イタリア紀行40 「広場、斜塔、街並み」

ボローニャⅡ

「やみくもに走り抜いて成長や発展へと向かわなくても、再生や改造を通じて街は豊かに安定できるはず」――これが、ボローニャ方式が挑んだ命題であり、世界の先進都市に一つの理想モデルを示すことになった。職人企業連合をはじめとする、書き尽くせない創意工夫が結実している。

ポルティコのある景観だけでも生活の快適性につながっているのは間違いない。だが、特筆すべきは、市民が利用できる文化芸術関連の公共施設だ。人口40万人の街とは思えぬほどの圧倒的な質と数を誇る。美術館・博物館37、映画館50、劇場41、図書館73という数字だけを見ても、わが国の人口百万都市でさえボローニャの足元にまったく及ばない。

日本全国でさまざまなテーマを掲げて話をしている。行政を対象にした政策形成やまちづくりの研修機会も増えてきた。決して事例主義者ではないのだが、指導するにあたっては、街づくりについてそれなりの勉強もし知識も更新する。ただ、ここ十年ほど注目を浴びてきた「創造都市」、とりわけ”クリエーティブ”という用語の、度を過ぎた一人歩きが気になっている。何でもかんでもクリエーティブという集団シュプレヒコールは、創意工夫からもっとも縁遠いものではないか。名立たる世界の都市が道を誤り軌道修正に悶々としているのに対して、ボローニャは本来あるべき街づくりに目覚め、常軌を逸しないように努めている――このことが創造的なのだと考える。

わずか4日間滞在しただけの一観光客だが、生意気を言わせてもらうならば、「歩きやすい街は生活しやすい街」というのは真理だ。ボローニャは歩きやすい。入り組んでいても迷わない。ネットゥーノ広場前のネプチューンの噴水からマッジョーレ通りを東へほんの300メートル行くと、二本の斜塔が立つポルタ・ラヴェニャーナ広場に達する。この通りがゴシック建築といい風情といい、歴史を漂わせる。宿泊したホテルが斜塔の裏手だったこともあり、行ったり来たりのそぞろ歩きを何度も繰り返した。

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マッジョーレ広場の入口にはネプチューンの大噴水。
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ポデスタ館前にはカフェ。
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重厚感漂う市庁舎(コムナーレ宮)。
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市庁舎の中庭。建物にはボローニャ出身の画家モランディの作品を集めた美術館が併設されている。
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ネットゥーノ広場側から見る斜塔、高さ97メートルのアシネッリの塔。ピサの斜塔のように傾いている。
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アシネッリの塔の隣りの背の低いガリセンダの塔。傾き度が大きく危険なため上れない。
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ホテルの窓から見る斜塔の借景。
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アシネッリの塔の最上階までの階段は498段。上り下りすれば軋(きし)む古い木製。
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急な勾配の階段を恐々上り切ると展望のご褒美がある。
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斜塔から見渡すボローニャの街の全景。

イタリア紀行39 「ポルティコという知恵」

ボローニャⅠ

ペルージャから鉄道でフィレンツェへ。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の敷地に接するホテルに滞在、毎日「耳元で」鐘を聞いた。フィレンツェには3泊のつもりだったが、4泊すれば4泊目が無料になるサービスがあった。つまり、3泊しても4泊しても同じ料金なのだ。ならば、当然4泊を選択するものだろう。フィレンツェでは毎夜違うリストランテやトラットリアに通い、美食三昧の日々を過ごした。そして、この旅の最終目的地であるボローニャへと旅立った。

日本からのパッケージツアーにボローニャはまず入らない。だからと言って、見所が少ないわけではないのだが、ボローニャで過ごすのが半日ならマッジョーレ広場とその周辺を観光すれば十分、などと旅の本には書いてある。その記述、ボローニャに対してとても失礼である。ぼくは3泊滞在して余裕綽々で街歩きしたのだが、帰国後にいろんな「見学漏れ」に気づいた。主たる市街地が2キロメートル四方とはいえ、ボローニャは高密度集中を特徴とする街なのである。安直な街歩きで済ませていたら、見えていたはずの光景が実はまったく見えてはいなかったということが後日判明する。

ボローニャについて何を書こうかと思案するとキリがない。けれども、「ビジュアル的最大特徴」は、チェントロ・ストーリコ(歴史的市街地)をくまなく巡るポルティコ(柱廊)で決まりだ。この街では、建造物と通りの間の歩道がほぼ完全にアーケードで覆われている。全長で約40キロメートルあるらしい。ポルティコの二階部分は建物が3メートルほどせり出すよう増築されている。

ヨーロッパ最古と言われるボローニャ大学(1088年創立)には、現在ももちろんだが、16世紀頃までに大勢の学生たちが欧州各地から留学生としてやってきた。『ボローニャ紀行』(井上ひさし)によれば、当時はまだ校舎らしい校舎もなく、また狭い街では学生を収容するだけの住居も足りなかった。そこで、留学生のための貸間の普請と私道のポルティコへの改造が進められていったらしい。

訪れたのは3月上旬だったが、到着の前日か前々日には大雪が降ったと聞いた。ポルティコは遊歩や店先の景観に華を添えるが、同時に雨風や雪をしのぐのに恰好の避難通路にもなる。場所によって装飾や建築様式は変化する。歩くにつれて街角の表情が質素になったり高貴になったりして飽きることはない。夕方のそぞろ歩きにはもってこいの舞台装置だった。

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中央駅の近くにある高台の公園から見下ろす街角。
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インディペンデンツァ通りのポルティコはひときわ格調高い。
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マッジョーレ広場まで1km延びるポルティコのある通り。
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裏通りを歩いてもポルティコ。表通りの喧騒とは対照的。
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天井に古い木造部分がむき出しになっているポルティコ。
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レストランであれどんな店であれ、店舗前の歩道をアーケードが覆っている。
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教会が群居するサント・ステファーノの三叉路広場。

ルガーノの「気」でリフレッシュ

先の日曜日、「週刊イタリア紀行」でボローニャを書きそびれた。出張帰りで疲れていたせいもあるが、90枚という、思いのほかおびただしい写真を前にしてなかなか選びきれなかった。しばし休憩とばかりに、一年ほど前に読んだ井上ひさしの『ボローニャ紀行』を再読しているうちに時間が過ぎてしまった。と言うわけで、先送り。

今日は水曜日で、単独の休日。つまり、連休の一部の休日ではない。昨日が仕事で明日も仕事。しかし、今日が休日、それも土曜日や日曜日ではなく、水曜日。この週の半ばの平日の休みというのがいい。とても贅沢な気分になれる。朝からすがすがしく、56キロメートル散歩してほどよい日光を浴びた。咽喉とアタマに痛みがあって風邪の一歩手前だったが、何だかよくなった気がする。

少し開けた窓から陽が射し微風が入ってくる。二年半前にパリ、ミラノ、ヴェネツィアに旅した時のガイドブックに目を通していた。およそ600ページのガイドブックだ。ルガーノのページに付箋紙が貼ってある。ミラノから半日で行けるスイスの街ルガーノの紹介記事はわずか1ページ。ミラノからルガーノに出掛けたあの日も、今日のような爽やかな日だった。


ミラノから鉄道で北へ行くと観光と別荘地で有名なコモ湖がある。さらにほんの少し北へ進めばもうスイス国境を越える。ミラノからわずか1時間のロケーション。そんな近くでも切符は自販機では買えず、“Internazionale”(国際線)の窓口へ行かなければならない。ずいぶん右往左往した記憶がある。国境を越えるから、警備隊の兵が列車に乗り込んできてパスポートと切符もチェックする。

ルガーノ駅に着けば眼下にルガーノ湖が広がる。スイスといえども風情はイタリアの街だし、みんなイタリア語を話している。しかし、やっぱりスイスなのだから、スイスフランに両替しないといけない。ユーロでは有料トイレにも入れないし、バスにもケーブルカーにも乗れない。何はともあれ、バスに乗りケーブルカーに乗り継いで、モンテ・ブレの山頂を目指した。抜けるような晴天ではなかったものの、頭も心も透き通るようにリセットできた。記憶をまさぐるだけでもいいリフレッシュができるものである。

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ルガーノ駅のこぢんまりとした 駅舎。
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スナック・喫茶の店、切符売場。
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モンテ・ブレの山頂からルガーノ湖と山間がパノラマで広がる。
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ルガーノ名物ダックスフンド型観光ツアーバス。
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湖畔の乗船場。
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ルガーノ市街の中心。
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街の広場で「路上チェス」に興じる市民。
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名残りを惜しむ最後の一枚。

イタリア紀行38 「記憶のアーチとピザ 」

ペルージャⅢ

サン・ピエトロ教会からホテルに戻りチェックアウトの手続きを済ませる。荷物を預けたまま、今度は街の北へと向かう。通り道だから必然目に入ってくるものの、114日広場と大聖堂を見納めする。北側への道は、この広場からはおおむね下り坂になる。坂道は何本もあるが、どの道を通ってもアウグストゥスの門に辿り着ける。

ローマ時代以前に12のエトルリア都市が繁栄していて、ペルージャはその一つだった。すでに取り上げたアレッツォやオルヴィエートなども古代エトルリアの面影を残す街である。それらの街を探訪したのも、このペルージャ滞在がきっかけになっている。キーワードは「エトルリア」だった。当時は、ただローマ時代より古い時代ということだけでわくわくしていた。

エトルリア時代の巨大な門である「アウグストゥス門」に対峙する。そこをくぐると時代を古代まで遡っていくのではないかと半分本気で思ってしまう。わざわざタイムトンネルなど発明しなくても、やみくもに「現代の手」を加えなければ、日常的にぼくたちは過去と現在を行き来することができるのだ。

建造物の壁や門は、本来外界と内部を仕切る「クールな機能」を持つ。けれども、直線だけで構築するのではなく、そこにアーチ状曲線の意匠を凝らすだけでゆとりが生まれる。住民や旅人にとって親しみやすく、しっくりとなじめる存在になる。そこかしこに見られたアーチはかなり印象的だった。

もう一つの「曲線の思い出」は大好物のピザである。このピザを食べるために、前日は外食しなかった。窯で焼くこと、ほんの12分。一気に焼いて、さっと生野菜を散りばめて「はい、お待ち!」まで注文してから3分ほどだったと思う。これは記憶に残る絶品であった。どのくらい絶品かを表現するのは困難である。敢えて言い表すなら、「もしローマやフィレンツェに行く機会があれば、このピザを目当てにペルージャに立ち寄ってもいい」と思うくらいのうまさである。 《ペルージャ完》

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  114日広場の大聖堂。
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坂の多い丘の上の街だけに建物の高さも不揃い。
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門や渡り廊下などアーチの形状があちこちに目立つ。
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起源を前4世紀まで遡るエトルリア時代のアウグストゥス門。車と比べればその圧巻ぶりがわかる。 
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フォルテブラッチョ広場に面するペルージャ外国人大学本部の建物。
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“Mediterraneo”(地中海)はピザ自慢の店。
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店名と同じ定番のピザを注文。ユーロのレートを正確には覚えていないが、日本円で600円くらいだったような気がする。本場ナポリでも何枚か食べたが、それを凌ぐうまさ。
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街角の菓子店。ペルージャはBaciというチョコレートが有名。
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Salumeriaとはハム・チーズなどの食料品店。
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雑貨店の展示。月曜日から日曜日までの曜日を刺繍したテーブルナプキンを買う

イタリア紀行37 「サン・ピエトロづくし」

ペルージャⅡ

初めての土地で一晩だけ過ごすとなると、貧乏性のせいか、見所に迷う。これは、国内でも海外でも同じこと。ホテルでじっとしているだけなら、どこにいても同じだ。旅はその土地限定のものに触れることに意味があり、ホテルは二の次。快適でゴージャスなホテルは世界中のどこにでもある。お金さえ惜しまなければ宿泊するチャンスもあるかもしれない。だが、何々美術館や何々教会や何々広場はホテルよりも固有性が高い。そこに行かなければ見ることができない。

ホテルのチェックアウトは午前11時。荷物は預かってくれるが、とりあえず部屋を出なければならない。午前中自由になるのは23時間。ホテル近くのプリオーリ宮に行き、「公証人の間」の寄せ木細工の天井を見て、国立ウンブリア美術館の名作を鑑賞するか……それとも、市街の外れまで歩いてみるか……前日の夜から悩んでいたが、早朝に晴天の空を見て腹を決めた。屋内ではなく、歩こうと。屋内より屋外がいい。では、どこに向かうか。中心街から一番遠くに位置する――とは言っても2キロメートル程度だが――サン・ピエトロ教会を選んだ。

教会を選んだのに特別の理由はない。サン・ベルナルディーノ、マッテオッティ、サン・セヴェーロ、サンタンジェロ、サン・ドメニコなど他にも教会はいくらでもある。その中からサン・ピエトロ教会を選んだことにも、これという動機はない。地図に視線を落としたら一等最初に目が捕まえたという、ただそれだけの「縁」である。

一つの選択は、その他すべての候補の非選択。だから、行かなかった他の場所と比較するすべはないが、サン・ピエトロ教会という選択は、「ここしかなかったのではないか」と思わせてくれた。こんなにじっくりと教会の敷地で時間を過ごしたことはない。創建されたのが千年前と聞けば、なるほどとうなずける歴史の風合いを感じる。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に付属する同名の薬局があるように、その昔、教会と薬には深い関係があった。教会が管理する敷地内にはハーブ園があり、隣接する「化学実験室」で薬効成分の分析や調合をしていたのである。教会と言えば、聖堂の内部見学だけで終わるのが常だが、ここサン・ピエトロ教会では敷地内を散策する初めての体験に恵まれた。

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やわらかな光が射す通り。辻ごとに微妙に表情が変わる。
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カヴール通りの店を覗きながら歩く。
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サン・ピエトロ教会の鐘楼は高さ70メートル。
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六角形の尖塔部。
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中庭を囲む回廊。
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現在も使われているハーブ園。 
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ハーブ園の日時計。
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中世にあった門の跡地。
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ハーブの研究をしていた、牢屋のような化学室。
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教会裏手のハーブ園からの風景。 

イタリア紀行36 「街角に打ち解ける」

ペルージャⅠ

紀元前にエトルリアの由来をもつ古都――ペルージャについての知識はこれと、中田英寿が1998年イタリアデビューを果たした所属クラブの本拠地というくらいだった。それでも、一度は行ってみようと思っていたので、ローマ2泊とフィレンツェ4泊の予定の間に、ペルージャをはさむことにした。

旅程はウィーン~ローマ~ペルージャ~フィレンツェ~ボローニャ~ウィーン。ローマからボローニャへは列車の旅なので、細かくダイヤを調べていた。ローマ~フィレンツェに比べてローマ~ペルージャは少し面倒。ペルージャはローマとフィレンツェのほぼ中間に位置する。にもかかわらず、ローマ~ペルージャのほうがローマ~フィレンツェよりも時間がかかってしまう。これは、路線が逸れるのに加えて、直行便が少ないからだ。午後一番最初の直行便にユーロスター(ES)があったので、それを日本で予約しておいた。

列車時刻情報のみならず、この年は食事の内容やちょっとした日記などおびただしいメモをつけている。訪問した都市が多かったので、「アタマの中で捌いていた」のだろう。ちなみにローマからペルージャに向かった日にはこんなことを記していた。

39日(火曜日) ホテルスパーニャ(ローマ)での朝食ビュッフェは果物豊富。ランチはテルミニ駅内のトラットリア。チキンにポテト。ペンネのゴルゴンゾーラ。ローマテルミニ13:48ES。ペルージャ15:53着。駅前バスターミナルから7番でイタリア広場へ。ペルージャでの夕食はスーパーで購入。瓶詰めムール貝、たっぷりサラダ、モツァレラ、カットピザ。

古い建物を改築した、いびつな構造のホテルにチェックイン。なんとバスが着いたイタリア広場裏手の路地に入ったすぐのところだった。夕暮れ前なので、荷解きもそこそこに街に出た。イタリア広場からヴァンヌッチ通りを北へ250メートルほど行くとクアットロ・ノヴェンブレ広場。「114日広場」という意味で、ここにペルージャの象徴的なシンボルである大聖堂、プリオーリ宮、大噴水などがひしめいている。

翌日は15:46発の列車でフィレンツェに向かう。ペルージャ滞在時間は正味一日もない。それでもどういうわけか、まったく急かされる気分にならない。こぢんまりと落ち着いたこの空気は中世色の建物とモノトーンな路地のせいか。団体観光客は見当たらない。店を覗き路地裏へも足を向け、暮れなずむまでの時間を惜しむように歩いてみた。気がつけば空腹感。お目当ての外食は明日のランチの楽しみにして、スーパーで食料を買い込んでホテルへ。すでに日が落ちていたが、暮れた街角にも心は打ち解けた。

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ローマテルミニ駅からペルージャに向う列車の窓外。
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ペルージャ駅からバスは坂をくねくねと上り、丘の上の街へ。海抜500メートル近い。 
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うっかりしていると通り過ぎてしまいそうなホテルエントランス。
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ホテルの裏通りは坂道。この道は迂回して「114日広場」に出る。
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ホテルの窓からの遠景。翌朝に撮ったもので、お気に入りの一枚になっている。 
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南北の中心ヴァンヌッチ通り。国旗のある建物がプリオーリ宮、正面が大聖堂。
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大聖堂前の噴水。
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中世に誘う路地が随所に現れる。カラーで撮ってもモノクロのような味が出る。
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大聖堂の裏あたりを歩いているとテアトロの建物。映画館/劇場である。
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建物と建物を結ぶ空中回廊が出現。いや、これは行き止まりを回避する門なのだろうか。
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日が暮れた直後のとある街角。壁色と独特の青が意外に協調している。

懐かしい世界遺産マテーラ

今日は〈週刊イタリア紀行〉はお休み。次回からはペルージャ、その後にボローニャをそれぞれ3回の予定で書くつもり。まだローマを取り上げていないし、写真が少ないために見送っているヴェローナ、ポンペイ、コモ、ナポリなども残っている。

夕方6時のテレビ番組『世界遺産』はバジリカータ州の洞窟都市マテーラだった。実は、ぼくはマテーラにも行った。行ってはいるが、その想像を絶する光景にカメラを構えるのをつい忘れ、撮影枚数がきわめて少ない。それでも10数枚はあるのだろうか。ただマテーラについて帰国後に次のような走り書きの感想を書いている。

マテーラはまるで映画のセットのようだった。ミニアチュアの模型のようでもある。

おとぎの国アルベロベッロとは異なる圧巻ぶりだ。何でこんなものがこの世に存在するのか。対面の山肌には七千年前の洞窟住居跡が見えている。ピラミッドや万里の長城とは違って、この洞窟群では人間たちが日常的に生活していた。日々ここで暮らしていたというのがすごい。

旅人として一瞬佇めば、かくれんぼ遊びの衝動にかられる。だが、実際に暮らすのは大変だ。ここに一夜でも身を投じてみれば洞窟での営みを少しは理解できるのだろうか……。

鳥が岩穴に巣を作るように、かつて人間もこの岩肌に小さな穴を見つけて、身を寄せた。さらにその後、石を切り出して穴を広げたり奥へ掘ったりして、切り出した石をブロックにして積み上げ住居を作っていった。生きる知恵はとてつもないものを築くものだ。


このマテーラの新市街地のバールで、イタリア初体験のアイスコーヒーを飲んだ。イタリア語で「カフェ・フレッド」と注文したら、氷の入っていない常温のコーヒーだった。わざわざ冷やすのではなく、「冷めた」という感覚である。イタリアではフレッド系のコーヒーを注文してはいけないことを学んだ。

TBSの世界遺産は欠かさず見るようにしているし、DVDにも収めている。マテーラについてもサイトではコンパクトにまとめて紹介してくれているので、ぼくの下手な講釈に物足りない人には一読をお薦めしておく。 

イタリア紀行35 「人間尺度の都市設計」

レッチェⅡ

「人間尺度の都市設計」――もちろんこれはレッチェが専有する表現ではない。いまレッチェにこの表現を用いながらも、以後訪れた20近くの都市に対する同様の印象もあらためて再生している。ここレッチェに特有なのは海洋的南イタリアの開放感。それが人間本位の街路やパラッツォ(貴族の館、大邸宅)の設計に反映されている。

車が走っていないわけではない。庁舎や集合住宅内には駐車スペースがあるし、少し狭い道でも何度か車とすれ違った。それでも、旧市街では「交通」というものを感じない。実際、自動車を規制して歩行空間を少しずつ広げているとのことだ。身体をよじって車をけたりしなくていいのは、生活者にとっても観光客にとっても歓迎材料だ。じっくり街角に視線を投げ掛けられるし、慌てずに撮影の構図を狙い定めることもできる。車の利便性を人生最上位に置く者にとってはこの街で暮していくのはむずかしい。

信号のたびに立ち止まる。目前に迫っているはずの旧跡はまったく見えず、疾駆する色とりどりの車体ばかり見ている。のべつまくなしに背後から近づいてくる車を意識して歩かねばならない。こうして、車尺度の都市づくりは歩行者を主役とする設計とかけ離れていく。歴史遺産を有する人口10万規模の都市なら、レッチェから多くの街づくりのヒントを学べるはずである。

建築の専門家にとって、レッチェは様式・構造・装飾の宝庫と称えられる。詳しいことはわからないが、ぼくのような素人でも外壁の装飾の凝りようには即座に気づく。たとえばレッチェの象徴であり最大の見どころとなっているサンタ・クローチェ聖堂。そのファサードのバロック装飾は見るものを釘付けにする。前回さらっと取り上げただけだが、ドゥオーモの正面もなかなかのディテールを誇っている。

サントロンツォ広場、古代円形闘技場、サンタ・クローチェ聖堂、ドゥオーモ広場とそれを取り囲むバロックの建物――これらがレッチェの主要な見どころで、ミラノやローマの注目スポットの数にはるかに及ばない。ほぼすべてが数百メートル四方に収まっているし、街歩きに要する時間もたかだか2時間。それにもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、街の見学密度はきわめて高い。写真ではその密度の痕跡はあまり表現できていないが、短時間の割には接写的に旧市街を辿った記憶がある。 

ジェノバを筆頭にイタリアだけでもまだ行きそびれている都市が五つ六つある。すんなりと足を運べないこの踵の先端を再訪することはまずないだろう。だが、徹底的に人間本位を追求する街は、気位を保ち続けながらぼくの記憶に刻まれている。レッチェはバロック建築が放つブロンズ色に今日も輝いているに違いない。 《レッチェ完》

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ドゥオーモのファサードの装飾。
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サントロンツォ広場。守護聖人が円柱上から見下ろす。
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サンタ・クローチェ聖堂。
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聖堂につながるチェレスティーニ宮殿は現在県庁舎である。
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サントロンツォ広場近くの円形闘技場跡。2世紀に建造され25,000人が収容できたという。
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ホテルの窓から見る市街の建物。

イタリア紀行34 「イタリア半島の踵にて」

レッチェⅠ

イタリア半島が長靴に比喩されるのはご存知の通り。長靴の代わりにヒールのあるサッカー靴に見立てると、シチリアというサッカーボールを蹴っているかのようだ。前回取り上げたアルベロベッロからさらに南東の方向に下る。ヒールのほぼ先端部はアドリア海に面しており、対岸にはアルバニア共和国、その下にギリシャが控えている。レッチェはまさにそのヒールのところに位置している。七年前、「とうとうこんなところまで来たか」と感慨深く街を歩いた。

ヴェネツィアやフィレンツェやローマに比べれば知名度は格段に低い。特別な関心や縁やテーマがあれば別だが、イタリアについて語るときにレッチェが話題にのぼることはまずない。こんな紀行でも書かないかぎり、記憶の底に沈んでしまう存在だろう。だが、昨年、オフィス近くに“Lecce”という、イタリアンバールとカフェレストランを融合したような店がオープンした。エスプレッソとカフェラッテがおいしいので時々足を運ぶ。以来、本場レッチェもぼくの中でクローズアップされるようになり、アルバムを引っ張り出したりバロック都市の本を読んだりしてみた。

だいぶ街のイメージが甦ってきたところだが、一番印象に残っているのは建物でも石畳でも遺跡でもなく、散歩の帰りに寄ったスーパーでの「論争」である。レジで現金を払ってその場を立ち去ろうとした直前に計算間違いに気づいた。品物をすべて見せレシートと照合して合計が間違っていることを説明したが、レジのおばさん、頑として受け付けない。「お前さんはいったんこの場を離れた。その直後に商品をバッグかどこかに隠しただろう。このわたしが間違うはずがない」などとジェスチャーと大声でわめく(こんなときのイタリア人は驚くほど早口)。だが、決してひるまず毅然と対応するべし。少々時間はかかったが言い分を通し、隣のレジのお兄さんや順番待ちするお客さんらの視線を味方にして、計算間違いを認めさせることができた。それでも、おばさんは一言も陳謝せず、札と小銭の混じった不足分のお釣りを無愛想に差し出した。

閑話休題。加工に適した石灰石がこの一帯の「名産」であり、それゆえに石をぜいたくに使った建造物が競い合う。おおむね1718世紀に最盛期を迎えたバロック建築がレッチェの最大特徴になっている。「バロックのフィレンツェ」がレッチェに用いられる比喩だ。古代ローマ時代に起源をもつこの街は中世になって迷路のような都市構造に変容していった。たしかに地図に目を凝らしてみれば、この街は主要な通りは真っ直ぐに伸びていてわかりやすいが、曲がりくねった細い通りや小道が交錯しながら市街空間を形成している。今にして思えば、さほど迷わなかったのは深部にまで足を踏み入れなかったせいだろう。

それでもなお、ぼくが宿泊したホテルが市街地の西の地区にあって、その場所から城門、教会、広場、闘技場跡を位置取りしていた脳内地理が完全に間違っていたことがついさっき判明した。上下左右がほとんど逆だった。それもそのはず、ホテルの位置は西ではなく、街の東のはずれだったのである。

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カルロ5世の城。
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凱旋門様式の城門。
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金色に近い黄土色は、地方特有の石灰岩の色合いである。
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イタリアのどこの街にでもありそうな通りだが、ブルーグレー色に染まる石畳が印象的だった。
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建物のエクステリアにはレリーフの意匠が凝らしてある。
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高さ70メートルの広場の鐘楼。
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カトリック神学校の集会。

イタリア紀行33 「生活の知恵が世界遺産」

アルベロベッロⅡ

プーリア州を含む南イタリアはルネサンス期の後の16世紀頃からスペイン王国に支配される。支配者は大土地荘園制を敷いて痩せた大地に農民を集めた。オリーブ畑だけで生計を立てる貧農生活を強いられたのは言うまでもない。やむなく、掘れば簡単に手に入る石灰岩を使って家を建てる知恵を編み出した。こうして生まれたのがトゥルッリである。

古い家を壊して、そこに新しい家を建てる。費用とエネルギーを要するように思えるが、実は安直な方法なのだ。老朽化して危なっかしい場合はやむをえない。しかし、何でもかんでも壊して建て直せば街が活性化するという筋書きはにわかに信じがたい。ヨーロッパ、特にイタリアの歴史地区からぼくが学んだ一番尊いことは、建造物をはじめすべての人工物をまるで植物のように育て共生していく精神である。古い住居に手を加え続けるのは、生活そのものを真剣勝負としているからだ。

今でこそ童話の絵本から飛び出してきたように見ているが、釘もモルタルも使わずに板状の石をただ積み上げただけの家に住むのはおそらく愉快ではなかったはずだ。そんな家だったからこそ、ドームの小尖塔に装飾をつけたりしたのだろう(前回紹介したシンボルには魔除けや呪術的意味合いが込められていたようだ)。眩しいほどの白壁。まさか何百年もそのまま残っているはずがない。外壁保護のために繰り返し繰り返し漆喰(しっくい)を刷毛で塗っているのだ。週に一回ペースで塗るというのだから、その手間は並大抵ではない。「よく生きる」とはこういうことなのだろう。

街の東のアイア・ピッコラ地区から300メートル西の方向に、もう一つのトゥルッリ集落であるモンティ地区がある。入り組んだ構造のアイア・ピッコラとは違って、この地区は整然とした街並みになっている。観光客は断然こちらのほうが多い。もちろん民家としても使われているのだが、ジュゼッペ・マルテッロッタ広場側から入ると、しばらくは土産物店が立ち並ぶ。買物や景観で人気はあるが、土産物店特有のプロモーションをあまり好きになれないから、土産店は一切覗かず、ゆるやかな道をずっと上って折り返してきた。広場をはさんだ向い側のアンティークの店を一軒だけ冷やかした。

トゥルッリもいいが、早朝のエスプレッソも印象的だった。別のバールには黄昏時と翌日午後にも行った。ほとんど儲けのないような店なのに満面笑みをたたえる主人。両替に行った銀行の対応はイタリア随一と言っていいほど「鈍かった」。2万円がユーロになるのに小一時間はかかった。「プルマン(長距離バス)が出るから至急頼む!」と何度急かそうともうなずくだけで焦らない。すべてがアルベロベッロ。誰が何と言おうと、旅は個人的な感応体験なのである。 《アルベロベッロ完》

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バールの隣りの果物店の店先。
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こじんまりとした田舎駅。
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ポポロ広場と市役所。
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高台に上がると、トゥルッリ集落がよく見晴らせた。
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ジュゼッペ・マルテッロッタ広場。壁は白で統一されている。
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民家が壁を共有しているモンティ地区。ドーム屋根には家ごとにシンボルが描かれている。
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スケッチしたシンボル。家紋のような目印は宗教的な意味合いを持っているとも言われる。
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唯一立ち寄ったアンティークの店。
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モンティ地区の道。
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街の外へ出ると風景は一変。やや色褪せたワンルーム仕様のドーム屋根と壁。