速読から「本との対話」へ

速読の話の第三話(最終回)。

前の二話で速読そのものを一度も否定していない。ぼくの批判点はただ一点、速読への安易な姿勢に向けたものである。まず、速読は読書キャリアがなければ無理だと書いた。また、自らの読書習慣を省みずに速読に飛びつくことに対して異議を唱えた。さらに、どんなに熱心な読書家であっても、まったく不案内のジャンルの本を神業のように速読することは不可能だと言っておこう。万に一つのケースが誰にでも当てはまるかのように喧伝したり吹聴したりするのは誤解を与える。

本をいろいろと読むのはいいことである。本は思考機会を増やし知のデータベースを大きくしてくれる。けれども、多種多様にわたって多読をこなそうとし、手っ取り早い方法として速読を選択するのは浅慮もはなはだしい。多種多様な本を多読したというのは結果である。それは何十年にもわたる日々の集積なのだ。知的好奇心に誘われて本を選び、そして読む。読むとは著者との対話にほかならない。形としては著者が一方的に書いた内容に向き合うのだが、一文一文を読みつつ分かったり分からなかったりしながら読者は問い、その問いへの著者の回答を他の文章の中に求めるという点で、読書は問答のある対話なのである。

読んだ本について誰かがぼくに語る。そこで、好奇心からぼくは聞く、「いい話だねぇ。いったい誰が書いたの? 何というタイトル?」 読んだはずのその人は著者名も書名もよく覚えていない。最近読んだはずなのに、覚えているのは結局「本のさわり」だけなのだ。それなら新聞や雑誌で書評を読んでおくほうがよほど時間の節約になる。その人は単に文字を読んだのであって、著者とは対話していなかった。こんな読書は何の役にも立たない。持続不可能な快楽にすぎない。一年や二年もすれば、その読書体験は跡形も残っていないだろう。


先日新聞を読んでいたら、『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)が書評で取り上げられていた。関心のある向きは買って読むだろう。なにしろピーター・F・ドラッカー本人の自伝である。この本を読む人は著者も書名も忘れないだろう。おそらくドラッカー目当てに読むからだ。他方、その書評の下か別のページだったか忘れたが、新書の広告が掲載されていた。それは見事に浅知恵を暴露するものだった。書名は忘れたが、ほんの90秒で丸ごと朝刊が読めるというような本だった。これが真ならば、もうぼくたちは読書で悩むことはない。いや、読書以外の情報処理でも苦しまない。理論化できれば、その著者はノーベル賞受賞に値する。ノーベル何賞? みんなハッピーになるから、平和賞だろうか。

朝刊は平均すると2832ページである。文庫本を繰るのとはわけが違って、新聞を広げてめくるのに1ページ1秒はかかる。つまり、30ページなら30秒を要する。残り1分で30ページを読むためには、あの大きな紙面1ページを2秒で読まねばならないのである。さっき試してみたが、一番大きな記事の見出しをスキャンしただけでタイムアップだ。「ろくに本も読まずに極論するな」と著者や取り巻きに叱られそうだが、著者も極論しているだろうし、その本を読まない人に対しては多分にデフォルメになっているはずだ。おあいこである。

現時点で有効なように見えても、一過性の俗書は俗書である。他方、時代が求める即効的ノウハウ面では色褪せていても、良書は良書である。そこで説かれたメッセージは普遍的な知としてぼくたちに響く。長い歴史は書物の内容に対して厳しい検証を繰り返すものだが、どんなに後世の賢人に叩かれようとも、たとえば古代ギリシアの古典もブッダのことばも論語や老荘思想も大いなるヒントを授け続けてきた。そして、間違いなく、本との対話、ひいては著者との対話が溌剌としている。 

読ませ上手な本、語らせ上手な本

およそ二ヵ月半ぶりの書評会。前回から今回までの間にまずまず本を読んでいて30冊くらいになるだろうか。研修テキストの資料として読んだものもあるが、自宅か出張先や出張の行き帰りに通読したのがほとんど。総じて良書に巡り合った、いや、良書を選ぶことができた。読者満足度80パーセントと言ってもよい。

先週から9月下旬の大型連休まで多忙だ。だから、書評会のためにわざわざ何かを選んで読むのではなく、最近読んだ本から一冊を取り上げて書評をすればよいと楽観していた。ところが、書物には「読ませ上手」と「語らせ上手」があるのだ。読ませ上手な本とは、読んで得ることも多かったが、別に他人に紹介するまでもなく、また、ぼくほど他人は啓発されたり愉快になったりしないだろうと感じる本。他方、語らせ上手な本とは、批判しやすい本、賛否相半ばしそうな本、読後感想に向いている本、一般受けするさわり・・・のある本である。残念ながら、この二ヵ月ちょっとの間にぼくが読んだ大半は書評向きではなかった。

先々週のこと、友人が“The Praise of Folly”という英書を送ってきて「一読してほしい」と言う。なぜ送ってきたかの子細は省略するが、これにしようかとも思った。種明かしをすると、この本はエラスムスが16世紀初めに書いた、あの『痴愚神礼賛』(または『愚神礼賛』)である。送ってきた友人はそうとは気づかなかったようだ。この忙しい時期に300ページ以上の原書、しかも内容はカトリック批判。読みたくて読むのではないから疲弊する。だが、ぼくはこの本の内容をすでにある程度知っている。全文を読んだわけではないが、いつぞや和訳された本に目を通したことがあるからだ。A4一枚にまとめて10分間書評するくらいは朝飯前だろう。


しかし、やっぱりやめた。わくわくしないのである。ぼくがおもしろがりもしない本を紹介するわけにはいかない。ふと、先々週に上田敏の『訳詩集』を久々に手に取って気の向くままに数ページをめくったのを思い出す。スタッフの一人に薦めて貸したのだが、尋ねたら、まだ読んでいないとの返事。いったん返却してもらうことにした。この詩集は英語を勉強していた時代に愛読していたもの。原文の詩よりも上田敏の訳のほうがオリジナリティがあって、名詩を誉れ高い語感とリズムで溢れさせている。なにしろロバート・ブラウニングの平易な短詩をこんなふうに仕上げてしまうのだから。

The year’s at the spring,
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;

The hill-side’s dew-pearl’d;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His heaven―
All’s right with the world !

時は春、
日はあした
あしたは七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀あげひばりなのりいで、
蝸牛かたつむり枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

上田敏を知っている人は少ないだろうから、代表的な訳詩を三つほど紹介して、ついでに英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能な語学の天才で、驚くべき詩的感性と表現力の持ち主であるとエピソードを語ればよし――となるはずだった。しかし、この本はぼくが決めたルールに抵触することに気づいた。書評会では文学作品はダメなのである。がっかりだ。

それで、20年以上前に読んだ本を書棚から取り出して再読した。まだ書評は書いていない。この書物の価値は異端発想の考察にある。「一億総右寄り」とまでは言わないが、昨今の世情に対して少しへそ曲がりな発想をなぞってみるのもまんざら悪くはないだろう。いや、そんなイデオロギー的な読み方はまずいかもしれない。ところで、あと二日と迫った書評会だが、ぼくはほんとうにこの本に決めるのだろうか。もしかすると、仕事が順調に進んで時間に余裕ができたら、変えてしまいそうな気がする。