そんなバカな、と思われるかもしれないが、「ためになる話」などないのである。読んだり聞いたりした話は、「ためになる」ことが確定してから書かれたり話されたりしたのではない。この意味では、ためになる話もないが、ためにならない話もないということになる。話はもともと毒でも薬でもないのだ。
繰り返すが、「ためになる話」はない。「話がためになる」のである。いや、場合によっては、「話がためにならない」のである。決して禅問答をしているのではない。どのように考えたって、話は話以外の何物でもないのである。こういう考え方を進めていくと、「恐い話」も「おもしろい話」も「つまらない話」もない、ということになる。すべて、話が恐い、話がおもしろい、話がつまらないのである。
話でなくても何でもいい。「修飾語+名詞」という構文で表現される修飾語は名詞の絶対的特性であるはずがないのだ。「堅い」や「やわらかい」は煎餅の特性ではなく、経由した人間の諸感覚を通じて煎餅が「堅い」あるいは「やわらかい」と認識されているだけである。つまり、人間を経由してはじめて、物象や事象や概念は何らかの特性を負うにすぎない。
別にこんなに難しく論じることもないのだが、どう考えても、何事かに価値があるかどうかは、何事かが決めているのではなく、人が決めているのだ。冒頭の「話」に話を戻せば、どんな話であっても、聞き手が感受性を鋭敏にして大いに触発されるべく向き合えば「ためになる」。「ためにならない」と判断できることさえ「ためになった」と言ってもよい。くどいが、「話があなたのためになるか、その他の別のものになるか」は、話が決めるのではなく、あなたが決める。
ぼくたちは「豚に真珠」とか「馬の耳に念仏」とか「猫に小判」などと動物に対して失礼な言を吐く。人間は「美しい真珠」とか「ありがたい念仏」とか「値打ちのある小判」などと、真珠や念仏や小判に絶対的特性を勝手に付与している。しかし、豚は真珠よりもトリュフに鼻をピクピクさせ、馬は念仏よりも物音に耳をそばだて、猫は小判よりもイワシの煮付けに舌なめずりをする。
人間よりも豚と馬と猫がえらいと結論を下しているのではないが、彼らの諸感覚が素直で合理的であることを認めざるをえない。動物たちが諸感覚を通じて素直に対象を吟味するのに対して、ぼくたちは誰かによる評価に左右されている。対象に先行する修飾語なくしては、もはや物事を判断できなくなるほど危うい状態にある。情報や意見について、こうした「権威による評価」への依存症はますます蔓延しているように思われる。うぬぼれてはいけないが、少なくとも自分と権威の意見は互角でもいいはずではないか。