電話や訪問客に邪魔されずに考える時間を持ちたいと思うことがある。何かについて集中的に考えたい時に一人の時間を作ろうとするのは常套手段のように思えるし、実際にそうしている人も少なくないはずだ。はたして、一人のほうが思考がはかどるのだろうか。
いや、一人であるか複数であるかは問題ではない。一人であろうと複数であろうと、考えているつもりが、実は考えてなどいないことがほとんどなのである。考えようするだけでは記憶の引き出しは開いてくれないし、考えようとしているテーマに関連したアイデアもそう易々とひらめいてくれはしない。単にイメージが湧き何かが脳内でうごめいたような気がするだけである。手を、口を動かさずに腕を組むだけでは、思考はめったに起動しない。
では、いっそのこと調べよう。考えがまとまらないなら外部からの刺激を受ければいい? そうはいかない。情報が膨れてしまうと、まとまるものもまとまらなくなる。考えの芽を摘まんでしまうという、悪循環が始まりかねない。
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文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何の区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか。(小林秀雄「文学と自分」)
ここでの話は文学に限定されるものではない。ぼくたちは話す行為や書く行為以前に思考があると思っているが、その思考の明快性や輪郭が表現抜きでしっかりしている保障などない。言語は思考を前提としない。考えたことを話す、考えたことを書くなどという手順の胡散臭さに気づくべきだ。話す相手がいなければ書くしかない。書いてはじめて分かることがある。書くからこそ思考が触発されるということがある。考えることと書くことは一体であり同根なのである。
下手な文章を書いているときは下手に考えているのだと言われてみれば、思い当たることがあるだろう。その下手な文章に筋が通っておらず、語彙表現も適切でなく落ち着かない。もう一度推敲してみる。推敲しているうちに適所適語が見つかる。そうか、自分はこういうことを考えようとしていたのかということが、何度も書き直した文章を通じて見えてくる。