信と疑の再考

イエスのほうがノーよりも聞こえがいい。述べた意見に「その通り」とうなずかれると快く、「違う」とか「賛成しかねる」ときっぱり言われたら気持ちは穏やかではない。人は否定されるよりも肯定されるほうを好む。そして、肯定されるためには、自らが他人を肯定せねばならないから、みんなが互いに褒め合うようになる。そんなやわな褒め合いが昨今の風潮である。

思考のどこかには、「既にあるもの」への疑問や、他人の意見や常識を単純になぞってたまるかという意識が潜むものだ。ほどよい懐疑と自覚が理性的思考の前提にある。懐疑するには、懐疑する対象を動かす「テコ」を持たねばならないのである。だが、テコがなければ、反証できずに泣く泣く受容せざるをえない。褒め合う風潮の背景には、このテコを持ち合わせない人が増えてきたこともあるのだろう。

神々の支配下にあった古代末期から中世初期にかけて、ヨーロッパでは神に従ってさえいれば万事無難という生き方が趨勢であった。ところが、そうしているにもかかわらず、生活も良くならず生きがいもない。ならば、人が人として生きてみよう、考えてみよう……ギリシアやローマの古典古代に生きた人々のような人間性を復興させよう……そんな気運になってきた。この人間復興が文化復興へと発展し、ルネサンスと呼ばれる時代を迎えることになる。危機への意識は、イエスや肯定などの信によってではなく、ノーや否定などの疑によって芽生えるものだ。常識を疑う批判精神が創造への道を切り拓いたのである。


ここで「シャルリーエブド」の話を持ち出すつもりはない。風刺の話ではなく、あくまでもぼくたちが縛られている信と疑のありきたりな観念を見直してみたいというのが動機である。疑が信よりも重要だという幼い主張をするつもりもない。無思考的に〈信〉に流れている風潮に対して、〈疑〉というものの本来的な力にも目配りをすべきではないかという問題提起である。

明暗信疑2

そこで、先人の知恵を渉猟することにした。そして、信と疑について、さらにポジティブとして、あるいはネガティブとして語る言説を分類してみたのである。

信と明をつなぐもの。すなわち、信への信。

自分自身を、自分の力を信じることが才能である。(ゴーリキー)
自分自身を信じてみるだけで、きっと生きる道が見えてくる。(ゲーテ)

信と暗をつなぐもの。すなわち、信への疑。

誰でも恐れていることと願っていることを易々と信じてしまう。(ラ・フォンテーヌ)
物事は確信を持って始めると、疑惑に包まれて終わる。(ベーコン)

疑と明をつなぐもの。すなわち、疑への信。

まず疑う、次に探究する。そして、発見する。(バックル)
初めに疑ってかかり、じっくりそれに耐えれば、最後は確信に満ちたものになる。(ベーコン)

疑と暗をつなぐもの。すなわち、疑への疑。

自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。(渋沢栄一)
惚れていて疑い、怪しみつつ愛する男は、呪われた月日を送る。(シェークスピア)

言うまでもなく、偉人の言を鵜呑みにしてもいいし、それらに首を傾げてもいい。これらを統合的に眺めてみれば、疑と信のいずれも、一本槍では済まないということが学べるだろう。相手関係や世間の価値観の呪縛から逃れて、疑も信も使いこなせというわけだ。これが基本である。ポアンカレの次の言が結語にふさわしい。

すべてを疑う、またはすべてを信じるというのは都合のよい解決法である。どちらにしても、われわれは反省しないで済むからだ。(ポアンカレ)

人間学について

カント『人間学』

カントの『人間学』に「認識能力における諸才能について」という項がある。才能とは天賦にほかならず、卓越した認識能力のことだと言う。どう学んで身につけるかなどという話ではない。「その人の生来の素質によるものである(……)それは生産的機知、聡明及び思惟における独創性(天才)である」と断定されてみると、凡人は無駄な抵抗を諦めるしかない。

うまくいく方法やよくなる方法を学びたがるのが人の常。しかし、そのような方法を学ぶのは容易ではない。学ぶべき要因が複数であり、しかも複雑に絡み合っているからである。成功要因が一つであることは稀なのだ。料理をおいしく仕上げる秘訣がたった一つでないのと同じである。他方、一つだけミスすればまずい料理が出来上がる。失敗要因は一つにして必要かつ十分な条件を満たす。

うまくいかなかったこと、悪くなったことの原因のほうが絞りやすいのである。成功要因は突き止めにくいが、失敗要因は見つけやすい。大いに反省して謙虚になれば、己の失敗要因も見えてくるだろうし、そうすれば同じミスを防ぐべく未然に手も打てるようになる。才能を磨き上げて天才に到らしめようとするよりも、せめておバカさんにならないよう努めるのが手っ取り早いのである。


冒頭の所見に先立って、カントは「認識能力に関する心の弱さ及び病気」について十数ページにわたって書いている。心の弱さや病気と言うよりも、性向に近い話であり、カントならではの様々な分析がおこなわれている。あらかじめ断っておくが、ぼくに差別的意図などはまったくない。本書の文中には今日的時流からすれば危なっかしい表現がいくつかあるが、カントに悪意があるはずもない。さて、そこに書かれているのは「ダメな人」の本質的特性についてである。

単鈍たんどん〔愚鈍〕とは、鋼のついていない包丁や手斧のように、何ごとも覚え込ませることのできない人、すなわち学ぶことのできない人のことである。単に真似だけの巧みな人が鈍物と言われる。

単鈍を「単純」と読み違えないよう注意。「たんじゅん」ではなく「たんどん」。覚えない・学ばない人をこう呼んでいる。A君はバカではないのに覚える気がない。Bさんは学んでいるのだけれど、学び方を工夫しない。学んでも身につかなかったやり方なのに、懲りずに今度も同じやり方をしている。C君はこれはまずいと自分で気がつくこともあるが、自己流で工夫するのは荷が重く、結局中身を伴わない型だけを模倣しておしまい。つまり、鈍物どんぶつ

遅鈍ちどんとは、判断力を持っていないために、用務に使うことのできない人のいいである。

D君を見ていて、判断力のない頭の良さなどはまったく役に立たないと思う。二者択一の岐路で悩みに悩み、ジレンマに苛まれた挙句、決断せずに岐路から引き返してくる。判断しようとした時間と労力だけが無駄になってしまう。優柔不断なEさんも、機械的マニュアル的な作業しか与えられず、臨機応変が求められる仕事を任せてもらえない。

馬鹿とは、無価値な目的のために、価値のある目的を犠牲にする人のことである。(……)馬鹿のくせに他人を侮辱的にするのは阿呆と呼ばれる。(……)おしゃれとかうぬぼれとか呼ぶことも、阿呆が利巧でないという概念にもとづいている。前者は若い阿呆であり、後者は年をとった阿呆である。

カントはズバッとものを言う人である。極論かもしれないが、当たっているのだから仕方がない。Fさんは誰が見ても右へ行くのが正しく、しかも賢慮良識の先輩がそのように助言しても、悩んだ挙句に左へ行く判断をしてしまう。G君はそのことを棚に上げて、他人の判断を小馬鹿にする。もっとも、阿呆は自分以上の阿呆を探さなければ立つ瀬がないから、そうするしか道はない。

A君からG君までの性向は誰の内にも潜んでいる。いったいどうすれば愚鈍、遅鈍、馬鹿、阿呆にならずに済むのか。この『人間学』を読んでも、現実の生き方に応用しなければ話にならない。人は人からもっとも多くを学ぶ……結局ここに尽きるのだろう。人の振り見てわが振り直すことから始めるしかない。

再生のために解体は必然か

オフィスから徒歩3分、大通りに面した一角で古いビルが解体されている。かなりの資産家のビルで、このあたり一帯の土地と複数のビルを所有していると聞く。古色蒼然としたあのビル、今も解体途中なのか、それとも新しいビルの基礎工事が始まっているのか、囲われているのでわからない。見えるのは、囲っている壁に掲げられた「解体は再生の一歩」という企業スローガンのみ。

そのスローガンをネットで調べてみたら、あるブログに行き当たった。「再生の意味の一つは、衰えまたは死にかかっているものが生き返ること……解体はばらばらにすること、壊すこと……さあ、衰えたもの、古いもの、いらないもの、すべて解体して再生しよう……」などと書かかれている。「解体は再生の一歩」を心にぐっと来たことばとして大絶賛している。

こういう発想が、建てては壊し、壊しては建てるという、戦後高度成長時代から続く「土建立国」としての発展を助長してきたのは間違いない。単純に欧米と比較できないのは、欧と米がまた違うからだ。経済大国であるアメリカと日本は建造物の新陳代謝によってGDPを底上げしてきたふしがある。


解体ということばからアメリカの詩人カール・サンドバーグの『シカゴ(Chicago)』という散文詩が思い浮かぶ。かつてシカゴが悪名高き都市であった頃に紡がれた詩である。その一節。

(……)
Shoveling,
Wrecking,
Planning,
Building, breaking, rebuilding
(……)

「掘る、解体する、設計する、建てる、壊す、再び建てる」。建造物の解体と構築の無限連鎖を思わせる。くだんのスローガンもブログの一文も、再び建てることを再生と名付けているようだ。建物を取り壊して更地にしてそこに新しいビルを建てる。もし新しいビルの建築を再生と呼ぶなら、その前提に解体を置くのは当然だろう。しかし、この発想が寄り掛かっている精神は、実にさもしい。

衰えさせたり死なせたりする建築思想への反省がまったくない。再生とは衰え死にかけた建物を修復して生かすこと、あるいは、ルネサンスということばにあるように、元の姿を復活させることではなかったのか。再生の前提に保全を置いてきたのがヨーロッパ的な考え方であった。解体するしかないと踏ん切りをつける前に、修復保全の可能性を徹底的に追求するのである。そのような情熱を持ち合わせもせず、土建的経済主義を優先させて、保全価値などないと見切るのは現代による身勝手な過去の裁きにほかならない。

バルセロナの修復工事2

バルセロナはゴシック地区のサンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂の修復現場を見学したことがある。何一つ解体されてはいなかった。修復して再生するから解体の出番がない。もっともこれは由緒ある教会、寺院、神社では当然のことであり、わが国でも希少遺産については正しい意味での「再生」をおこなっている。

重要なことは、庶民のアパートであれ商業施設であれ、古くは中世の、近年では18世紀から19世紀の建物に対しても、ほぼ同じような扱いで保全しているという点である。衰え死に絶えた過去を安易にリセットしない。歴史に対して辛抱強いのである。遠い未来を見据えられた建造物と、たかだか半世紀程度先に焦点を合わせた建造物の大いなる違いがここにある。「解体は再生の一歩」というスローガンを都市の宿命と言いたげだ。そんな都市に馴らされてしまうと、作る、壊す、また作る、また壊す……というふうにものの考え方も生き方も変貌していくに違いない。原理がなかなか定着しない風土でぼくたちは生きている。

間違いのトポス

「なぜきみはこんなミスをしてしまったのか!?」と詰問されても、即答できるはずもない。ミスを意図したのでないかぎり、ミスしてしまった本人はうまく事を運ぼうとしたはずである。そして、うまくいったと確信している者が、ミスを指摘された直後に素早くその原因を突き止められそうもない。自ら見つけたにせよ誰かに指摘されたにせよ、ミスに対して冷静であることは難しい。

あの珈琲豆店の店主はミスに気づいているだろうか。本人が自発的に気づくことはない。気づくとすれば、注文と違う焙煎豆を手渡された客からクレームがある場合のみである。では、その客はその場でミスに気づいただろうか。自宅に帰ってコーヒーを淹れようとして気づいたのだろうか。もしかすると、未だに気づいていないかもしれない……顛末を知るすべはぼくにはない。

「間違いのトポス」とは、間違いが生じた場所のことであり、ぼくは比喩的に「原因のありか」という意味で使っている。

経緯はこうである。先々週の日曜日、珈琲豆の焙煎所で「コスタリカ産スプリングバレーマウンテン」を300グラム買った。税込みで1,560円。それに先立つ一カ月前、あるカフェで飲んだ一杯のコスタリカがとても気に入り、同じコスタリカだが、地域違いの豆を焙煎してもらったのである。「焙煎待ちがすでに三人いらっしゃいます。半時間後にお越しください」と言われたので支払いを済ませ、時間を潰してから店に戻って商品を受け取った。

モカマタリ

てっきりコスタリカ産スプリングバレーマウンテンだと思っているぼくは、パッケージに書かれた手書きの品名を確かめもせずにコーヒーを淹れ、う~ん、さすがにうまいと満悦至極であった。翌日パッケージを見て驚いた。「イエメン産モカマタリアルマッカ」。ぼくの買った100グラム520円のほぼ倍額の100グラム1,050円の豆。つまり、その店の最高額の豆を300グラム分ぼくが手にし、別の客は注文したモカマタリではなく、ぼくが受け取るはずだったコスタリカを手渡されているのである。

こんな高級な豆を買うことなどめったにないから、ぼくからこの間違いにクレームをつけることはない。ありがたくいただいている。飲みたかったコスタリカのことは当面どうでもいい。


さて、間違いのトポスはいったいどこにあるのだろうか。店主が、注文して料金を支払った客の名前を聞き、注文商品の横に名前を正しく記していたのならば、ここに間違いのトポスはない。そうすると、手渡す時に間違いが生じたことになる。

間違いのトポスは、①名前とレシートの両方で確認しなかった、②注文順に商品を並べていなかった、③(ありそうにないが)モカマタリの購入者がぼくと同姓であった……のいずれか。これらの間違いのトポスを消したいのであれば、先払いにするのではなく、商品を手渡す時点で料金を徴収するしかない。但し、間違いとは別に、注文だけしておいて取りに来ないというリスクの可能性が生まれる。

ここまで書いておきながら、それでも問題のトポスは生じるのではないかと思う。ちょうど昨日の昼のことだ。とてもお世話になった知人を高級天ぷら割烹でおもてなしした。注文したメニューの料金は分かっている。当然、食後の後払いである。知人がデザートを終えるか終えないかのタイミングを見計らってレジに立ちお勘定をお願いした。勘定書きを手にした会計の女性がぼくに告げた金額は、想定の60パーセントであった。「はい、そうですか」と言って支払えば、かなりの得になる。「それ、間違っていますね」とぼくは指摘した。相手のミスで昼食代を節約しようなどという魂胆はない。

この間違いのトポスに潜むのは一因だけではない。勘定書きの並べ方、カウンター席番号との照合、お客の顔ぶれ、注文内容の記憶など複数の原因がある。このように、〈多因一果たいんいっか〉が常であるならば、間違いのリスクはつきまとう。ミスを防ぐのは、おそらくシンプルな対策なのに違いない。王貞治の「プロはミスをしてはいけない」がずしりと響く。

単一問題と問題群

何事も考えず、どんなことにも気づかなければ、問題などは生起しない。幸か不幸か、あいにくぼくは問題に知らん顔できる神経を持ち合わせていない。職業的な性かもしれないが、いつも問題を抱えながら、あるいは問題を突き付けられながら生きてきた。問題を問題としない、あるいは問題を見ないことにする人生もあれば、他方、別にそこまで問題にしなくてもいいことまでを『問題群』(中村雄二郎)として徹底的に考察する人生もある。

問題がたった一つであるのと、問題がおびただしく集合して群を成すのとでは天と地ほどの差がある。問題の数の単なる足し算が問題群になるわけではない。問題群を見てしまったら最後、解決に向けて集中と統合というエネルギーを費やすことを運命づけられる。これが現実だ。そう、生きている世界は問題群世界なのである。ところが、問題群の渦中にあるにもかかわらず、「問題などないさ」と言ってはばからないP君がおり、たった一つの問題しか見えないQ君がおり、一見平穏無事の状況の中からでさえ現象を抽出しエキセントリックに問題に仕上げてしまうR君がいる。

落葉群

ふと以上のようなことを考えたきっかけは、一枚の落葉をしげしげと眺めた後に、落葉群に巡り合った時だった。ぼくは落葉を問題に見立てて上記のようなことを考えたのである。落葉と問題、落葉群と問題群を類比してしまうのは、ぼくの内にR君があるからだろうと思う。一枚の落葉を見るのとおびただしい落葉の集まりを見るのとでは、落葉の印象が激変する。同様に、単一の問題に気づくのと問題群に気づくのとでは雲泥の差がある。思考にコペルニクス的転回が起こるのだ。


「左右」ということばがある。「左」について思いを巡らす時には「右」が前提され、「右」について意識する時には「左」が前提される。では、古代人がある日、ある概念に基づいてそれを「左」と命名した……しばらくして、別の概念を思い浮かべてそれを「右」と呼んだ……そうして共同体で「左右」という概念と名称が完成した……などということがありえただろうか。左と右は二項対立的関係にある。左と右は対立しながらも、左は右に、右は左にもたれかかっている。別々の日に生まれたなどとは思えない。同時に生まれなければならない。

左右という二つの概念のセットに限った話ではない。すべての基礎概念は、少なくとも個々の共同体が育んできたカテゴリー内にあって、複雑に絡み合って類似と差異のネットワークを形成しているのである。概念とことばがそうであるように、一見異なって見える問題もこんなふうに影響し合い関わり合っている。ある一つの問題は他の大小様々な問題から孤立して発生したり露出したりしているわけではない。

ちょうど一本の木から一枚ずつ葉が剥がれて地上で落葉群になるように、同一カテゴリーの問題は同じ根から派生した枝から落ちてくる。問題を単独にとらえ、その問題の原因だけを明らかにしていくというのは、机上の便宜上の方便に過ぎない。楽そうだからそうしているだけの話で、結局は解き切れないのである。単一問題だけを炙り出しているかぎり、一過性の対処療法の愚を繰り返すばかりだ。すべての問題は問題群の中で発生している。だからこそ、問題群としてとらえてはじめて根腐れが見つかるのである。

知は力か無力か

エサしか見えないカエル

万物の霊長も、カエルのことを「餌しか見えないやつだ」などと言えた立場にない。欲に目がくらんだり直近のものに強く反応したりするいう点では、両生類とぼくらの間に大差はない。両生類よりもすぐれた知力が備わっていても、欲が強くなる時、知の働きが鈍くなるのが人の常。

「知は力なり。とんでもない! きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力をふるう人もある」
(ショーペンハウエル)

知力あるいは理性が潜在的に備わっていても、顕在化するとはかぎらない……眼前の対象に右往左往していては力を発揮できない……知の多寡は現実の成果とは無関係である……ショーペンハウエルはこんなふうに言っているのだろう。ショーペンハウエルが槍玉にあげた「知は力なり」というのはフランシス・ベーコンのことばである。ここでの知が知恵なのか知識なのかという議論もあるが、ラテン語では“Scientia potentia est.”と表現されている。“Scientia”は「知識」の意味にとらえるべきなので、ショーペンハウエルの焦点の絞り方は妥当と言える。


ぼくが「ことばは力である」と言うとする。いや、実際にこれまでもよくそう言ってきた。これに対して「いや、あふれるような笑顔のほうが力だ」と誰かが反発する。いや、それどころか、ことばよりもハートだなどともよく反駁されたものである。もちろん言い返されて納得できれば主張を取り下げてもいい。ところが、ハートを持ち出す者から具体的な論拠を聞かされたことはない。論拠のない反論に耳を貸す必要などさらさらないが、世間には検証もせず議論もせずにハートのほうを容認する人たちが少なくない。

「ことばは力である」に反論するなら、そのことのみを否定すべきである。つまり、「ことばは力ではない」を反証しなければならない。「ことばよりもハートだ」というのは反論になり得ていないのである。同様に、「理性よりも感性だ」も理性の否定になっておらず、「きみがイケメンなら、オレもイケメンだ」も「きみがイケメンである」ことを揺るがしてはいない。幼い口げんかに過ぎない。

では、ショーペンハウエルのベーコンの「知は力なり」への反論はどうか。「とんでもない!」と強く反発しているが、「知は力ではない」と言い得ているだろうか。あくまでも「場合によっては」とか「人によっては」という条件付きになっている。知を力にできるかどうかは人次第であり、知そのものが他の要因を無視しては力にはなりにくい、という批評に留まっている。そして、完全否定などではなく批評ならば、知を力にするには何が必要かを提示してもいいはずだ。もっとも、こんなことをショーペンハウエルは百も承知である。

裏返せば、ベーコンの「知は力なり」も真に受けてはいけないということがわかる。「知は力になりうる」というほどの意味だ。一、二行だけポツンと言い放たれたり抜き書きされた、いわゆる名言や格言を読む時の最低限の作法を身につけておかねば浅い理解に終わってしまうのである。結論――「知はうまく使えば力になる。しかし、過信された知は無力である」。どうも冴えない結論だが、まあ、こういうことなのだろう。

石に矢の立つためしありやなしや

「意志あれば道開く」とか「願望は実現する」などとよく言われる。イタリア語にも次のような格言がある。

Volere è potere. (意志は能力である)

能力を「あることを実現する力」と見なしてもいい。さて、理屈っぽく考えると、意志という「一因」によって道が開けそうもないし、ただ願い望むだけで事がうまく実現するはずもない。では、意志・願望を持つことと何事かが可能になることの間にはまったく因果関係などないのか。それは、よくわからない。

意志があって強く願えば何でも可能になる、とは思えない。「精神一到何事か成らざらん」と言うけれど、二者対抗型の競技などにあっては双方が強くそう考えている。それでもどちらかが勝ち他方が負ける。サッカー国際親善試合の冒頭でキャスターが「絶対に負けられない試合がある!」と叫んでも、負ける時は負ける。相手にとってもその試合は絶対に負けられない試合なのである。絶対と強がっても、絶対はない。


おおよそダメなものはダメなのである。しかし、「ダメ」と信じ込んでいることに常識の穴や見落としがあるかもしれない。ダメと思っていること自体が錯覚である場合、別の機会にさらりとうまくいく僥倖に巡り合う可能性を否定できない。

意志があっても、ふつうは石に矢は立たない。ところが、石に割れ目があった、あるいは想像以上にもろい石であったというのであれば、矢が立つかもしれないのである。石は硬いから、それよりもやわらかいものを通さないという固定観念。石と矢の関係にはその固定観念が当てはまらないことがありうる。

グーがチョキに負ける

では、チョキはグーに勝てるだろうか。意志強くして、かつ勝ちたいという願望を極限に高めても、チョキではグーに勝てない。大人のチョキで威嚇しても幼児のグーに勝てないのである。意志や願望にかかわらず、ルールによって制限されているかぎり実現の可能性はゼロである。石に矢の立つためしがあるのは石に矢を立ててはいけないというルールがないからである。チョキはグーに負けるというルールのもとでは、チョキでグーに勝とうとする意志も願望も無力である。

白紙の状態

tabula rasa

ジョン・ロックの哲学をはじめとする諸々の事柄を書きだすとキリがないので、〈タブラ・ラサ〉というラテン語を出発点とし、そこから思いつくことを少し広げてみたい。

タブラ・ラサ(tabula rasa)。それは「文字が消された書板しょばん」のことである。何も書かれていない板、つまり、白紙と考えればよい。したがって、「これは白紙です」と言うつもりで、白紙にタブラ・ラサと書いてしまうと、この紙はもはやタブラ・ラサではなくなる。

白紙などどこにでもある。はじめから何も書いていない紙もそうだし、鉛筆で何やら書かれていた紙だが、ついさっき消しゴムで消したのなら、それも白紙である。「答案用紙を白紙で出す」などと言うが、答案用紙にはあらかじめ設問が書かれているからすでに白紙ではない。ぼくがここで言う白紙の状態とは認識論的な意味合いである。つまり、外界の印象を何も受けていない心の状態のことを表わす。


このことばを知ったのはディベート選手を卒業して、審査員に転じてからである。肯定側と否定側に分かれて議論する両者のいずれにも、議論が始まる前にくみしてはいけないのは当然の姿勢だ。偏見なき視点と言ってもいい。己の思惑や知識や価値観をすべてゼロにしてこそ、フェアな審査倫理がスタンバイする。白紙状態というのはこういうことである。

与えられた情報だけで判断する。情報が入ってくる前まで、対象となるものについての一切の知識を考慮の外に追い出す。知っていても知らないことにする。しかし、である。白紙はどこにでもあるが、脳内は真っ白ではなく書き込みだらけだから、すべてを消し去るのは並大抵ではない。いや、そもそもそんなことが可能なのだろうか。

当事者としてではなく、客観的に・・・・判断を下す者も人の子である。判断する立場にあるということは、判断される者よりも知識も経験も豊富であるに違いない。それらをゼロにして判断することが、それらを活用して判断するよりも公平であるという保証はない。少なくともぼくにとって白紙化はありえない。だが、白紙の状態に近づこうと努めることはできる。そして、それでよいのだと思う。タブラ・ラサとは公平精神を発揮するとの誓いにほかならない。

「類は友を呼ぶ」でいいのか!?

早朝からムクドリがうるさい。ムクドリはスズメ科で、スズメ同様に落ち着きがなくせわしげに四方八方に飛ぶ。わが家の窓辺に止まっては糞を残す。群れてはいるが、つぶさに観察すると、スズメには見られぬ激しい縄張り争いを繰り広げているのがわかる。わが町内ではスズメがムクドリによって淘汰されたかのようである。

Ogni simile ama il suo simile.

類は類を呼ぶ

イタリア語では類が類を愛するという言い方をするが、「類は友を呼ぶ」に相当する。類が集合している姿は群れを形成する動物に特徴的である。単独や孤立を嫌う人間もこの部類に属する。人間は他の動物に対しては霊長などと威張って優位に立っているが、大いなる自然の中にあっては弱者である。弱者のリスクマネジメント、あるいは一部犠牲の上に成り立つ種の保存という趣がある。


弱々しく群れているよりは、一匹狼のほうが、リスクが大きいものの、頼もしく見える。個体の区別ができない似た者どうしが「烏合うごうの衆」状態にあるよりも、清濁併せ呑むか玉石混淆の状態にあるほうが創造力が漲るし、社会的には健全なのである。

人は依然として類が友を呼ぶ構造から脱することができず、徒党を作り集団間で争いの種を蒔いている。マンネリズムや偏見や破滅もこの「同類同友」に起因する。同類同友であることの想像の欠如や退屈になぜ気づかないのだろう。リスクがないように見えるが、実はリスクだらけの構造なのである。

いきなり異類異友などという極論を唱えるつもりはない。だが、異類同友に一歩踏み出せないものだろうか。同類ならば、せめてどこかに一線を引く「時々異友関係」を築けないものだろうか。異種情報を組み合わせるほうが新しい気づきが生まれる。人間関係も同じである。同じ職場で同じ仕事をしていても異能や異脳であることはできるはずだ。類は友を呼ばないくらいの覚悟をしないと、人の個性などどこにも求めることはできない。

他人と違うことを考える

書くことと考えること」と題して書いてから三日間、考えることについて少し考える機会があった。

「考える」ということばの頻度は高い。企画書を見ながら「きみ、ほんとに考えた?」と聞けば、相手も「ええ、考えました」という具合。「よく考えよ」とか「深く考えよ」と言われて「はい」と答えているが、よく分かっているのか深く分かっているのかは分からない。それにしても、「広く浅く考えよ」とあまり言わないのは、考えることには深さが想定されているせいかもしれない。

考える人2

若い頃に考えることを意識するきっかけになったのはロダンの『考える人』だった。考えるというテーマの芸術作品に新鮮味を感じた。後年、あの作品名が元々『詩人』だったと知り、考えるは考えるでも高尚な哲学ではなさそうだと思うようになった。この作品は世界に30ほどあって、鋳造だからすべてオリジナルである。三年前、パリのロダン美術館の『考える人』をじっくりと見た。「前かがみ気味に座り顎に手を当てている時、人はまず考えてなどいないだろう」というのがぼくの結論である。


聴いたり読んだりする時に思いやイメージが巡る。話したり書いたりする時にも思いやイメージが動く。言語的行為が活発であることと頭の働きは関係している。だから、話しもせず書きもしていないこの考える人が、「沈思黙考」しているように見えて、案外脳内は茫洋としているだけかもしれないと思うのである。

さて、この考えるということ自体である。どこかに書いてあったことを読んだまま誰かに伝えても考えたとは言わない。中継したと言う。わからないことを調べた結果わかったとしても、まるで考えてなどいないし、読書しながら「うんうん、そうそう」というのも考えていない。なぞったり共感したりしただけに過ぎない。では、人と同じことを考えるのはどうか。同じことを考えるのに二人も三人もいらない。一人だけ考えていれば十分で、あとの連中は考えることなどなく、ただ共有すればいいだけの話である。二番煎じで考えることを考えるなどとは呼ばないのである。

考えることには独自性がなければならない。他の誰かと違うことを考えるということだ。その本質にはありきたりでないこと、場合によっては非凡や異端やアンチテーゼの特徴を備えていなければならない。他人が考えていることと違うことを考える……つまり、新しいことを、異なることを編み出す過程なのである。考えるとは、つねに「他人と違うことを考える」ことにほかならない。