。今のxではなく、別のyを選んでいたら、自分の人生は大いに変わっていただろう……と自責の念に駆られる。しかも、この種の自省においては、選ばなかったyのほうがつねにxよりも優れていたに違いないという信念が支配的になる。なぜ今を肯定的に眺めることができないのか、不思議でならない。

選ばなかったyのほうがよく、選んだxが運悪かったなどという恨み節は、二者択一のくじ引きではよく吐かれる。ところが、人生の岐路というのは、実はxyという二者択一などではない。選んだのはx一つだが、選ばれなかったのはyだけではなく、その他多数なのである。見方を変えれば、おびただしい選択肢からたった一つが選ばれ、その選ばれた一つからその先に無数の選択肢が分岐し、その中からさらに一つが選ばれる……。その繰り返しなのだ。

岐路で選ばれなかったほうがよかったはずというのは幻想にすぎない。今がどうであれ、後悔と反省を延々と続けるくらいなら、あの時選んだ道を歩む自分に必然を見てとるべきだ。今を肯定しなければ始まらない。しかし、あの彼のように、岐路のジレンマに襲われて決断できない自分、モラトリアムに酔う自分を肯定することだけは何としても避けなければならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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