人間学について

カント『人間学』

カントの『人間学』に「認識能力における諸才能について」という項がある。才能とは天賦にほかならず、卓越した認識能力のことだと言う。どう学んで身につけるかなどという話ではない。「その人の生来の素質によるものである(……)それは生産的機知、聡明及び思惟における独創性(天才)である」と断定されてみると、凡人は無駄な抵抗を諦めるしかない。

うまくいく方法やよくなる方法を学びたがるのが人の常。しかし、そのような方法を学ぶのは容易ではない。学ぶべき要因が複数であり、しかも複雑に絡み合っているからである。成功要因が一つであることは稀なのだ。料理をおいしく仕上げる秘訣がたった一つでないのと同じである。他方、一つだけミスすればまずい料理が出来上がる。失敗要因は一つにして必要かつ十分な条件を満たす。

うまくいかなかったこと、悪くなったことの原因のほうが絞りやすいのである。成功要因は突き止めにくいが、失敗要因は見つけやすい。大いに反省して謙虚になれば、己の失敗要因も見えてくるだろうし、そうすれば同じミスを防ぐべく未然に手も打てるようになる。才能を磨き上げて天才に到らしめようとするよりも、せめておバカさんにならないよう努めるのが手っ取り早いのである。


冒頭の所見に先立って、カントは「認識能力に関する心の弱さ及び病気」について十数ページにわたって書いている。心の弱さや病気と言うよりも、性向に近い話であり、カントならではの様々な分析がおこなわれている。あらかじめ断っておくが、ぼくに差別的意図などはまったくない。本書の文中には今日的時流からすれば危なっかしい表現がいくつかあるが、カントに悪意があるはずもない。さて、そこに書かれているのは「ダメな人」の本質的特性についてである。

単鈍たんどん〔愚鈍〕とは、鋼のついていない包丁や手斧のように、何ごとも覚え込ませることのできない人、すなわち学ぶことのできない人のことである。単に真似だけの巧みな人が鈍物と言われる。

単鈍を「単純」と読み違えないよう注意。「たんじゅん」ではなく「たんどん」。覚えない・学ばない人をこう呼んでいる。A君はバカではないのに覚える気がない。Bさんは学んでいるのだけれど、学び方を工夫しない。学んでも身につかなかったやり方なのに、懲りずに今度も同じやり方をしている。C君はこれはまずいと自分で気がつくこともあるが、自己流で工夫するのは荷が重く、結局中身を伴わない型だけを模倣しておしまい。つまり、鈍物どんぶつ

遅鈍ちどんとは、判断力を持っていないために、用務に使うことのできない人のいいである。

D君を見ていて、判断力のない頭の良さなどはまったく役に立たないと思う。二者択一の岐路で悩みに悩み、ジレンマに苛まれた挙句、決断せずに岐路から引き返してくる。判断しようとした時間と労力だけが無駄になってしまう。優柔不断なEさんも、機械的マニュアル的な作業しか与えられず、臨機応変が求められる仕事を任せてもらえない。

馬鹿とは、無価値な目的のために、価値のある目的を犠牲にする人のことである。(……)馬鹿のくせに他人を侮辱的にするのは阿呆と呼ばれる。(……)おしゃれとかうぬぼれとか呼ぶことも、阿呆が利巧でないという概念にもとづいている。前者は若い阿呆であり、後者は年をとった阿呆である。

カントはズバッとものを言う人である。極論かもしれないが、当たっているのだから仕方がない。Fさんは誰が見ても右へ行くのが正しく、しかも賢慮良識の先輩がそのように助言しても、悩んだ挙句に左へ行く判断をしてしまう。G君はそのことを棚に上げて、他人の判断を小馬鹿にする。もっとも、阿呆は自分以上の阿呆を探さなければ立つ瀬がないから、そうするしか道はない。

A君からG君までの性向は誰の内にも潜んでいる。いったいどうすれば愚鈍、遅鈍、馬鹿、阿呆にならずに済むのか。この『人間学』を読んでも、現実の生き方に応用しなければ話にならない。人は人からもっとも多くを学ぶ……結局ここに尽きるのだろう。人の振り見てわが振り直すことから始めるしかない。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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