「こまめ」がわかりにくい

わかっているつもりなのに、実はあまりわかっていないのが「こまめ」。やわらかい語感と見た目に反して、癖の強い晦渋語の一つである。

こまめ(【小まめ】)とは、まずもって骨惜しみをしないことだ。まじめであり、何かに向かってかいがいしく行動している様子が見えてくる。しかし、「もっとこまめに何々していれば……」などと反省するにしても、その「こまめ」と「もっとこまめ」の違いがはっきりしない。

「熱中症予防にこまめな水分補給を」と言われてから、四六時中ちびちびと飲んだ人がいた。結果、こまめにトイレに行かざるをえなくなった。こまめの頻度と量は具体的に示しづらい。体調や暑さなど、人によって状況によって当然変わる。「30分ごとに」と言う専門家は飲む量を示していなかった。「1015分おきに一口か二口」という助言もあるが、炎天下で15分歩く時に上品な一口では足りないのではないか。


こまめから、面倒くさがらずに細々こまごまと注意したり気配りしたりする様子がイメージできるが、こまめの程度、つまり頻度や量については個人の判断に委ねられる。だから、かねてから水分補給の修飾語として適切なのかどうか気になっていた。

喉の渇きを覚えてから水を飲んでも手遅れ。それでは予防にならないらしい。しかし、喉が渇く前というのはある程度喉が潤っている状態である。「もっと水を!」と求めていない状態で口に水分を運ぶのは簡単ではない。それができるためには、生理的欲求まかせではなく、意識的に水分補給を習慣づけする、何らかの訓練がいる。

こまめとは「労をいとわない、かいがいしく行動すること」とある辞書に載っていた。そうすると、「こまめに」と「こまめな」に続く行為が必然絞られてくる。こまめに辞書を引けても、こまめに笑うことはできそうもない。こまめな水分補給は推奨されるが、こまめなアルコール摂取はよろしくない。

「なまものですので、なるべく早めにお召し上がりください」とは書いてあるが、「なるべくこまめにお召し上がりください」という注意書きは見たことがない。仮に書いてあったとしてもどう食べればいいのかわからない。だから、「なるべくこまめに水分補給をしてください」もやっぱりよくわからない。こまめの代案を考えてみようと思うが、今日のところは思い浮かばない。

巷で耳にしたつぶやき

リリー・フランキーの『誰も知らない名言集』のあとがきに、あのミスターがイチローに贈った色紙の話が出てくる。色紙にはこう書いてあったらしい。

野性のような鴨になれ
  イチロー君へ  長嶋茂雄

可笑しさが半時間ほど持続した。さすがのミスターである。不可解は名言の必要条件ではないが、見る者聞く者をしばし立ち止まらせ、稀に息を詰まらせ、そして余韻を残す。不可解であることは名言の格を上げるのだ。他意もなくつぶやかれることばはおびただしく、ほとんどが消えていくが、稀に名言や言として記憶に残る。

名言が吐かれる場面に出くわすことがあるが、周到に用意され練られたものばかりでつまらない。その場で即興的に発せられた名言というものをほとんど知らない。

名言には説明や経緯が欠落しているものが多い。説明を加えたり経緯を推理したりするのは名言を読んだり聞いたりする側である。名言を吐く者には、結実させたことばに至るいろいろな事情や理由があるのだが、そんなことは書かないし言いもしない。だから、おおむね名言は短くて、唐突で、不可解なつぶやきのようなのだ。


つぶやきが忘れられぬ迷言になった瞬間に何度か立ち会ったことがある。

「やっぱりバナナと卵と納豆だな」

唐突にバナナと卵と納豆である。しかも、けろりと「やっぱり」と言ってのけた。ミスターといい勝負ができる。朝食としてはこれで十分そうだが、発作的に朝食に言及したのかどうかはわからない。ここ何十年も物価上昇していない三品目だと気づいたが、つぶやいたのはぼくではないから、真意は不明のままである。気持ち悪いが、迷言を追及してはいけない。

「キャラメルボーイじゃないんだから」

一回り年上の大学の先輩。自分は常連客なのに、ママは一見さんの面倒ばかり見ている。「ママ、ぼくにも水割り売ってよ・・・・」と、いいオトナが突然甘え声で拗ねてみせた。「あら、気づかずにごめんね、ぼくちゃん。今すぐに作って売ってあげるから」とママ。先輩、さらに甘えてみせた。「ママ、ぼくはキャラメルボーイじゃないんだから」。二人とも芸達者だった。

「松坂は上手に年取ってるなあ。それにひきかえ、吉永は下手に清純だなあ」

雑談中にため息まじりにこれである。意味はわかった。一理あると思う。松坂は慶子であり、加齢しておとぼけができている。吉永は小百合であり、固着したクリーンなイメージから脱皮できないのは気の毒だ。清純というイメージを背負わねばならない品性は……などと分析しかけたが、そんなことはどうでもよい。きみ、なぜ今それを言わねばならなかったのか?

この季節の歳時

自宅の蔵書のほとんどをオフィスに運び込んでから2年が過ぎた。にもかかわらず、ほとんど本のない自宅の書斎で、時々がらんとした本棚に手を伸ばそうとすることがある。身についた習慣は条件反射的だ。

今月の初旬も自宅にはない一冊の本を探しかけた。金田一春彦著『ことばの歳時記』がそれ。かつて愛読していたこの本は、オフィスに移してから手にもせず捲りもせず。七月三日の日に、オフィスの書棚からさっと取り出した。どこに置いてあるかはわかっていたから。

前日の二日が「半夏生はんげしょう」で、翌日の四日が「雨男」。ことばの歳時記をヒントにして書き始めるには申し分のない見出しが立っている。ところが、三日のその日のことばは「お中元」だった。半夏生や夏男に比べると現実的である。やや物足りなかったが、お中元のことなどあまりよく知らないではないか。


昔、年寄りたちが「うらぼん」と言っていた。盂蘭盆うらぼんと書く。中元はその行事だ。正月十五日を上元じょうげん、十月十五日を下元かげんとして祝った。では、七月十五日あたりに佳節かせつとして中元を祝おうということになった。それが事の起こりらしい。

お中元と言えば贈り物。贈り物は歳時によって名を変える。正月には「お年玉」と呼び、年末には「お歳暮」という。病人を訪ねる時は手に「お見舞い」であり、別れる人には「餞別」を手渡す。どこかに行けば「お土産」を手にして帰ってくる。『ことばの歳時記』によれば、お土産を人にあげる時は「贈り物」と言い、自分がもらうお土産のことを「到来物とうらいもの」と言ったそうだ。初耳である。

オフィスでの打ち合わせを慎んでいるので、来客が少なく、したがって例年に比べて「到来物」を直接いただけない日々が続く。それでも、律儀な方々からのお中元が宅配でやって来る。この時世だけに、かたじけなさに涙こぼるる心境だが、受領印を押すたびに口元は緩む。そうそう、今日は珍しく直接いただいた。それは「到来」だった。

隙間の時間に二字熟語遊び

仕事が予定通りに進まないとストレスがたまる。無駄な時間もできる。ところが、無駄な時間を「隙間の時間」と言い換えれば、逆縁転じて順縁となる。隙間の時間は「ちょっとした時間」なので、物語性のある読書には向かない。AIソフトと早指し将棋一局ならちょうどよい。そして、今日のこの、相変わらずの二字熟語遊びも隙間向きである。

二字熟語アイコン#9

【中年と年中】
(例)元日に「中年」だと認識されたら、その年の大晦日も依然として「中年」だろう。そう、中年は「年中」中年なのである。

青年や老年は何となく見当がつくが、中年ほど曖昧な概念はない。壮年というのもわかりづらいが、30代~40代の働き盛りだと承知している。いや、40代の後半になれば中年と呼ぶべきか。手元にある辞書を数冊調べてみた。「50代半ば~60代前期」「40歳前後~50代」「青年と老年の中間の年代」。ますます混乱している。

【相手と手相】
(例)その占い師はろくに「相手」の顔を見ずに、ただひたすら手のひらだけを凝視して「手相」に性格と人生を見るのだった。

手相とは手のひらに刻まれた線であり、線が織りなす模様である。手のひらを見ると他人の運勢を告げたくなる人がいて、俗に占い師と呼ばれる。自分の手相でも誰の手相でも占えるらしいが、職業にするなら、わざわざやって来る客という相手の手のひらを見なければならない。

【奇数と数奇】
(例)「数奇」な運命を背負っている数字ではないのに、「奇数」を見ると、それがただ2で割り切れないという理由だけで落ち着かなくなる連中がいる。

どういうわけか知らないが、人間は81220だと落ち着き、91317を見ると心がざわつくらしい。奇数は数奇な何か――不運や不幸やかんばしくない転変――を連想させるのか。数奇の奇を「寄」に変えて「数寄すき」にすると粋で風流になるのだが……。

【始終と終始】
(例)「始終」と「終始」の意味は基本的に違うが、「いつも」とか「常に」という意味の重なりがある。

「一部始終」とは言うが、一部終始とは言わない。始終は最初から最後までのいろいろなコンテンツとそれらの流れを示す。他方、「終始一貫」とは言うが、始終一貫とは言わない。終始は最初の状態が最後までずっと貫き通されることである。
赤➔白➔黒➔青……と色の種類や変化を順番通りに示せば始終、ずっと赤➔赤なら終始。多色の始終、終始の一色である。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

句読を切る

もう35年程前の話。夜遅くに電話が鳴った。拙宅であることの確認の後に、神戸市の何とか警察署だと名乗った。いまキム・モンタナというアメリカ人がいる、もめごとがあった、夜も更けたので帰らせるわけにはいかない、聞けばあなたが身元保証人だと言う、それは間違いないか……」というような内容だった。

当時のぼくは勤め人で、海外広報の会社の国際部マネジャーをしていた。英文コピーを書くネイティブライターが数人いて、一応ぼくの部下だった。カリフォルニア州出身のキム・モンタナはその一人である。コワモテだが根はやさしい男で、広告文はあまり上手でなかったが、技術系企業のプロフィールになるといい文章を書いた。身元保証人ではなかったが、そういうことにして、翌日にひとまず解放するようにお願いした。

段落パラグラフのことで議論したことを覚えている。第一段落と第二段落は同じテーマを扱っているから一つの段落にすべきだと指摘したところ、彼は「それだと長すぎる」と言った。いやいや、段落は長いとか短いとかの見た目で決めるものではないと言えば、彼は「ちょっと長いぞと思ったら、息継ぎのつもりで変えればいいのさ。それが段落」とすまし顔をした。


あまりよく知らないことを聞かれると、ネイティブはプライドゆえかつい屁理屈を言うものだ。あの時、ピリオドとコンマはどうなんだ? と追い打ちをかけたら、それも息継ぎだと言ったかもしれない。しかし、後日、広辞苑で句読点(マルとテン)の説明を見て驚いた。「句は文の切れ目、読は文中の切れ目で、読みやすいように息を休める所・・・・・・」と書いてあったのだ。まるでキム・モンタナではないか。

あの「。」と「、」を句読点と呼ぶのを知ってからしばらく、どう考えても句点のほうが「、」で読点が「。」と思えてしかたなかった。文章の句だから途中に「、」を付け、読は読み終わりなので「。」を打つ。そのほうが「らしい」のではないか。ところで、句読点と言えば「付ける」か「打つ」だが、単に句読と言うなら「切る」である。句読を切るという言い方をしてみると、単なる息休めではなく、文に対する何らかの意思を感じる。息苦しくなったから、適当に「、」を打っているのではない。

田辺聖子のエッセイに「話はえんえんと続く、句読点もないままに」というくだりがあった。悪文ほど句読点が少ない傾向があるが、かつての古文などはそんなもの関係なく延々と書き綴ったのである。西洋の哲学者には数ページにわたって段落を変えずに書くスタミナ思考の猛者がいる。切るに切れないほど一本の線でものを考えているに違いない。

特に息苦しくなって息を継ぎたくなったわけではないが、これ以上続けるだけのネタもないので、ここで句点を打つことにする。

まいど! 二字熟語遊び

外出自粛してテレワークを! と言われるが、4月は一日たりとも休まず出社した。宣言に逆らっているわけではない。

理由は三つある。一つ目、幸いなことに間断なく仕事を受注している。二つ目、自宅からオフィスまで徒歩なら10分、自転車だと5分。電車通勤の密と無縁。三つ目、オフィスの仕事インフラに比べて、自宅には廃棄予定のWindows7のノートパソコンとのろまなプリンターのみ。在宅では仕事がままならない。

なお、得意先の発注担当者がテレワークゆえ、仕事がスムーズに運ばない。途切れて隙間の時間が生まれる。そんな時間には本を読んだりブログを書いたりしている。

二字熟語アイコン

【実名と名実】
(例)「実名」とは名のことであるが、「名実」は名と実から出来ている。だから「名実ともに」と言うことが多い。

仮名や偽名と二項対立の関係にあるのが実名。実名が名のことだからと言って、太郎や花子だけでは困る。実際の姓と名でなければならない。なお、「名実ともに」と言う時の名を匿名にすると値打ちがなくなる。

【身分と分身】
(例)社会の約束事に基づいて必要書類を取りまとめてどうにかこうにか「身分」を証明することができた。しかし、各種書類が自分の「分身」だとはとても思えない。

人間は身分や地位が高くなると足元が滑りやすいとタキトゥスが言った。その人間が分身の術を会得したなら、分身の方の身分や地位を低めにして、共倒れにならないように保険をかけておくのがよい。

【線路と路線】
(例)廃線でないかぎり、「線路」があれば「路線」の名前がついているはず。しかし、路線の名があっても、必ずしも線路が通っているとはかぎらない。

わが街ではメトロとバスの路線の重複を是正するために、バスの路線がかなり減らされた。バス路線を減らすのは簡単だ。バスを走らせなければ路線は廃止できる。

【類比と比類】
(例)筆を誤る弘法と木から落ちる猿は「類比」の関係を成すが、弘法大師は「比類」なき固有の存在なのに対して、猿のほうは特にこの猿でなければならないというわけではない。

一方が固有名詞で、他方が普通名詞なので、正確に言うと、ぴったりの類比ではない。「弘法も筆の誤り」に対しては、「忠犬ハチ公も飼い主を忘れる」というレベルの類比にする必要がある。

【空虚と虚空こくう
(例)いずれも何もない状態なのだが、「空虚」は価値や拠り所など心に関わり、「虚空」は物質や空間に関わる。

色も形も何もない空間を想像するのは難しい。しかも、それが久遠くおんに続くとなれば何がなんだかわけがわからなくなる。では、存在する中身や価値なら想像できるのか。こう問われると、それも心もとない。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

徒然なるままに二字熟語遊び

【出発と発出はっしゅつ
(例)緊急事態宣言が「発出」された。耳慣れない用語だが、これが事案終息への「出発」になることを願う。

『新明解』にも手元の類語辞典にも発出という見出しはない。別の辞書には類語として出発が挙がっているが、「緊急事態宣言を出発」と言い換えるには抵抗がある。よくわからないけれど、発令でもなく命令でもなく発布でもないから、発出なのだろう。

二字熟語アイコン

【作家と家作かさく
(例)ベストセラーで売れっ子になった「作家」には、書けなくなった時に備えて「家作」の一つや二つを所有している人がいるらしい。

家作ということばを知ったのはバンカースに興じた小学校低学年の頃だった。給料を蓄えて土地を買い、その土地に家を建てる。そのマス目に入った他のプレイヤーから家賃をもらう。当時のバンカースはある種の不動産ゲームだった。

【野外と外野】
(例)かつてはすべて「野外」でおこなわれていた野球。今では球場の半数以上が屋内ドームになったから、「外野」の守備に就いても空は見えない。

野外スポーツには自然現象に左右される妙味があった。外野手は風に悩まされながら捕球をするのが当たり前だったのだが、ドーム野球になってからは外野フライ捕球時のスリルが半減した。

【温室と室温】
(例)「温室」の温は、温度の温ではなく、あたたかいを意味する。これに対して、「室温」の温は、あたたかいの温ではなく、温度の省略である。

植物園の「温室」に入ると、真冬なのに大汗をかくことがある。熱帯ゾーンの温室では温度も湿度も年中一定だが、わが家の「室温」は年中変化する。

【陸上と上陸】
(例)「陸上」のある地点から別の地点に移動しても、「上陸」などとは言わない。上陸と言うかぎり、空か海から目指す陸地に到達するのである(参考:「ノルマンディー上陸作戦」)。

陸上の動物の起源は海という説が有力だ。好奇心のある動物が海から上陸して陸上に棲みついた。したがって、正確に言えば、海の動物はまず上陸動物になり、その後定着して陸上動物になったのである。陸上動物になった人間は夏になると海で泳ぎ、疲れたら上陸して陸上動物に戻る。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

午後二時の二字熟語遊び

どなたとも連絡が取りづらい今日この頃、仕事は間断なく流れてくれない。必然、時間ができる。時間のちょっとした隙間に駄文を綴って息抜きをする。息抜きで書く文章なので押しつけるつもりはない。午後二時にコーヒーを飲みながら……。

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数多あまたと多数】
(例)昔は「引く手『数多』」という言い回しをする年配者もいたが、いかにも古風である。最近の若者は「多数」、多くの、いっぱい、たくさんで済ませる。

『万葉集』に「鷹はしもあまた・・・あれども……」という長歌がある。「鷹にかぎれば多数・・いるが……」と現代語に訳すと雰囲気が出ない。数多をそのまま使って「鷹こそ数多かずおおくいるが……」とするほうがいくぶんこなれるかもしれない。

【色気と気色けしき
(例)「色気」は人の性的魅力に使われるが、「気色」は風景や気配の様子を表す。「気色だつ」とか「気色ばむ」と言ってもなかなか通じなくなった。

気色を「けしき」と読めない人が少なくない。また、「けしきの漢字が間違っていますよ。ではなくですよ。そう、景色」などと節介を焼いて平気である。

【学力と力学】
(例)「学力」は純然たる本人の実力だと思うむきもあるが、オトナ世界ではそこにも「力学」が働くことが稀ではない。

力学には様々な変種がある。学閥と派閥、贔屓、脅しや威喝……。最近とみに注目されるようになった忖度も力学の一つと見なされる。

【実現と現実】
(例)夢が「実現」することはめったにないが、「現実」だと信じていたことが夢まぼろしだと気づくことはよくある。

現実とは何かを考える上で、対義語である「理想」「虚構」「架空」の理解は絶対である。人は、理想や虚構や架空ではない現実に直面する。そして、気に入らなければ現実逃避する。しかし、実現は動的な変化を示す。誰もが実現機会に恵まれるとはかぎらない。

【取引と引取】
(例)荷物などの「引取」の代理をしてくれるという条件付きで、御社との「取引」を前向きに検討したい。

うまく行かない取引もあるが、本来は利益を生むための積極的な手段である。他方、引取はややネガティブだ。要らなくなったものや厄介なものなら、下取とほぼ同じ意味になる。しつこい人なら、早々にお引取いただきたくなる。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

表現のトッピング

本業として企画を生業なりわいとしている。企画は料理に似ているとつくづく思う。シェフや板前は料理の名称、素材、体裁、レシピを調理に先立って考える。その「設計図」を一皿に仕上げる。企画もそうだが、料理も「初めにコンセプトありき」。

いま作っている料理が何だかわからないなどということはありえない。中華料理人が酢豚か青椒肉絲かわからぬまま調理しているはずはないのである。昨日仕上げた企画のコンセプトづくりで四苦八苦したが、少なくとも何を創案してまとめようとしていたかはわかっていた。


想定した出来上がりの一皿を巧みに表現するのか、それともレシピづくりの時点で表現を捻り出して料理に反映するのか……。食される前に差異化しようとすれば、どうしても表現に頼らざるをえない。凝り始めると表現がどんどんトッピングされて、料理の名称は長くなる。フランス料理などはその典型だ。

昔は「親子丼」と言えば済んだ。しかし、独自性を出そうとすればそれでは足りない。素材の産地や品種による特徴づくりが欠かせなくなる。「〇〇産の地玉子を使った△△鶏のもも肉と魚沼産こしひかりの親子丼」という具合になる。必要ならネギの名称も詳しく。

ある日のビストロの料理名。

「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、シャンピニオンとアスパラガスのソテー添え、黒トリュフの赤ワインソース……」。

長い、長すぎる。しかし、その気になれば、もっと表現をトッピングできる。こんな具合に。

「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、フランス産シャンピニオンと北海道の朝摘みアスパラガスの青森県産ガーリックソテー添え、イタリア・ピエモンテ州の黒トリュフの赤ワインソース……」。

残念なことに、大仰な料理名に感動して食べ始めても、舌のほうが表現に見合った味を峻別するわけではない。

とまらない二字熟語遊び

数年前に『二字熟語で遊ぶ』を書いた。いくらでも思いつくので、その後に『続・二字熟語で遊ぶ』『二字熟語遊び、再び』を続けた。

今月に入って久しぶりに再開した。『久々の二字熟語遊び』『もっと二字熟語遊び』『今日も二字熟語遊び』と書いて、二字熟語で遊ぶのはさほど難しくないが、タイトルのほうが悩ましいことに気づいた。かっぱえびせんを食べながら書いた前回が『やめられない二字熟語遊び』。自然な流れとして、今回は『とまらない二字熟語遊び』になった。次のタイトルをどうするかは4月に入ってから考えることにする。

二字熟語アイコン


【川柳と柳川】
(例)その日は「川柳」の会でどう足掻いてもいい句ができなかった。小腹も減ったので熱燗で「柳川」を食って帰った。

柳川を食ったと言っても、人を食ったのではない。泥鰌どぜうの柳川鍋を食ったのである。柳川の食材は泥鰌に限らない。ゴボウと煮て卵とじにすれば、穴子でもシラスでも柳川風になる。鰻の頭なら半助だ。

【万一と一万】
(例)財布の中に数千円はあるのだけど、「万一」足りなかったら恥なので、悪いけど「一万」ほど貸してくれないか?

万一というのは、文字通り「万に一つ」であり、ほぼありえない時に使う。ほぼありえない場合に備えて貸してほしいとは……。しかも、万一の備えが一万なら、それこそ恥だ。「万一のいざという時のために100万ほど用意しておこう」なら釣り合いが取れる。

【過大と大過】
(例)「大過」なく定年まで勤めることができました。胸を張るような功績がないにもかかわらず、「過大」な評価をいただいたことに感謝申し上げます。

最近の若者は「過分なお言葉」などという表現を使って謙遜するのだろうか。過大評価されると申し訳なく思い、過小評価されては不満を漏らすのが人の常。過大と過小の差はかなり隔たっているが、両者の分け目は微妙である。

【出演と演出】
(例)あのドラマに「出演」していたキャストに一流はほとんどいなかったが、すぐれた「演出」のお陰で一流の作品に仕上がった。

一流か二流かはともかく、出演者がいなければドラマは成立しない。しかし、ドキュメンタリーにとって人間は不要不急である。構成・語り・音楽などの演出だけでいい番組ができる。

【間食と食間】
(例)その昔、うちの婆さんは3時のおやつを「間食」しながら薬を飲んでいたよ。そういう薬の飲み方が「食間」だと思っていたらしい。

ランチと夕食の間に間食してしまうと、食間の薬を飲むタイミングを逸してしまう。そもそも食間というのは曖昧に過ぎる。食前も食後もある意味で食間なのだから。食間を食事と食事のちょうど真ん中などと馬鹿正直に考えると、夕食と朝食の食間は深夜1時になりかねない。そうではない。食後23時間かそこらで胃が空っぽになるから、夕食後の食間の薬は10時頃に飲めばいいのである。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。