併読術について

アリストテレス「哲学のすすめ」.jpgのサムネール画像年半近く続けてきた読書会〈Savilna 会読会〉が昨年6月を最後にバッタリと途絶えてしまった。別に意図はない。何となく日が開き、主宰者であるぼくがバタバタし、そしてメンバーからも再開してくれとの催促もないまま、今日に至った。ついに今夜から再開する。何でも「新」を付けたらいいとは思わないが、リフレッシュ感も欲しいので〈New Savilna 会読会〉と命名する。

それぞれ自分の好きな本を読んでくる。文学作品以外はだいたい何でもいい。そして、書評をA412枚にまとめて配付し、さわりを伝えたり要約したり、また批評を加える。「この本を薦める」という、新聞雑誌の書評欄とは異なり、「私がきちんと読んで伝えてあげるから、この本を読む必要はありません」というスタンス。カジュアルな本読みの会ではあるが、根気よく続けていれば一年で数十冊の本の話が聴けるという寸法である。

昨年までは毎回7~10人が発表していた。久々のせいかどうかは知らないが、今夜の発表者は4人と少ない。実は、ぼくは写真左の『身近な野菜のなるほど観察録』を書評しようと思っていた。おびただしい野菜が紹介されているが、夏野菜に絞って話をし、ついでに書評者自身の夏野菜論を語ろうと思っていた。しかし、4人とわかって、それなら少し骨のあるものをということで、写真右の『アリストテレス「哲学のすすめ」』を選択した。骨があると言っても、『二コマコス倫理学』などに比べれば入門の部類に入る。


読書についてよく考える。本を読む時間よりも本を読むことについて考える時間のほうが長いかもしれない。自分の読書習慣についてではなく、誰か他の人から尋ねられて考える。どんなことかと言えば、「どのように本を読めばいいか?」という、きわめて原初的な問いである。たいして熱心に読書してきたわけでもないぼくに聞くのは人間違いだ。もちろん歳も歳だから、ある程度は読んできた。だが、ノウハウなどあるはずもなく、いつも手当たり次第の試行錯誤の連続だった。

本ブログを書き始めて4年が過ぎたが、その間、読書についてあれこれと書いてきた。最近では、一冊一冊読み重ねていって〈知層〉を形成しようとするよりも、複数の本を併読して〈知圏〉を広げるほうがいいと思っている。一冊ずつ読んでもなかなか知は統合されない。一冊を深く精読することを否定しないが、開かれた時代にあっては「見晴らし」のほうが知の働きには断然いい。

複数の、ジャンルの異なる本を手元に置いて併読している。「内容が混乱しないか?」と聞かれるが、ぼくたちのアタマは異種雑多な知を処理しているではないか。現実に遭遇する異種雑多な情報や課題や問題を取り扱うのと同じように本も読む。精読や速読ばかりでなく、併読術も取り入れてみてはどうだろう。

速読から「本との対話」へ

速読の話の第三話(最終回)。

前の二話で速読そのものを一度も否定していない。ぼくの批判点はただ一点、速読への安易な姿勢に向けたものである。まず、速読は読書キャリアがなければ無理だと書いた。また、自らの読書習慣を省みずに速読に飛びつくことに対して異議を唱えた。さらに、どんなに熱心な読書家であっても、まったく不案内のジャンルの本を神業のように速読することは不可能だと言っておこう。万に一つのケースが誰にでも当てはまるかのように喧伝したり吹聴したりするのは誤解を与える。

本をいろいろと読むのはいいことである。本は思考機会を増やし知のデータベースを大きくしてくれる。けれども、多種多様にわたって多読をこなそうとし、手っ取り早い方法として速読を選択するのは浅慮もはなはだしい。多種多様な本を多読したというのは結果である。それは何十年にもわたる日々の集積なのだ。知的好奇心に誘われて本を選び、そして読む。読むとは著者との対話にほかならない。形としては著者が一方的に書いた内容に向き合うのだが、一文一文を読みつつ分かったり分からなかったりしながら読者は問い、その問いへの著者の回答を他の文章の中に求めるという点で、読書は問答のある対話なのである。

読んだ本について誰かがぼくに語る。そこで、好奇心からぼくは聞く、「いい話だねぇ。いったい誰が書いたの? 何というタイトル?」 読んだはずのその人は著者名も書名もよく覚えていない。最近読んだはずなのに、覚えているのは結局「本のさわり」だけなのだ。それなら新聞や雑誌で書評を読んでおくほうがよほど時間の節約になる。その人は単に文字を読んだのであって、著者とは対話していなかった。こんな読書は何の役にも立たない。持続不可能な快楽にすぎない。一年や二年もすれば、その読書体験は跡形も残っていないだろう。


先日新聞を読んでいたら、『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)が書評で取り上げられていた。関心のある向きは買って読むだろう。なにしろピーター・F・ドラッカー本人の自伝である。この本を読む人は著者も書名も忘れないだろう。おそらくドラッカー目当てに読むからだ。他方、その書評の下か別のページだったか忘れたが、新書の広告が掲載されていた。それは見事に浅知恵を暴露するものだった。書名は忘れたが、ほんの90秒で丸ごと朝刊が読めるというような本だった。これが真ならば、もうぼくたちは読書で悩むことはない。いや、読書以外の情報処理でも苦しまない。理論化できれば、その著者はノーベル賞受賞に値する。ノーベル何賞? みんなハッピーになるから、平和賞だろうか。

朝刊は平均すると2832ページである。文庫本を繰るのとはわけが違って、新聞を広げてめくるのに1ページ1秒はかかる。つまり、30ページなら30秒を要する。残り1分で30ページを読むためには、あの大きな紙面1ページを2秒で読まねばならないのである。さっき試してみたが、一番大きな記事の見出しをスキャンしただけでタイムアップだ。「ろくに本も読まずに極論するな」と著者や取り巻きに叱られそうだが、著者も極論しているだろうし、その本を読まない人に対しては多分にデフォルメになっているはずだ。おあいこである。

現時点で有効なように見えても、一過性の俗書は俗書である。他方、時代が求める即効的ノウハウ面では色褪せていても、良書は良書である。そこで説かれたメッセージは普遍的な知としてぼくたちに響く。長い歴史は書物の内容に対して厳しい検証を繰り返すものだが、どんなに後世の賢人に叩かれようとも、たとえば古代ギリシアの古典もブッダのことばも論語や老荘思想も大いなるヒントを授け続けてきた。そして、間違いなく、本との対話、ひいては著者との対話が溌剌としている。 

何をどう読むか

ぼくが会読会〈Savilnaサビルナを主宰していることはこのブログでも何度か紹介してきた。サビルナとは「錆びるな!」という叱咤激励である。本を読み誰かに評を聞いてもらっているかぎり、アタマは錆びないだろうという仮説に基づく命名だ。登録メンバーは20数名いて、毎回10名前後が参加している。前回などは二人のオブザーバーも含めて14名だったので、発表時間が少なくなった。せっかく読了して仲間に紹介しようとするのだから、最低でも10分の持ち時間は欲しいが、少人数では寂しく、また、賑わうこと必ずしも充実につながるものではないので、少々悩む。

今のところ年に8回をめどにしている。あまり本を読まない人でも、皆勤ならば8冊は読むことになるわけだ。この会読会では書評をレジュメ2枚以内にまとめることを一応義務づけている。そして、新聞雑誌での著名人による書評が当該図書の推薦であるのに対して、この勉強会の書評と発表は「自分が上手に読んだから、話を聞いてレジュメを読んでもらえれば、わざわざこの本を読むまでもない。いや、すでにあなたはこの本を読んだのに等しい」と胸を張ることを特徴としている。なお、ネタバレになるので詩や小説を取り上げないという約束がある。それ以外の書物であれば、時事でも古典でもいいし、洋の東西も問わない。

なぜ書評を書くか。これはぼくの「本は二度読み」という考えを反映している。娯楽や慰みで読む本を別として、読書には何がしかのインプット行為が意図される。そして、インプットというものは一度きりでは記憶として定着しないから、できれば再読するのがいいのである。しかし、一冊読むのに数日を要し、再読に同じ時間を費やすくらいなら、別の本を読むほうがましだと考えてしまう。結果的には、「論語読みの論語知らず」と同じく、「多読家の物知らず」の一丁上がりとなる。本に傍線を引き、欄外メモを書き、付箋紙を貼っておけば、200ページ程度の本なら再読するのに1時間もかからない。読書の後に書評を書くという行為には再読を促す効果があるのだ。


さて、書評で何を書くか。実は、これこそが重要なのである。まず、決して要約で終ってはならない。要約で学んだ知は教養にもならなければ、人に自慢することすらできない。一冊の本を読んで、要約的な知を身につけた人間と、その本の一箇所だけ読んで具体的な一行を開示する人間を比較すれば、後者のほうがその書物を読んだと言いうるかもしれない。そう、具体的な箇所を明らかにせずに読後感想を述べるだけに終始してはいけないのである。したがって、引用すべきはきちんと引用し、読者として評するべきところをきちんと評するのが正しい。誰も他人の漠然とした読後感想文に興味を抱きはしない。

きちんと引用しておけば、書評に耳を傾けてくれる仲間にその書物の「臨場感」を与えることができる。引用には書物の凹凸があるが、感想はすべての凹凸をフラットにならしてしまう。これぞという氷山の一角を学べる前者のほうがすぐれているのだ。何よりも、引用こそが知のインプットの源泉にほかならない。ともあれ、ルールという強い縛りではないが、以上のような目論見があれば、10人集まる会読会では、仲間の9冊の本を読むのと同じ効果がある。少なくとも読んだ気にはなれる。

どんな本をどのように読むか。強制された調べものを除けば、原則は好きな本を楽しく読むのだろう。世には万巻の書があるから、好奇心を広く全開しておくのが望ましい。食わず嫌い的に狭い嗜好範囲で小さな読書世界に閉じこもっているのはもったいない。ぼくの読書はわかりやすい。知識の補給としての書物と、発想や思考を触発する書物の二つに分けている。前者と後者の割合は2:8程度。前者には苦痛の読書も一部あるが、後者は嬉々として著者と対話をする読書である。対話だから真っ向から反論も唱える。今は亡き古今東西の偉人たちとの対話が個別にできるほどの愉快はない。たとえば、『歎異抄』を読むということは、親鸞の知と言について唯円と対話するということなのだ。

これまで、取り上げる書物については、文学作品以外に制限はなかった。次回6月の会読会では、初めての試みとして「読書論、読書術」にまつわる本を読んでくるという課題を設けることにした。会読会メンバーの最年少がたしか37歳なので、今さらハウツーでもないのだが、自分の読み方を客観的な座標軸の上に置いてみるのも悪くないと思った次第。ぼくは二十代半ばまでに50冊以上の読書論、読書術、文章読本の類を読んだ。大いに勉強にはなったが、中年以降になったら読書術の本を読む暇があったら、せっせと読書をすればいいと考えている。ゆえに、今回のハウツーものの課題は一度きりでおしまい。 

読書しながら世話を焼く

春眠不覺暁しゅんみんあかつきをおぼえず」の盛りまではまだしばらく時間がある。春の眠りは心地よくて朝が来たのもわからないという、この生理機能の前に「本を読んでいると眠くなる」という兆しが現れる。読書だけでなくテレビを見ていても考えごとをしていても、季節が寒から暖へと移り変わる頃はついうとうとしてしまう。歳のせいかもしれないが、この習癖(?)は若かりし時代も同じようにあった。顕著なのが就寝前なので、本を読みながらそのまま熟睡に入るのはまんざら悪いことでもないだろう。

昨年から“Savilna(サビルナ)を冠にした会読会を始めた。知の劣化を読書と書評によって食い止めようという試みで、「錆びるな!」をもじった名称だ。この会読会を意識して読むべき本を選別することはまったくない。ぼくなりに読みたい書物の今年のテーマはあるわけで、それに背いてまで受けを狙うような本の読み方はしない。とは言うものの、今年に入って読了した何十冊かの本の中からどれを書評するかという段になると、ただ自分が気に入ったり動かされたりしたという基準だけでは選び切れないのである。


有志が集まる会読会で彼らが読んでいない本について書評するような決まりがなければ、読書ほど私的で自由な楽しみはないだろう。書誌学者や評論家でもあるまいし、好き勝手に読んで大いに自分だけが学べばよろしい。しかし、レジュメを一、二枚にまとめてメンバーに配り、さわりの引用文と書評を紹介しようとすれば、読もうと思い立ったときの本の選択基準とは別の読み方を強要されてしまう。生意気な言い方をすると、ぼくにとっては別段教訓的でもないが、彼はこれを知って目からウロコだろうとか、別の彼には仕事上のヒントになるのではないかという思惑が読書中に働いてしまうのである。

勉強のため、あるいは楽しみのためにその本を選んで読むことにした。にもかかわらず、読書を通じて自分自身が学んでいるのではなく、「このくだりをみんなに知っておいてほしい」などと、まるで親が幼い子どもに昔話を読み聞かせるような心境になっている。「この箇所は、ぼくがくどくど説明するよりもそのまま引用したほうがよさそう」と思っていることなどしばしばなのだ。えらくお節介を焼いているものである。

しかし、考えてみれば、企画業や講師業という仕事にサービス精神は欠かせないのである。振り返れば、会読会が始まるずっと前からぼくの読書の方法は、自他のためだったような気がする。本を読みながら自分がよく学び楽しみ、その学び楽しんだテーマや文章を誰かと分かち合いたいと願うのは当然至極だろう。「自分の、自分による、自分のための読書」の純度に比べて、第三者を意識した読書の純度が低いわけではない。ついでに世話を焼いているだけの話だ。それはともかく、年に何十冊も本を読んでいながら片っ端から忘れてしまう読書人にとって、書評をまとめたり発表したりするのはプラスになるだろう。読みっぱなしよりもたぶん記憶は深く濃密である。

読ませ上手な本、語らせ上手な本

およそ二ヵ月半ぶりの書評会。前回から今回までの間にまずまず本を読んでいて30冊くらいになるだろうか。研修テキストの資料として読んだものもあるが、自宅か出張先や出張の行き帰りに通読したのがほとんど。総じて良書に巡り合った、いや、良書を選ぶことができた。読者満足度80パーセントと言ってもよい。

先週から9月下旬の大型連休まで多忙だ。だから、書評会のためにわざわざ何かを選んで読むのではなく、最近読んだ本から一冊を取り上げて書評をすればよいと楽観していた。ところが、書物には「読ませ上手」と「語らせ上手」があるのだ。読ませ上手な本とは、読んで得ることも多かったが、別に他人に紹介するまでもなく、また、ぼくほど他人は啓発されたり愉快になったりしないだろうと感じる本。他方、語らせ上手な本とは、批判しやすい本、賛否相半ばしそうな本、読後感想に向いている本、一般受けするさわり・・・のある本である。残念ながら、この二ヵ月ちょっとの間にぼくが読んだ大半は書評向きではなかった。

先々週のこと、友人が“The Praise of Folly”という英書を送ってきて「一読してほしい」と言う。なぜ送ってきたかの子細は省略するが、これにしようかとも思った。種明かしをすると、この本はエラスムスが16世紀初めに書いた、あの『痴愚神礼賛』(または『愚神礼賛』)である。送ってきた友人はそうとは気づかなかったようだ。この忙しい時期に300ページ以上の原書、しかも内容はカトリック批判。読みたくて読むのではないから疲弊する。だが、ぼくはこの本の内容をすでにある程度知っている。全文を読んだわけではないが、いつぞや和訳された本に目を通したことがあるからだ。A4一枚にまとめて10分間書評するくらいは朝飯前だろう。


しかし、やっぱりやめた。わくわくしないのである。ぼくがおもしろがりもしない本を紹介するわけにはいかない。ふと、先々週に上田敏の『訳詩集』を久々に手に取って気の向くままに数ページをめくったのを思い出す。スタッフの一人に薦めて貸したのだが、尋ねたら、まだ読んでいないとの返事。いったん返却してもらうことにした。この詩集は英語を勉強していた時代に愛読していたもの。原文の詩よりも上田敏の訳のほうがオリジナリティがあって、名詩を誉れ高い語感とリズムで溢れさせている。なにしろロバート・ブラウニングの平易な短詩をこんなふうに仕上げてしまうのだから。

The year’s at the spring,
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;

The hill-side’s dew-pearl’d;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His heaven―
All’s right with the world !

時は春、
日はあした
あしたは七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀あげひばりなのりいで、
蝸牛かたつむり枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

上田敏を知っている人は少ないだろうから、代表的な訳詩を三つほど紹介して、ついでに英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能な語学の天才で、驚くべき詩的感性と表現力の持ち主であるとエピソードを語ればよし――となるはずだった。しかし、この本はぼくが決めたルールに抵触することに気づいた。書評会では文学作品はダメなのである。がっかりだ。

それで、20年以上前に読んだ本を書棚から取り出して再読した。まだ書評は書いていない。この書物の価値は異端発想の考察にある。「一億総右寄り」とまでは言わないが、昨今の世情に対して少しへそ曲がりな発想をなぞってみるのもまんざら悪くはないだろう。いや、そんなイデオロギー的な読み方はまずいかもしれない。ところで、あと二日と迫った書評会だが、ぼくはほんとうにこの本に決めるのだろうか。もしかすると、仕事が順調に進んで時間に余裕ができたら、変えてしまいそうな気がする。

読書と書評の一つの試み

せっかく学びに励んで活性化したアタマを鈍らせてはいけないとの思いから、私塾の休講期限定で“Savilna!”という有志によるミニ勉強会を始める。テーマは、(1) 最近読んだ図書の書評と、(2) 形而上学的な論題の論争の二つを取り上げる。1月、2月、4月、6月に(1)の会読書評会、3月、5月に(2)ディベートを予定している。

  

 Savilna!――それは「錆びるな!」という日本語である。アタマを錆びさせない手っ取り早い方法は読書だ。できれば、読んだままにせず、抜き書きしたり自分なりにまとめるのがいい。さらに理想を言えば、自分の書評を誰かに読んでもらうか聞いてもらうのがいい。以上のような理由から、会読会を思いついた次第である。来週月曜日に第回を開くが、欠席が何名か出そうなので78人の門出になる。メンバーのうちMさんとTさんはこの勉強会をブログで取り上げるほど気合が入っている。景気づけのためにメンバーの皆さんに次のようなメッセージを送った。


ぼくはすでに書評を二週間前に書き終え、現在は「熟成」させているところです。啓発的な図書の場合、どうしても共感的に読んでしまうことが多いので、読後にしばらく寝かせるのがよろしい。寝かせているうちに、いいところは熟成が進みます。同時に、異論や批判的意見も芽生えてくるものです。

  

新聞紙上の書評は読者に読んでもらうきっかけを作ります。Savilna書評は、メンバーに読んでもらわなくてもいいようにするものです。「原書を読む以上に私の書評はおもしろいし、ためになりますよ。知らないと損ですよ』というスタンスです。

  

書評には、(1) 図書のテーマと内容を集約して紹介し、それに評論をおこなう、(2) ここぞというくだりをそのまま引用して紹介し、それに注釈またはコメントを付ける、という二つの方法があります。いずれの場合も、評者として主観的に述べることは大いに結構ですし、同時に読者サイドから見た学びどころが客観的に紹介されているとなおよしです。

  

肩肘張らずに、15分~20分で書評をしてください。大いに楽しみですし、一献傾けながら、異種書物間に知的クロスを架けるのが、これまたおもしろいのです。

 


ぼくの書評は引用を主体にしているが、引用しながらも随所に自分が触発されたり感心した事柄も紹介している。自分自身の考えを足したり、やや批判的な視線も投げ掛けたりもしている。二週間前に書き終えているのだが、大変なことを思い出した。当初のルールで、書評をレジュメにして配付する場合はA4判一枚と決めているからだ。ぼくは三枚以上書いて、のほほんとしていた。現在出張中なので、時間はある。だが、選定図書は手元にない。書評もオフィスのPCに入っている。明日の夜に帰阪するが、帰ってからの週末、書評の約70パーセントを削ぎ落とす作業が待つ。それは、読むこと・書くこと以上の試練を意味する。 

はつはるの雑感

一年前の元日の朝、冷感を求めて散歩に出た。徒歩圏内の大阪天満宮にも行ってみた。まるで福袋を求めて開店前のデパートに並ぶ客気分。参拝にも時間がかかったが境内から脱出するのにも苦労した。

今年はごく近くにある、中堅クラスだが、由緒ある神社に行ってみた。ちょうどいい具合の参拝客数。都心にもかかわらず喧騒とは無縁の正月気分。運勢や占いにあまり興味はないが、金百円也でおみくじを引く。三十六番。これは、ぼくと同年代とおぼしき男性が直前に引いたのと同じ番号であった。


初夢は超難解だった。画像がなく文字ばかり。大晦日に読んだ超難解な哲学書の影響なのだろう。「知っていることを歓迎し、知らないことを回避するのが人間」というお告げ(?)である。目が覚めてから少考。「わかっていることを学び、わかっていないことを学べないのが人間のさが。たとえば読書。ともすれば、自分の知識の範囲内に落ちてくれる内容を確認して満足している。異種の知を身につけるのは大変だ」という具合に展開してみた。


徒歩15分圏内の職住接近生活をしているので、オフィスまで年賀状を取りに行く。自分が差し出している年賀状の文字が二千字に近く、受取人に大きな負担をかける。逆の立場ならという意識を強くして、いただく年賀状は文章量の多寡にかかわらず一言一句しっかりと目を通すようにしている。

年賀状を二枚出してきた人がいる。宛名がラベルであれ印字であれ、何か一語でも一文でも直筆を加えれば誰に書いたのかはうっすらと記憶に残るものである。二枚差し出すというのはパソコンデータに重複記録されていて、そのことに気づいていないという証拠だ。そんな人が今年は二人いた。

数年前にも二枚の年賀状をくれた人がいた。その人には出していなかったので早速一文を書いて年賀状を送った。しばらくしてその人から三枚目の年賀状が届いた。「早々の賀状ありがとうございました」と書かれてあった。


景気に対して自力で抗することができない。そのことを嘆くのはやめて、しっかりと力を蓄える。一人で辛ければ仲間と精励する。今月から有志で会読会を開く。最近読んだ一冊の本を仲間相手に15分間解説する。テーマの要約でもいいし、さわりの拾い読みでもいい。口頭で書評し、そして他人の書評を聞く。すぐれた書評は読書に匹敵する。新しくて異種なる知の成果にひそかに期待している。