オフィス近くの寺院の今月の標語は「楽を求めて苦しむ」。こういうことばに反応して「じゃあ、苦を求めたら楽になるんだなあ」と推し量るのは単純な早とちりというものだ。《命題の逆・裏・対偶》。聞いたことがある、ちょっとかじったことがあるという程度の人が大勢いるはず。覚えたつもりが、しばらく経つとすっかり忘れてしまう論理ツール。論理的思考は研修テーマの一つなのでぼくには染みついているが、いざこれを説明して理解してもらうとなると話は簡単ではない。
饒舌と寡黙
「口は禍の門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色鮮なし仁」……。
思い出のスローフード
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その時、たしかに時間はゆったりと流れていた。食事に満足したのは言うまでもなかったが、時間そのものが至福の味わいであった。
時は2006年、味覚の初秋に約2週間かけてフランス、イタリア、スイスに旅した。パリとミラノとヴェネツィアにそれぞれ4泊という旅程だった。ミラノに滞在した折り、かねてから訪ねてみようと思っていたベルガモに出掛けた。列車で北東へ約1時間の街である。ここは二つのエリアに分かれている。駅周辺に広がる新市街地のバッサ(Bassa=低い)と、中世の面影を残すアルタ(Alta=高い)だ。日帰りなのでバッサは見送り、アルタを目指してケーブルカー駅へと急いだ。ここから標高336メートルの小高い丘の瀟洒な街が目的地である。地産地消の名物スローフードをランチタイムに堪能しようという魂胆。
ランチタイムの時間を稼ぐために足早に街を散策してみた。スローフードのための足早散策とは変な話である。ともあれ、オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティゆかりの資料館や塔や要塞跡などを見学した後、ベルガモ料理を看板に掲げるトラットリアに入った。ハウスワインの赤を頼み、数ある料理から10分以上時間をかけて三品を選ぶ。どれも一品千円弱と驚くほどリーズナブルだ。
一品目はここベルガモでしか食べられないチーズの盛り合わせ。あちこちでチーズの盛り合わせを食べてきたが、これだけの種類を一皿に盛ってくれる店はまずない。二品目もご当地名物の生ハムとサラミの盛り合わせ。馬のコーネのような脂身のハムが珍しい。濃い赤身の薄切りは猪だ。三品目は、ひき肉やチーズなどを詰めたラヴィオリの一種で、アニョロッティという。
これら三品のスローフードにたっぷり2時間はかけた。日本のランチタイムとしては考えられない間延びした時間。ちなみに“slow food”はイタリアで造語された英語。イタリア語では“cibo buono, pullito, e giusto”というコンセプトが込められ、「うまくて、安全で、加減のよい食べ物」というニュアンスである。
ぼくたちがイタリア料理の常識だと信じ切っている「大飯」ではない。前菜、大量のパスタ、ボリュームたっぷりのメイン料理にデザートというコースなら時間がかかるのもわかる。しかし、これもすでに過去の話となった。最近では一品か二品だけを注文してじっくりと2時間以上かけて食べるのが多数派になりつつある。現在イタリアでもっとも大食しているのは日本人とドイツ人ツアー客ではないか。残念ながら、ドカ食いとスローフードは相容れない。大量ゆえに時間がかかってしまうのと、意識的に時間をかけるのとは根本が違うのだ。
スローフードは“slow hours”(のろまな時間)であり、ひいてはその一日を“slow day”(ゆっくり曜日)に、さらにはその週を“slow week”(ゆったり一週間)に、やがては生き方そのものを“slow life”にしてくれる。ベルガモの体験以来、ぼくの食習慣はどう変わったか。正直なところ、まだまだスローフードへの道は険しい。けれども、少しずつではあるが、毎回の食事に「時間」という名の、極上の一品をゆっくり賞味するよう心掛けるようになった。
《本記事は2008年6月7日に更新したブログを加筆修正したもの》
買いかぶられるホウレンソウ
『常識のウソ277』(ヴァルター・クレーマー/ゲッツ・トレンクラー共著)に、「ホウレンソウは特に鉄分豊富な食品?」という一文が載っている。そこには100グラム当たりの食品の鉄分含有量がミリグラムで示されていて、ゆでたホウレンソウは2.2(タマゴやパンとほぼ同じ)、生のホウレンソウが2.6(ソラマメや大豆とほぼ同じ)とある。アーモンド、レバーペースト、チョコレート、ピスタチオなどはホウレンソウの2倍~3.5倍の鉄分を含んでいる。
口癖とワンパターン
人は自分の口癖には気づきにくいが、他人の口癖には敏に反応する。過去、数え切れないほど耳にタコができてしまったのは「……の形の中で」という口癖。その男性の語りから「……の形の中で」を抜いて聞くと、ほとんど何も言っていないのに等しかった。出現頻度は10秒に一回くらいだった。
若い頃、説得表現力が未熟だったせいか、「絶対に」とよく言う自分の口癖に気づき、意識して使うのを控えるようにした。そんな意識をし始めると、今度は他人の口癖が耳に引っ掛かるようになる。そして、ついにと言うべきか、口癖の多い人たちのうちにいくつかの類型があることを発見した。
まず、次の言葉が見つからないときに、空白を作らないための「時間つなぎ」として使われるノイズがある。「あのう~」とか「ええっと」の類だ。ノイズなので、そこに意味はない。ぼくの知り合いに、「皆さん、あのう、今日は、あのう、お忙しい中、ええっと、この会場まで、あのう……」という調子で話す人がいる。本人は自分が話下手であることに気付いている。必死なのだが、適語がなかなか見つからない。「失語」しているのではなく、おそらく話の内容がしっかりと見えていないことからくる問題なのだろう。
二つ目は、決して話下手ではないが、脈絡がつながりにくくなったときに「要は」とか「やはり」とか「実は」で強引に筋を通そうとするケース。説得や説明を意識するあまり特定の言葉で調子をつけているのである。三つ目は、相手の話に調子を合わせるときに「なるほど」とか「でしょうね」とか「あるある」などのワンパターン表現を繰り返すケース。相手の話を左から右へ流しているだけなのだが、「聞いていますよ」という振りで共感のポーズを取る。
口癖は接続詞の機能も持つので、だいたい単語一つと相場が決まっている。ところが、マニュアル社会になって長文の「口癖」があちこちで聞かれるようになった。「お勘定は一万円からでよろしいでしょうか?」などもその一つで、もはや本人はその意味も噛みしめず、いや、その表現を使っていることにすら気づいていない。調子や相槌だけではなく、メッセージも口癖化しつつあるのだ。
過日、東京に出張した折、ホテルで朝食ビュッフェ会場に入って席を取った。丁重な立ち居振る舞いのホテルマンが会場の入り口に一人いて、客を迎え見送っている。ぼくはトレイを手に取り料理の品定めを始めた。サラダを皿に盛ってドレッシングをかけ、別の皿にスクランブルエッグとソーセージを取ってケチャップを添えた。白身魚のフライの前に来たとき、ふいにホテルマンが近づいてきて「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」と言うではないか。フライを盛った皿の横にウスターソースの入った器があり、スプーンが浸かっている。要するに、そのスプーンでウスターソースをすくってフライにかけろと言っているのだ。
とても奇異に思えた。ドレッシングもケチャップも同じことではないか。そのときには一言も発せず、なぜ白身魚のフライに一言添えるのか。見ればわかるし、そんなことは助言してもらわなくても「朝飯前」にできてしまう。しかも、その助言はぼくだけに聴かせたものではないことがわかった。相次いで会場にやってくる宿泊客の一人一人に、ホテルマンは「白身フライにはそのウスターソースをスプーンでおかけください」とやっているのだ。
なぜ、こんな言わずもがなの一言を他の仕事よりも優先していちいち告げるのか……食事をしながら、朝からこのワンパターンメッセージの必要性を考えさせられることになった。コーヒーをすすっていて、はは~んとひらめいた。このホテルマン、きっと「ある光景」に出くわした。その光景とは、串カツとウスターソースに慣れ親しんだ関西人が、白身魚フライを箸でつまんでウスターソースにドボンと漬けてしまったシーンだ。ホテルマン、二度漬けならぬ一度漬けに仰天! 以来、ワンパターンな助言を殊勝に繰り返しているに違いない。
柿とバナナ
好物の干し柿をいただいた。水分がほどよく残っていて深い甘みのあるあんぽ柿である。柿は日本人にとってなじみのある果物なので、日本原産だと思われているが、どうやら奈良時代に中国から伝わったというのが真説のようだ。この起源説を知ると、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(子規)という句によりいっそう親近感を覚える。
引用 vs うろ覚え
企画業のかたわら、三十代後半から人前で話をさせていただいてきた。「浅学菲才の身」という、心にもないへりくだりはしないが、我流の雑学しかやってこなかったから、知識の出所についてはきわめてアバウトである。しかし、そうだったからこそ、思うところを語れてきたし、二千回を超える講演や研修の機会にも恵まれて今日に到ることができた。学者の方々には申し訳ないけれど、つくづく学者にならなくてよかったと思っている。
盤上の関係
「盤上」などと書くと、ソチの冬季五輪も近づいているから銀盤の舞を連想するかもしれない。実は、チェスや将棋などの盤上の駒の話である。フィギュアスケートの華麗さとは違って地味なテーマだが、言語の比喩として見直してみると気づきが多い。
一つのことばを、他のことばから切り離して単独で眺めてみると、これほど非力で無味乾燥なものはない。ある言語における単語Xは、それ自体何の意味も持たない。それなのに、受験勉強という名のもとに、なぜ英単語を部品を扱うかのように丸暗記しようとしたのだろう。不幸なことに、ほとんどの英語教師はあのような学習の代案を創造的に示してくれなかった。
先日、古本屋でソシュール研究者の丸山圭三郎の本を偶然見つけた。『欲望のウロボロス』という書名だ。ウロボロスについて書き始めると別のテーマになるので省略するが、この本に所収の小文「チェスと言葉」をとても興味深く読んだ。「ソシュールが指摘したチェスと言葉の共通性は(……)その価値を関係という基盤においている」、つまり、相互依存という関係性においてチェスの駒と単語は類似しているのである。
「手作り」という妄想
年が明けて前年を振り返る。月並みだが「いろいろあった」とつぶやくしかない。いろいろの話題のうち、国家の外交問題は重大であるものの、印象深かったのは食品偽装のほうだ。売り手も買い手も性懲りなく何度同じ轍を踏めば気が済むのか。偽装から発覚、謝罪、対処に到るまで絵に描いたようなワンパターンが繰り返された。
二字熟語遊び、再び
「平和と和平」のような関係が成り立つ二字熟語を探し、昨年本ブログで二度遊んでみた(『二字熟語で遊ぶ』、『続・二字熟語で遊ぶ』)。
(例)決算の「期末」になって経営が「末期」症状になっていることに気付いたが、手遅れだった。
中高生の頃、期末試験のたびに絶望的になった。いずれ忘れてしまう年号や固有名詞を、ただ明日と教師のためだけに今日記憶せねばならないという、不可解にして不条理な現実。期末という術語には悲観が漂い、末期には絶望が内蔵されている。
(例)さすが「所長」だけのことはある。短所はほとんどなく、「長所」ばかりが目立つ。
自分のことを描写した例文ではない。ちなみに、ぼくは三十代半ばで創業した。社長と呼ばれるのに違和感があったけれど、社名に「研究所」が付くから「所長」と名乗れた。所長には商売っ気をやわらげる響きがある。
(例)「その事業を始めるには『元手』がいるぞ」「ああ、わかっている」「ちゃんと『手元』にあるのか」「一応」。
この例のように、元手は手元にあることが望ましい。他人のところにある資金を当てにしていては元手と呼べないだろう。なお、元手はスタート時点での資金である。この資金を生かして手元に残したいのが利益というわけだ。
(例)彼は持てる力を「発揮」して挑んだが、努力の一部は水泡に帰し、あるいは「揮発」してしまった。
かつてはガソリンの類を揮発油と呼んだが、衣服のシミ抜きに用いるベンジンなどもそう呼ばれていた。独特の匂いが鼻を刺激するが、シミ抜きで威力を発揮したら後腐れなく揮発する。疾風のようにやって来て用事を済ませ、疾風のように去って行った月光仮面もよく似ている。
(例)すべての「情事」にゆゆしき「事情」があるとはかぎらない。また、事情が何であれと言う時、その事情に情事を想定することもまずないだろう。
小学生の頃に初めて「情事」ということばを知った。ご存じゲイリー・クーパーとオードリー・ヘップバーンの『昼下がりの情事』という映画の題名がきっかけだった。英語の“information”かドイツ語の“Informationen”かに「情報」という訳語をつけたのは森鴎外だと何かの本で読んだことがある。こちらの情は「じょう」ではなく「なさけ」のほうだったと思われる。
(例)「水力」は電気エネルギーとなって文明に寄与し、「力水」は精神的エネルギーとなって力士に元気を与える。
力水は浄めのものである。力水は負けた力士ではなく勝った力士につけてもらう。これで気分が一新する。但し、力水は所詮水である。力水で風呂は沸かないし量も少なすぎる。他方、水力は力である。他の力同様に、水の力も善悪両用に働く。