桜は「咲く」と「散る」がつながっている。咲いたら散るし、散るのは咲いたからである。咲かなければ散りようがない。咲いてやがて散って一つの経過が完結。では、どんな物事でも始まりあっての終わり、終わりあっての始まりと言えるか。必ずしもそうではなさそうである。
終わりは始まりに知らん顔できないが、始まりは終わりを無視することがある。「始めるのが当方の仕事でして、いつ終わるかは終わりに聞いてください」という趣がある。『新版 モノここに始まる』という本が、「モノここに始まりここに終わる」ではないことに注目しておきたい。
この本では、洗濯石鹸、フォーク、拡声器、チューリップ、人造真珠、金融業などの始まりについて書かれているが、終わりには言及していない。なぜなら、紹介されているすべての物事が今も現役で存続しているからである。原初についてはわからないことだらけなので、「始まる」と言い切っていても断定しているわけではない。
「開花宣言」という表現があるように、開花したかどうかは桜が決めているのではなく、人が観察して決めているのである。始まりと終わりは「告げられる」ものであり、観察による解釈にほかならない。それまでとは違う状態が新たに認知されたら「始まり」、ずっと続いていた状態がこの先続かないと判断したら「終わり」。
ある現象や状態を「始まり」と呼ぶか「終わり」と呼ぶかで感じ方が一変する。ルネサンスは「近世の春」なのか、それとも「中世の秋」なのか。青葉の見映えが鮮やかで、汗ばむほど陽気のいい昼下がり。これは春の終章か、それとも夏の序章なのか。散歩の途中で寄ったカフェでアイスコーヒーを飲みたくなったらひとまず後者。
始まりも終わりもデジタル的なスイッチが入るのではなく、アナログ現象のどこかに人が分節点を見出しているにすぎない。おおよその始まりに「初」を、おおよその終わりに「晩」をつければ、いちいち厳密に始まりや終わりを告げなくてもすむ。初夏や晩夏とは巧みな言い表し方だ。半月に一回移ろう二十四節気という分節点の多い風土ならではの創意工夫である。