地と図 地と図には関係がある。あるもの(図)が他のもの(地)を背景にする時、図が浮き上って見えてくる。何かを別の何かになぞらえる、あるいは見立てるということが生じる。ルビンの杯と顔の絵でよく知られている。言うまでもなく、ルビンのあの絵にはゲシュタルトが仕込まれている。絵だけでなく、ことばでも起こる。何ら仕込みをしなくても、あることばが他のことば群の中で際立って知覚されることがある。たとえば、あるテーマについて考えるとする。それをテーマという対象と自分とのやりとりに見立てることができる。実際にやりとりしてみると、すでにわかっていることが地になり、わからないことが図として現れる。そして、考えるという行為が不足探しだということに気づく。
強がる弱さ 臆病で引っ込み思案のくせに、見栄だけは一人前に張ってみせ、力関係を天秤にかけては虚勢を強さに変えようとする。「強がり」は真の強者には無縁。それは弱者の振る舞いだ。老子は「柔弱」の価値を讃えたが、「強がる弱さ」はもっとも柔弱から遠いと言わざるをえない。強かろうが弱かろうが、短絡的に弱さを見せることもなければ強がってみることもない。分相応に力を発揮すればいいわけだ。外交戦略のように駆け引き過剰、強がり一辺倒には芸がなく、逆に相手に手の内を読まれてしまいかねない。あれこれとカモフラージュする暇があったら、素直に徹するのがいい。素直が強いのである。
疲れたらどうする? 根岸英一博士は「根岸カップリング」で有名だ。根岸カップリングとは、有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化合物とを……から始めて最後まで説明できないし、仮に説明できたとしてもこの際あまり関係がない。その根岸博士が、ある時チャーチル首相の本を手に取り、その冒頭の文章に大いに刺激を受けたという。「Aで疲れたら、何もしないのではなく、Bをやってみる」。うまくいかないことや疲れることがあれば、凡人は何もしない時間を作ろうとする。しかし、何もしない時間が過ぎれば、やがてうまくいかなかった作業に戻らざるをえない。以前にもまして疲れるかもしれない。もとより、何もしないことで疲れが癒される保障などない。Aで疲れてBでも疲れる可能性はあるが、BがAへのヒントになるかもしれないと考えるのが非凡な発想なのである。
おばあさんの手紙は長い 「時間をたいせつに」とか「忙しければ、ひとまず短い簡単なメールか電話を」などという。ビジネスマナー論として語るまでもなく、みんなわかっていることだ。わかっているのにできないのは、時間がないとか忙しいと言いながらも、能力がないか暇な時間があるからだろう。英国に「おあばあさんの手紙は長い」という言い回しがある。毎日時間がたっぷりあるお年寄りは、いったん手紙を書き始めたらなかなかペンが止まらない。冷静に考えれば、お年寄りは日々時間があっても、人生の時間は残り少ない。人生のことを考えたら、長い手紙ばかり書いているわけにもいかないはず。しかし、時間は量なのではなく、感覚だ。時間はあると思えばあり、ないと思えばないのである。