本業として企画を生業としている。企画は料理に似ているとつくづく思う。シェフや板前は料理の名称、素材、体裁、レシピを調理に先立って考える。その「設計図」を一皿に仕上げる。企画もそうだが、料理も「初めにコンセプトありき」。
いま作っている料理が何だかわからないなどということはありえない。中華料理人が酢豚か青椒肉絲かわからぬまま調理しているはずはないのである。昨日仕上げた企画のコンセプトづくりで四苦八苦したが、少なくとも何を創案してまとめようとしていたかはわかっていた。
想定した出来上がりの一皿を巧みに表現するのか、それともレシピづくりの時点で表現を捻り出して料理に反映するのか……。食される前に差異化しようとすれば、どうしても表現に頼らざるをえない。凝り始めると表現がどんどんトッピングされて、料理の名称は長くなる。フランス料理などはその典型だ。
昔は「親子丼」と言えば済んだ。しかし、独自性を出そうとすればそれでは足りない。素材の産地や品種による特徴づくりが欠かせなくなる。「〇〇産の地玉子を使った△△鶏のもも肉と魚沼産こしひかりの親子丼」という具合になる。必要ならネギの名称も詳しく。
ある日のビストロの料理名。
「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、シャンピニオンとアスパラガスのソテー添え、黒トリュフの赤ワインソース……」。
長い、長すぎる。しかし、その気になれば、もっと表現をトッピングできる。こんな具合に。
「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、フランス産シャンピニオンと北海道の朝摘みアスパラガスの青森県産ガーリックソテー添え、イタリア・ピエモンテ州の黒トリュフの赤ワインソース……」。
残念なことに、大仰な料理名に感動して食べ始めても、舌のほうが表現に見合った味を峻別するわけではない。