いつでもどこでも人は頑張れるわけではない。久しぶりにわが街の坂を自転車で上ると、太ももが言うことを聞かなくなる。もう少しの我慢だ、限界に挑戦せよなどと自らを叱咤しても、できないものはできない。8月初旬から続く毎週の出張でぼくの肉体はちょっと言うことを聞かなくなってきた。
体力だけにかぎらない。人はずっとまじめに勤勉であり続けることもできない。つい気が抜けて油断したり怠けたりしてしまう。ああ、また今日も無為な一日を過ごしてしまったと後悔もする。その後悔をバネに翌日は少し充実した一日にしようと意識を新たにする。
人間が本性的に勤勉であるのか怠け者であるのか……古今東西いろんな見方があったし、今もわからない。言うまでもなく、二律背反のテーマであるはずもない。ある時は勤勉であり、またある時は怠惰になる。後者が高じると無為徒食になり果てる。仕事もせず、何もせず、ただいたずらに時間を過ごしてしまう。一日の終わりに後悔すらしなくなる。
無為徒食と書くと、ワンセットのように放蕩三昧という四字熟語を連想する。ぼくの参照の枠組みがそうなっている。さらにアッシジの守護聖人でありイタリアの守護聖人でもあるフランチェスコ(1182? -1226年)につながる。聖フランチェスコはアッシジの裕福な家庭に生まれた。若い頃に放蕩三昧したあげく、神の声を聞いて聖職への道についた。どのような類の放蕩三昧かは知らないが、神の声を聞いたのはただの凡人でなかった証拠である。
神の声を聞けそうもないぼくたちは、どんなふうにして豹変できるのだろうか。過去に放蕩三昧した覚えはない。成人してからというもの、無為徒食とは縁遠い。そんな普通の人間が、願望があるにもかかわらず、それを実現しようと努力もせず、周囲の人たちや社会へのコミットメントを果たさない。やらねばならないと自覚して、しかし、先送りする。結果的に怠慢組の烙印を押される。
今週の週初め、大阪から鳥取に向かう車窓越しに辺鄙な風景に目を遣っていて、再びアッシジの回想が始まった。ローマから列車で北へ2時間、2000年に世界遺産に登録された聖地である。緑溢れる平野を抜けた丘陵地帯の小村、その自然の一部を大聖堂が借りているかのような風情であった。
Katsushi Okano
Assisi
2004
Pigment liner, watercolors, pastel