仕事が予定通りに進まないとストレスがたまる。無駄な時間もできる。ところが、無駄な時間を「隙間の時間」と言い換えれば、逆縁転じて順縁となる。隙間の時間は「ちょっとした時間」なので、物語性のある読書には向かない。AIソフトと早指し将棋一局ならちょうどよい。そして、今日のこの、相変わらずの二字熟語遊びも隙間向きである。
【中年と年中】
(例)元日に「中年」だと認識されたら、その年の大晦日も依然として「中年」だろう。そう、中年は「年中」中年なのである。
青年や老年は何となく見当がつくが、中年ほど曖昧な概念はない。壮年というのもわかりづらいが、30代~40代の働き盛りだと承知している。いや、40代の後半になれば中年と呼ぶべきか。手元にある辞書を数冊調べてみた。「50代半ば~60代前期」「40歳前後~50代」「青年と老年の中間の年代」。ますます混乱している。
【音波と波音】
(例)ロマンを感じさせる文系的な「波音」は、実のところ、水中を伝わる音として知覚される、理系的な「音波」という波動にほかならない。
ものが振動すると音波が生じる。音波は空気中や水中を伝わる。水中を伝わる音波が波音だ。波は音を連れて、押し寄せては砕け、そして引いていく。上田敏の訳詩集の題になっている『海潮音』もまた波音だが、洒落た響きがある。
【相手と手相】
(例)その占い師はろくに「相手」の顔を見ずに、ただひたすら手のひらだけを凝視して「手相」に性格と人生を見るのだった。
手相とは手のひらに刻まれた線であり、線が織りなす模様である。手のひらを見ると他人の運勢を告げたくなる人がいて、俗に占い師と呼ばれる。自分の手相でも誰の手相でも占えるらしいが、職業にするなら、わざわざやって来る客という相手の手のひらを見なければならない。
【奇数と数奇】
(例)「数奇」な運命を背負っている数字ではないのに、「奇数」を見ると、それがただ2で割り切れないという理由だけで落ち着かなくなる連中がいる。
どういうわけか知らないが、人間は8や12や20だと落ち着き、9や13や17を見ると心がざわつくらしい。奇数は数奇な何か――不運や不幸やかんばしくない転変――を連想させるのか。数奇の奇を「寄」に変えて「数寄」にすると粋で風流になるのだが……。
【始終と終始】
(例)「始終」と「終始」の意味は基本的に違うが、「いつも」とか「常に」という意味の重なりがある。
「一部始終」とは言うが、一部終始とは言わない。始終は最初から最後までのいろいろなコンテンツとそれらの流れを示す。他方、「終始一貫」とは言うが、始終一貫とは言わない。終始は最初の状態が最後までずっと貫き通されることである。
赤➔白➔黒➔青……と色の種類や変化を順番通りに示せば始終、ずっと赤➔赤なら終始。多色の始終、終始の一色である。
シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。