フェイントの季節

近くの川岸が夕方になるとほのかに橙色を帯びる。もしかして桜? と早とちりする人がいるが、十日以上早いからさすがに桜はない。実はライトアップ。ライトアップが春のフェイントをかけているのだ。

春本番を控えて景色がフェイントをかける、気配も気候もフェイントをかける。フェイント(faint)は「かすかな」ということ。かすかであるから一時的に春らしくなっても、すぐにらしさは消えて、また肌寒くなったりする。三寒四温とは、冬から春に移り変わる時期の言い得て妙である。

散歩中に、右へ曲がりかけて、ふと気が変わって左へときびすを返すことがよくある。冬色と春色が境界なく混ざるような配色も目に入る。焦点が定まらず、身体も適応し切れず、気持ちはいいのだが少々気だるくふわっとする午後の時間がある。


今年こそやるぞ! 旅に出るぞ! 本を読むぞ! 趣味に勤しむぞ! などと毎年同じことを決意表明する者がいる。必ずしも他人事と言って片付けられないが、あれもフェイントの一種である。自分を宥め欺き、決意をきれいさっぱり忘れるために欠かせない一人フェイント。

人生は大小いろいろなフェイントの連続。時には一人で、時には集団で。フェイントは自分を、他人を惑わせ続ける。そして、フェイントであったことがばれる。フェイントのフェイント、それに次ぐフェイント、そのまたフェイント……フェイントはフェイントを呼ぶ。

ことばと味覚の辻褄合わせ

ヴァイン・イン・フレイム/カベルネ・ソーヴィニヨン 2018 ブドゥレアスカ。

初めての赤ワインの銘柄。まだ抜栓していない。最後尾のブドゥレアスカに「ブドゥ」が入っているのは偶然である。これはワイン生産者の名前。場所はルーマニアの南部。外国のワイン生産者が日本に合わせて名付けしたのではない。

デパートで見つけた一本。日本ではフランスとイタリアが圧倒的な流通量を誇り、次いでスペイン、ドイツ、チリ、南アフリカ、オーストラリアあたりが続く。メジャーではないジョージア、ハンガリー、ブルガリアなどのワインをデパートや品揃えのいいワインショップで見つけるたびに飲んでみた。飲んでいなければ親近感を覚えないが、少し飲み慣れるとコスパの良さに驚く。


そして、ついにルーマニアである。どんな香りでどんな味か。専門家のレビューなど読まずにさっさと飲んでみればいいのに、「初銘柄のルーマニア」にそそのかされてつい評判を知りたくなって、ワインサイトを覗いてしまったのである。

カシスやブラックベリー、爽やかな新緑のような香りに、黒胡椒のニュアンス。酸は心地よく、しっかりとした果実味にまろやかなタンニンが感じられる。

爽やか、ニュアンス、心地よい、しっかりとした、まろやかな……香りや味はいつの時代もボキャブラリー不足である。既知の表現の組み合わせから未知の香りと味をイメージすることはできるが、再現性は頼りない。

自分が感知した味とすでに書かれたコメントが違うと、「あれ?」という感じになる。大いに違っていると、不快感や不安感を覚えるかもしれない。そして、自分の味覚にがっかりしないように、感じた印象が実は書かれたコメントに近いと思いなすようになる。さて、近々このワインを賞味するつもりだが、はたしてそのような――認知的不協和的な――味覚とことばの強引な辻褄合わせすることになるのだろうか。

楽 (らく) と楽しみ

背伸びして生活したり仕事したりしていれば肩肘も気も張る。誰にもそんな時期があるだろう。しかし、気は――張るだけでなく――時々緩めないと疲れ果てる。己の分と能力をよくわきめておくのが肝要である。

堀口大學に『座右の銘』という短詩がある。

暮らしはぶんが大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ

分相応に生きろなどと他人に言うと生意気だが、自分自身に言い聞かせるなら支障はない。分や能力の程度で生きていれば、周囲の事情や他人の存在につねに気を遣うこともなくなる。つまり、気楽になれる、力が抜ける。


気楽は「いい加減」とは一線を画す。無理することなく、どこかで「なるようにしかならない」と諦観してのんびり構えている様子だ。「気楽が何より薬です」と言われてあらためて「薬」の中の「楽」を確かめる。漢字で薬と書けば、その薬は元々漢方。漢方薬の原料は草の葉や根や皮がほとんど。だから「くさかんむり」。

この楽は「らく」であり、落ち着いてゆったりした気持ちのさまだ。気楽、安楽、極楽の楽である。病を治すばかりが薬ではない。うまく処方すれば、未病に働いて心身は楽になる。

楽はやがて余裕を生み、歓楽や快楽にも変化して感覚をたのしませてくれる。それは、身近なところでは音楽が与えてくれるような安らぎ、歓び、快さ。

先日のこと、知人から電話が入っていたのに気づかなかった。折り返した。
「すみません、間違ってかけました。元気にされてますか?」
「まあ、耐えているというところかな」
「暖かくなったら歌いに行きましょう」

なんで歌? とその時は思ったが、なるほど、音楽にはらくたのしみの薬効がある。歌うどころか、最近はあまり聴きもしていないことに気づかされた。

本にとって都合の悪いこと

「対象への愛に支障を来す存在は対象の敵である」と言えるのかどうか。ちょっと面倒だが、こんなことを考えさせられる本に出合ってしまった。『書物の敵』(ウィリアム・ブレイズ著)という本である。

まず「書物への愛」について考えてみた。すぐに一筋縄ではいかないことがわかった。単に読書好きと言うだけでは片付かない。所蔵好き、装幀好き、書斎好き、書店・図書館好き、本の歴史好き、そしてぼくのような背表紙眺め好き……。本にまつわる何々好きなどいくらでもある。

古本屋でこの本の背表紙に目が止まった時点で、書物と敵という組み合わせに新鮮味を覚えた。そして手に取った時点で、書物の敵はぼくの敵でもあることを認めたような気になった。普段はここで表紙を開けて目次に目を通してページを繰るのだが、そうしなかった。「本の敵とは何か」を、この本を読む前に推測してみようと思ったのである。


書物に危機を与えたり破滅させたりするもの。書物イコール読書ではないから、読書を妨げる騒音や読書を遠ざける怠慢は敵ではない……。

物理的存在としての本にダメージを与えるものは何か。人間もダメージを受ける自然災害だ。とりわけ水害や過度の湿気。湿気が多いと本の紙魚シミがわく。人間が原因となる人災も敵になる。本の良さは紙だと思うが、その良さが弱点になる。火災に見舞われたら跡形もない……。

精神的存在としての本の敵は思想弾圧であり、それに付随して頻繁に焚書がおこなわれた。これも火である。焼き尽くされなくても、厳しい検閲によって禁書にされれば書物の存在は危うくなるし、人々は読書機会を失う……。

書物の敵として読者の知性の低さも忘れてはいけない。書物はありとあらゆることに関して、様々な知的レベルで編まれ出版されるのが健全だ。苦労せずに読める、売れそうな本ばかりが求められれば、本の文化は広がらないしテーマもジャンルも偏ってしまう。本が存続するためには多様性が不可欠ではないか……。

こんなふうに思い巡らしてから、本を開け目次を見た。第一章から第十章までの見出しは次の通り。

火の暴威、水の脅威、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉

火と水と無知と紙魚以外はまったく見当もつかなかったし、かなり違和感を覚えた。気になる箇所だけざっと読んでみたら、なるほど安っぽい製本にすれば劣化が早い、また、蒐集した本の題扉とびらを好き勝手に切り取れば希少本が失われることになる。それにしても表現や時代感覚がしっくりこない。奥付を見たら、原書“The Enemies of Books”1896年にロンドンで発行とある。この本を買ったことに後悔はないが、今から買おうとする本の目次と奥付くらいには目を通しておくのがいいと思う。

シリーズや行頭の番号のこと

新聞や雑誌でシリーズ化されたコラムを見つけるとする。その時、なぜシリーズだとわかるのか? タイトルの近くに番号や符号が付いているからである。『ドキュメント 新型コロナを検証する ㊤』という具合。㊤とあれば、次回はおそらく㊥で、シリーズの最後が㊦になり、3回シリーズの可能性が高い。最初に出合ったのが㊥で、記事がおもしろかったら㊤も読んでみたくなるが、理髪店でたまたま手に取った雑誌だと先月号は手に入れにくい。

書籍は上巻と下巻でいいが、コラムなら「前編、後編」のほうがよさそうだ。コラムによっては何も印さず、最初の記事の巻末に「続く」と書き、続編の記事の最後に「完」で締めることもある。4回以上続くなら通常は数字を使う。第1回、第2回……、①、②……、<1>、<2>、……というような体裁で記す。数字の場合は何回続くかはわからない。「最終回」という文字を見てその記事でシリーズが終わることを知る。

ワードやパワーポイントで箇条書き体裁にする時、上記のような順序を示す行頭符号を選ぶ。箇条書きが小さな箇条書きに枝分かれしていく場合は、複数の符号を使う。このようにしてできる箇条書きの構造を〈抽象のハシゴabstract ladderと呼ぶことがある。よく論文などで見る次のような構造である。

Ⅰ ・・・・・・・・・・
  A ・・・・・・・・・・
    1 ・・・・・・・・・・
      (a) ・・・・・・・・・・

 があるのだからがあり、それぞれにAがあり、AがあるからBもあり、またABの下にそれぞれ12があって、さらに12の下にそれぞれ(a)(b)が置かれることになる。どこにどんなことが書かれているか(ディレクトリー)を示すのは簡単で、たとえば「Ⅱ-D-3-(c)」などで示せる。


小難しそうだが、何のことはない、普段住所を書く時は「抽象から具象へのハシゴ」を下りている。二段目以降が同じでも、一段目が違えばカテゴリーは別になる。東京都と大阪市には同じ地名が存在するが、おおもとの東京と大阪が別だから郵便配達も間違わないのである。

Ⅰ 東京都
  Ⅰ-A 中央区
    Ⅰ-A-1 日本橋
  Ⅰ-B 港区

Ⅱ 大阪市
  Ⅱ-A 中央区
    Ⅱ-A-1 日本橋
  Ⅱ-B 港区

符号――特に番号――をモノや概念に振るのは、順序やグループ分け(差異化)を認識しやすく共有しやすくするためである。裏返せば、順序もグループもどうでもよく、誰かと共有しないのであれば、わざわざ行頭に符号を振って箇条書きにすることもないし、シリーズに番号を付ける必要もない。書き手が「第何回」を意識するほど、読み手は気にしていないのである。

リアルとシュール

ステーキにはステーキソースか塩・胡椒が当たり前だった。この組み合わせが常識・定番コモンセンスで、それ以外の選択肢はないように思えた。ところが、ステーキにわさび醤油が合わされるようになった。シュールで前衛的な印象を受けた。「ん? 合わんだろう」と首を傾げて食べているうちに、この食べ方も定着して、今ではまったく意外性はない。

シュルレアリスムの手法の一つに〈デペイズマン〉というのがある。フランス語で「意外な組み合わせ」を意味する。今、ぼくのデスクの上に書類があり、その上にガラス製のペーパーウェイトが置いてある。「デスクの上の書類とペーパーウェイト」に誰も不意を突かれない。このマッチングは常識も常識、日常茶飯事の光景である。しかし、書類の上にラップに包みもせずに焼きおにぎりを乗せたら、その光景はシュールになる。

対立する二つの要素――または常識的にはなじみそうにない二つの要素――を並べて、コラージュのように貼り合わせてみると、シュルレアリストたちの好む画題が生まれる。かつてロートレアモンが表現した「解剖台の上で偶然に出合ったミシンとこうもり傘」を美しいと思うか思わないかは別にして、意外性にギクッとする。特に解剖台という設定に。


「シュルレアリスムとは、心の純粋な自動現象によって思考の働きを表現しようとすること。理性や美学や道徳から解放された思考の書き取りである」とアンドレが言った。一言一句この通り言ったのではなく、こんな感じのことを言った。アンドレ? フランスの詩人で、シュルレアリスムの草分け的存在、ほかでもないアンドレ・ブルトンその人。

フランス語の“surréalisme”は「超現実主義」と訳された結果、前衛的なニュアンスを持つようになった。ともすれば、現実に相反する概念のように錯覚するが、“sur-“は強調であり誇張だから、シュルレアリスムは現実の表現の一つにほかならない。ある場所において、何かと何かが出合う可能性は無限のはず。頻度の高い組み合わせが当たり前になってきただけの話ではないか。

花札の二月も都々逸も「梅に鶯」だが、ぼくの居住圏では「梅にメジロ」しか見たことがない。子どもの頃から親しんだ花札には定番のマッチングやペアリングがある。たとえば、一月の「松に鶴」は掛軸に多く描かれているし、落語の笑福亭松鶴を思い出す。三月の「桜に幕」は花見光景、また、八月の「すすきに月、芒にかり」や十月の「紅葉に鹿」などもいかにも「らしい」。

他方、シュールっぽいのもある。五月の「菖蒲に八つ橋」、九月の「菊に盃」、十一月の「雨に柳と小野道風」、十二月の「桐に鳳凰」等々。すべてにエピソードがあり、知ってしまえば納得できるが、知らずに組み合わせの絵柄だけを見ればかなりシュールである。定番や常識の世界にシュールが現れてドキッとし、何度も見ているうちに慣れてきてシュールが不自然でなくなる。シュルレアリスムが現実や常識とつながっている証拠である。

足したり引いたり

ある原型にあれもこれもと足して新しい形を作る。さらに足していくと別の新しい形が生まれる。こんなふうに足し続けていけば、やがて飽和状態になる。そこから先はもう盛りようがないので、翻って盛ったものを削ぎ落とし始める。いったん足したものを引いていくと、型が徐々にすっきりとシンプルになる。これを〈洗練〉と呼ぶことがある。

足し算していくと煩雑になり野暮になる。そこで引き算に転じる。しかし、引き算には限界がある。ずっと引き続けていくと何も残らない。どこかで引き算に歯止めをかけたり、ほんの少し足してみたりして加減するようになる。有名なあのウィスキーは、「何も足さない、何も引かない」という絶妙なところに落ち着いた。


肉うどん好きの新喜劇の役者。その日にかぎって、いつもの肉うどんが重く思えた。「うどん抜きの肉うどん」という変則の一品を注文してみた。肉うどんからうどんを引けば、肉とネギの出汁である。これを「肉吸い」と呼んだ。肉吸いは評判になり、店のオリジナルメニューになった。

その店ではないが、肉吸いと卵かけご飯の定食を出す店がある。肉うどんの主役はうどんだが、肉吸いで食べるのは肉である。肉が主役だから、肉うどんで食べる肉よりも質が問われる。安物の肉では商品にならない。ぼくが注文した肉吸いの肉は割といい近江牛だった。したがって、肉吸いは肉うどんよりも高くつくことがある。

肉うどんからうどんを引いて肉吸い。ランチが肉吸いだけでは物足りないから、ご飯ものが欲しくなる。ご飯に代わる腹の足しになるものは結局麺類だから、それなら肉うどんにしておけばいい。肉吸いにうどんを足せば肉うどんの一丁上がり。

先日、蕎麦処でおもしろい一品を見つけた。「肉吸いそば」である。「肉そば」ではなく、肉吸いそば。つまり、いきなり肉そばを作るというイメージではなく、引き算の肉吸いを経由して生まれたコンセプトである。料理というものは、麺類だけに限らず、このように足したり引いたりして変化していくものなのだろう。

名付けとネーミング

「名付け」を英語にすると「ネーミング(naming)」。ネーミングを日本語に訳すと名付け。同じ意味だが、使う場面に違いが出る。名付けは対象を特に選ぶことなく命名一般に使う。他方、ネーミングのほうは商品やブランドの名前に使われることも多く、消費者への印象付けを意識するところがある。

『古事記』は名付けの例の宝庫である。誰それがこうしたというエピソードにちなむ地名が詳細に書かれ、史実らしきものも多々あるが、駄洒落やことば遊びと思われるものも混じっていそうだ。そもそも苗字の命名は土地とその地形的特徴に由来し、山や田や村、川や森や野などを含む姓などは必然おびただしくなる。

最初にことばが生まれた頃は、何らかの〈音〉と〈もの〉が、特に規則性もなく、たまたまくっついたと思われる(但し、人間にとって発声しやすい音だっただろう)。ともあれ、名とその名で表されるものの関係は恣意的であった。つまり、犬を「ネコ」と命名しても、猫を「イヌ」と命名してもよかったのである。

ほとんどのものがまだ名を持たない時代と違って、名の付かないものがない現代では新しく生まれるものに創作的な名付けがおこなわれる。既存のものとの差異をはっきりさせるために、また、コンセプトを定めてそれに見合うように名前が考えられる。コンセプトをかたどるような表現が名付けされることもあれば、コミュニケーションを意識した表現でネーミングされることもある。


ものの名を知らないなら、もの自体もたぶん知らないだろう。いや、ものは見たことがあるかもしれない。しかし、見ていたとしても名を知らなければよく知っていることにはならない。名が不明不詳だと目の前の「それ」に不安を覚える。知らなければ信頼しづらいし、「それ」についての情報もうまく共有することができない。

Xに名付けするとは、同時にYZと差異化することでもある。Xだけに名前があってYZになければ、その三者間において名付けすることに意味はないし、名がないものとの差異化もできない。特に、「右」と「左」など、概念が二項対立的な関係の場合、今日「右」だけが名付けられて、明日「左」が名付けられるなどということはありえない。同時に名が生まれる必要がある。右は左によって、左は右によって明らかになる。相互にもたれ合って成り立っている関係なのである。

人の名前を知らなかったら、「すみません」とか「そこのあなた」などと呼びかけるしかない。名前を知らないと落ち着かないから、初対面の場では口頭で自己紹介したり名刺を交換したりするのである。一度も見たことのない人の話が出たとする。その人の名前が「〇山〇郎」であろうと「川□和□」であろうと何とも思わない。

しかし、指名手配犯になると話は違う。容疑者の名前がわかっているし写真もある。名前だけでも写真だけでも指名手配はやりにくい。名前と写真が一体となってこその手配書なのだ。姓名不詳の似顔絵やモンタージュの場合、姓名と写真の不足を補うための「50歳代の丸顔の男」という情報だけでは逮捕に協力するのが難しい。かつての「キツネ目の男」がそうだった。顔文字にほんのわずかなコメントを添えた手配書ではいかんともしがたいのである。つまり、人のアイデンティティには名とものとしての顔が欠かせない。

批評における主語選び

私はこの街に住んでいる」
「私は元気な人間だ」
だから、「この街に住んでいる人は元気である」

書かれた文章を読むと、二つの前提から導かれた結論の危うさがわかる。前提となる文章はどちらも「私」に限った話なのに、結論ではいきなり「みんな」に膨らんでしまっている。この論理の誤りには〈小概念不当周延の虚偽〉という難しい名前がついている。

〈私〉という小さな概念を〈みんな〉という概念に不当に置き換えてはいけない。全体について言えることは部分についても同じことが言えるが、部分について言えるからといって全体にも同じことが言えるとはかぎらないのである。

命題には主語と述語が含まれる。主述関係は論理の基本なので、主語の集合概念の大小をきちんと捉えておく必要がある。書いたらわかるのに、不注意に話したりすると、後になってとんでもないことを喋っていたことに気づく。「つい口が滑ったのではない、常々思っているからそう言ったのだ!」と指摘されてもしかたがない。


女性っていうのは、優れているところですが、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。結局、女性っていうのは(……)」(森喜朗東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、2月3日、臨時評議員会。傍線は岡野)

「女性は」「男性は」「高齢者は」「今どきの若者は」など、大きな概念の一般主語でデリケートな内容を語ろうとすると誤謬の可能性が高くなる(虚偽を免れるのは、ごくわずかに「人間はみな死ぬ」のような自明の命題に限られる)。

大きな概念の主語でデリケートな問題について断言的に主張すると、「すべてがそうではないぞ!」と反論される。それだけでは収まらず、問題によっては差別・偏見と批判され、この時代ならではのネット炎上を招くことになる。では、「一部の……」と概念を小さくしたり具体的に名前を挙げたりして批評をすれば、極論や虚偽を避けられるだろうか。公開の場なら、一部の人たちや名指しされた人物から当然反論が出てくる。

では、公開の場で「誰々」と言うかわりに、密室で直接会って言ってみるのはどうか。これで世論からは隠れることができるかもしれないが、今度は当の相手から「パワハラを受けた」と訴えられ、公になるかもしれない。覚悟の足りない御仁はあまり慣れない批評などしないほうがいい。

と言う次第で、主語を何にするにしても、批評がしづらい時代になっているようだ。安全な批評は「私」を主語にした、一人反省会のような自己批評だろう。たしかに批評は昔に比べてデリケートになった。しかし、女性や男性や高齢者や若者などの大雑把な括りで、大雑把な物言いをするから問題なのだ。批評を手控えるようなことがあっては中身のある議論ができなくなる。実名による批評は――たとえそれが堅固な世論に向けられたとしても――匿名のネットでのやりたい放題よりはよほど健全なのである。

最良だったり最悪だったり

「今がサイコー」とご機嫌よくても、そこがピークでその先はくだるのみかもしれないし、サイコーの気分は上方修正されるかもしれない。同様に「サイアク!」と落ち込んでも、この先上向きになるかさらなるサイアクが待ち受けているのかはわからない。

最良/最高(best)とか最悪/最低(worst)だとか言えるのは、ある一定期間を振り返るからだ。最良とか最悪と感じる本人による過去の述懐にほかならない。期間限定であっても、数字で表せるのならともかく、気分や感覚をベストとワーストで評価するのはむずかしい。

昨年の土用の丑の日に食べた鰻を生涯最高だったと言うことはできる。この一年を振り返って「あの仕事は最悪で散々だった」と嘆くことはできる。他の誰でもない、本人がそう感じそう思ったのだからとやかく言うことはできない。最悪だと嘆く自分に「そんなに落ち込まなくても、ここが底だから」と言う友人の場合はどうか。決して励まされてはいけない。友人は預言者ではないし、底という主張の責任を負ってくれないのだから。


控えめなベターではなく、ベストなどと最上級で断定できるのは将棋や囲碁のAIソフトを除いて他にない。一般的には、最上級表現は現在形とは相性が悪いのである。だから、今が最悪、これからは良くなるという保証などありうるはずがない。

ピンチに陥ったにもかかわらず、どれだけの素直な人たちが、根拠のない「ピンチの後にチャンスあり」で励まされ、ノーテンキに生きたことか。常識的に考えればわかるはず。ピンチがチャンスに変わる可能性よりも、ピンチがさらなるピンチを招く可能性のほうが大きいのである。

もっとも、「人生最高!」と歓喜した次の日に、それを凌ぐ最高もありうるだろう。しかし、最良だ最悪だと言って一喜一憂してもしかたがない。最上級に出番を与えすぎてはいけないのだ。用いるべき評価としては比較級のほうが現実的である。英語の比較級“better/worse”に対して、日本語の表現は「より良い/よりひどい」などと少々ぎこちない。だから、安易に最上級の「サイコー/サイアク」を使ってしまう。取り扱い要注意である。