万物の霊長も、カエルのことを「餌しか見えないやつだ」などと言えた立場にない。欲に目が眩んだり直近のものに強く反応したりするいう点では、両生類とぼくらの間に大差はない。両生類よりもすぐれた知力が備わっていても、欲が強くなる時、知の働きが鈍くなるのが人の常。
「知は力なり。とんでもない! きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力をふるう人もある」
(ショーペンハウエル)
知力あるいは理性が潜在的に備わっていても、顕在化するとはかぎらない……眼前の対象に右往左往していては力を発揮できない……知の多寡は現実の成果とは無関係である……ショーペンハウエルはこんなふうに言っているのだろう。ショーペンハウエルが槍玉にあげた「知は力なり」というのはフランシス・ベーコンのことばである。ここでの知が知恵なのか知識なのかという議論もあるが、ラテン語では“Scientia potentia est.”と表現されている。“Scientia”は「知識」の意味にとらえるべきなので、ショーペンハウエルの焦点の絞り方は妥当と言える。
ぼくが「ことばは力である」と言うとする。いや、実際にこれまでもよくそう言ってきた。これに対して「いや、あふれるような笑顔のほうが力だ」と誰かが反発する。いや、それどころか、ことばよりもハートだなどともよく反駁されたものである。もちろん言い返されて納得できれば主張を取り下げてもいい。ところが、ハートを持ち出す者から具体的な論拠を聞かされたことはない。論拠のない反論に耳を貸す必要などさらさらないが、世間には検証もせず議論もせずにハートのほうを容認する人たちが少なくない。
「ことばは力である」に反論するなら、そのことのみを否定すべきである。つまり、「ことばは力ではない」を反証しなければならない。「ことばよりもハートだ」というのは反論になり得ていないのである。同様に、「理性よりも感性だ」も理性の否定になっておらず、「きみがイケメンなら、オレもイケメンだ」も「きみがイケメンである」ことを揺るがしてはいない。幼い口げんかに過ぎない。
では、ショーペンハウエルのベーコンの「知は力なり」への反論はどうか。「とんでもない!」と強く反発しているが、「知は力ではない」と言い得ているだろうか。あくまでも「場合によっては」とか「人によっては」という条件付きになっている。知を力にできるかどうかは人次第であり、知そのものが他の要因を無視しては力にはなりにくい、という批評に留まっている。そして、完全否定などではなく批評ならば、知を力にするには何が必要かを提示してもいいはずだ。もっとも、こんなことをショーペンハウエルは百も承知である。
裏返せば、ベーコンの「知は力なり」も真に受けてはいけないということがわかる。「知は力になりうる」というほどの意味だ。一、二行だけポツンと言い放たれたり抜き書きされた、いわゆる名言や格言を読む時の最低限の作法を身につけておかねば浅い理解に終わってしまうのである。結論――「知はうまく使えば力になる。しかし、過信された知は無力である」。どうも冴えない結論だが、まあ、こういうことなのだろう。