他人と違うことを考える

書くことと考えること」と題して書いてから三日間、考えることについて少し考える機会があった。

「考える」ということばの頻度は高い。企画書を見ながら「きみ、ほんとに考えた?」と聞けば、相手も「ええ、考えました」という具合。「よく考えよ」とか「深く考えよ」と言われて「はい」と答えているが、よく分かっているのか深く分かっているのかは分からない。それにしても、「広く浅く考えよ」とあまり言わないのは、考えることには深さが想定されているせいかもしれない。

考える人2

若い頃に考えることを意識するきっかけになったのはロダンの『考える人』だった。考えるというテーマの芸術作品に新鮮味を感じた。後年、あの作品名が元々『詩人』だったと知り、考えるは考えるでも高尚な哲学ではなさそうだと思うようになった。この作品は世界に30ほどあって、鋳造だからすべてオリジナルである。三年前、パリのロダン美術館の『考える人』をじっくりと見た。「前かがみ気味に座り顎に手を当てている時、人はまず考えてなどいないだろう」というのがぼくの結論である。


聴いたり読んだりする時に思いやイメージが巡る。話したり書いたりする時にも思いやイメージが動く。言語的行為が活発であることと頭の働きは関係している。だから、話しもせず書きもしていないこの考える人が、「沈思黙考」しているように見えて、案外脳内は茫洋としているだけかもしれないと思うのである。

さて、この考えるということ自体である。どこかに書いてあったことを読んだまま誰かに伝えても考えたとは言わない。中継したと言う。わからないことを調べた結果わかったとしても、まるで考えてなどいないし、読書しながら「うんうん、そうそう」というのも考えていない。なぞったり共感したりしただけに過ぎない。では、人と同じことを考えるのはどうか。同じことを考えるのに二人も三人もいらない。一人だけ考えていれば十分で、あとの連中は考えることなどなく、ただ共有すればいいだけの話である。二番煎じで考えることを考えるなどとは呼ばないのである。

考えることには独自性がなければならない。他の誰かと違うことを考えるということだ。その本質にはありきたりでないこと、場合によっては非凡や異端やアンチテーゼの特徴を備えていなければならない。他人が考えていることと違うことを考える……つまり、新しいことを、異なることを編み出す過程なのである。考えるとは、つねに「他人と違うことを考える」ことにほかならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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