語句の断章(5) 推敲

書きっぱなしにして胸を張れるほどの文才に恵まれないから、書く行為に続けて文体や表記を整える編集は欠かせない。但し、書くのと同じ視点で編集はおこないがたい。いったん書いた文章を突き放さなければならない。日本語ならまだしも、外国語の場合は徹底的に読み手側に立たねばならない。英文ライティングを生業としていた頃、文体や表記の厳密さに舌を巻いた。千ページに近い分厚いスタイルマニュアルで調べるたびに、よくぞここまで細かく規定するものだと感心した。

〈ウィドウ(widow)〉と〈オーファン(orphan)〉という、見た目に関する禁忌事項がある。ウィドウとは未亡人、オーファンとは孤児のこと。いやはや過激なネーミングである。日本語の「段落の泣き別れ」に近いが、もっと厳しい。ウィドウとは、段落の最終行が次のページの一行目にくる状態である。短い文章だと宙ぶらりんに見える。オーファンには二つある。一つは、ページの最終行が新しい段落の一行目になる状態。もう一つは、ページの最終行が短行になったり段落の最終行が一語だけになったりする場合である。いずれも孤立したように見えて落ち着かないし、可読性も悪い。

上記のことは編集上のルールなので、明快である。しかし、〈推敲すいこう〉と呼ばれる語句の練り直しに決まりきったルールがあるわけではない。作者自らが納得の行くまで表現や語感を研ぎ澄ます。五七五の余裕しかない俳句などにおいては推敲そのものが作品を形成すると言っても過言ではない。先日、古本屋で函に入った立派な『芭蕉全句集』を買った。前後して『日本語の古典』(山口仲美著)を読んでいたら、『奥の細道』にまつわる推敲のエピソードに出くわした。高校の古典の教師に聞かされたか別の本で読んだような記憶がある。

静寂な空間に大舞台を連想させる、「しずかさや岩にしみる蝉の声」が完成するまでの練り直しの過程が紹介されている。最初に「山寺や石にしみつく蝉の声」が詠まれ、次いで「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と書き直された。これら二作なら自分でも作れそうだと思ってしまう。下の句の「蝉の声」だけ変化していないが、動詞は「しみつく」、「しみこむ」、「しみいる」と変化している。このように比較すると、「しみいる」が絶対のように見えてしまうから不思議である。なお、蝉の種類についてはアブラゼミかニイニイゼミかで論争があったそうだが、岩にしみいるのは「チー……ジー……」と鳴くニイニイゼミだろうという結論のようである。

「文章をチェックしました」よりも「文章を推敲しました」と言われるほうが信頼性が高そうに思える。「すいこう」という音の響きには文章が良くなったという印象が強い。推敲は「僧推月下門」に由来する。中国は唐の時代の賈島かとうという詩人の詩の一句だが、門をすの「推す」を「たたく」にするかどうかで迷っていた。韓愈かんゆの奨めで「推」を「敲」に変えたので、推敲が字句を練ることに用いられるようになったのである。

スタイルや表記の統一はある程度可能だが、こだわり出すと推敲は延々と続く。類語辞典を引いて、類語が三つや四つならいいが、何十とあると困り果てる。推敲は重要な作業ではあるが、語彙以上の表現やこなれ方を欲張ってはいけないのだろう。

編集という手間と創造

昨日の午後から始めて、今日は丸一日、おそらく明日の午前まで続く。そんな編集作業をしている。同じテーマについて、これまで書いてきたテキスト3種類(A4判にして45ページ)、パワーポイントのスライド約160枚を、それぞれ1012ページと5060枚に編集する。

編集はさまざまな概念を包括することばだ。再構成あり、加筆訂正あり、取捨選択あり、組み合わせあり、並べ替えあり、項目・見出しの整理あり、情報のアップデート……と数え切れない。松岡正剛の編集工学の本にはさらに延々と編集機能の用語が並ぶ。

結論から言うと、期限に追われず時間があれば、過去に書いたものや作成したものにいつまでも未練を持たぬほうがよい。スピードだけを考慮すれば、最近の思考メモを中心にまとめるほうがうんと速く片付く。通常、白い紙に何かを書いていくほうが創造的で、その分手間もかかると考えるものだ。しかし、たとえ単語を一つだけ書いてあるカードであっても、それが百枚にもなると「編集方針」が必要になってくる。何かの見立てをしないかぎり、にっちもさっちもいかなくなるのが常だ。


期限に間に合う自信があったので、冒険をしてみた。約5時間用のセミナーに改造しているので、まず使えそうなパワーポイントのスライドを60枚に絞った。選ぶというよりも、賞味期限に「?」がつくものを捨てる感覚である。次いで6つのカテゴリーを「仮設」して、そこにパワーポイントのスライドを割り振りしていった。ここまではまずまずうまくいったように思われた。

だが、本来ぼくはテキストを執筆してから、その内容をパワーポイント上の事例なりエピソードによって解説するスタイルを取っている。これと逆の試みをしてしまったわけである。これが難儀なことになってしまった。それぞれのスライドと連動するテキストの行や段落探しが大変なのだ。かと言って、スライドを一枚一枚見ながら、それと関連するテキストを書くのも妙な話である。それは、まるで出来上がった一杯のコーヒーを豆と熱湯に戻していくような、上位概念の逆抽出作業なのだ。

半時間ほど思案。思案している時間がもったいないので、ブログを書くことにした。ブログを書きながら気づいた。一枚のスライドにすべてのテキストなどいらないではないかと。これまでもテキストのすべての内容にスライドを付随させたわけではなかった。だから、その逆もたぶんオーケーである。ほんのちょっぴり、明るい気持ちになって仕事に戻れる。

知を探すな、知をつくれ

昨日に続く話だが、まずは記憶力について。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働くと情報は取り込みやすい。テストなんて誰も受けたくないから好奇心はゼロ。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚える。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聴いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚えるだろう。なお、言うまでもないが、取り込みもしていない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出すほど記憶してはいないのだ。

記憶エリアは「とりあえずファイル」と「刷り込みファイル」に分かれていて、すべての情報はいったんは「とりあえずファイル」に入る。これは記憶の表層に位置していて、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたり他の情報とくっつけたりするなど、何らかの編集を加えてやると、刷り込みファイルに移行してくれる。ここは記憶の深層なので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。

さて、ここからは刷り込みファイルからどのように取り出して活用するかがテーマになる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互連関せずに点のまま放置される。点のままというのは、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」とは読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズには解答できるが、複雑思考系の問題を解決できる保障はない。一情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けているなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。


刷り込みファイルで「知の受容器」が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになってくると、これが情報を感受し選択し取り込むレセプターとして機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報であっても少々高度で複雑な話であっても、バウンドさせながらでも何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性がなければ、情報をつかみ取るのは難しい。たとえば、スプーンでピンポン玉を受けるようなものだ。ほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立していて知のネットワークの中で機能してくれない。

知っていることならわかるが、知らないことだと類推すらできない。これは知的創造力の終焉を意味する。知らないことでも推論能力で理解し身につける。知のネットワークを形成している人ならこれができる。ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。あなたの外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークがつくられる。知の輪郭こそが、あなたが見る世界の輪郭である。周囲や世界が小さくてぼやっとした輪郭ならば、それこそがあなたの現在の知の姿にほかならない。