小題軽話(その3)

懲りずにノートの話  何かが気になるのは、その何かを覚えているから。脳やノートに手掛かりのある状態だ。しかし、たいていの事柄は「時限記録」。安物の感熱紙かホワイトボードに書かれた文字のように、いずれは消えるか消されてしまう。消えるのは思い起こしをしないから。消されるのは外部から刺激的な情報が入り込んできて取って代わるからである。インプットした情報は脳に永久記憶されるのではない。ノートに書いても、書いたことを即座に思い出すには別の能力がいる。「参照力」とか「引き出し力」のことだが、書いたものを何度も読み返し、書いた当時の思いを再生する以外にこの能力を維持する方法はない。

思い出し笑い  たとえば喫茶店で一人でいる時、自分が思い出し笑いをしていても気づきにくい。しかし、斜め向かいのテーブルの他人が思い出し笑いをしているのには気づく。思い出し笑いを観察する趣味はないが、一度見てしまったら、何度か視線を向けることになる。どうでもいいのに、なぜ笑っているのだろうか……と想像したりする。やがて気味悪くなる。しかし、もっと気味悪いのは「思い出し作り笑い」である。

強い意志!  すごい決意表明をした男がいた。「何が何でも決めたことをやり遂げる。これまでの悪習を排除して、日々小さな善行に努める。これは自分との絶対に破らない約束だ。これからは他人の模範となる存在として生きていく」。彼のことをよく知っている。三日坊主を絵に画いたような人物である。寒気がした。そして、ふと思った。「理念やビジョンを語るのに能力はいらない、ただ厚かましく意志もどきを表明すればいい」。

ブランドとブランディング  そもそもブランドとはすでに顧客が認めている価値ではないのか。長年にわたって共感や信頼を得てきたイメージではないのか。しかも、ほとんどのブランドは「ブランドとして認知されるように育て上げよう」などという戦略を立てたとは思えない。企んでブランディングした俄かブランドははたしてブランドなのか。うわべはそうかもしれないが、ブランドの体幹が違っている。正真正銘のブランドに注釈はいらない。余計なことを言ったり示したりしなくてもいいのである。

銅板と銅製品  「平たい銅版から銅製品が作られる」(A)と言えばわかりやすい。誤解の余地はない。しかし、この一文は銅にしか通用しない。銅以外の素材や製品にも使える表現はないものか。ある。「二次元の材料から三次元の造形をおこなう」(B)と言えばいい。Bの表現にはAに比べて抽象的で小難しいというケチがつく。このような概念的言い回しはとっつきにくいが、高次の知には欠かせない。Bは、Aにはもちろん、それ以外の諸々にも還元できるのである。

小題軽話(その2)

汽車か馬車か  旅するにあたって、アンデルセンは馬車よりも汽車のほうがよいと考えていた。常識的に考えれば、馬車のほうが旅情に溢れていると思うのだが、「汽車では旅情が失われるというのはウソだ」とアンデルセンは主張した。ぎゅうぎゅう詰めの馬車よりも汽車のほうが快適、しかも景色をよく見せてくれる、馬車は旅の時間を間延びさせているにすぎない……というのが理由だった。きっぱりと過去への未練を捨てたのが産業革命時代だったが、その一つの例かもしれない。

ジョークのマナー  「あの人はにこりともせず淡々とジョークを語る。クールだが、とっつきにくく、不気味でさえある」と評された男がいる(どちらかと言えば、ぼくも同類だが、その男はぼくではない)。彼の肩を持ちたいと思う。にこにこ笑ってジョークを披露するなどありえない。素人や安物の芸人ならやりかねないが、ジョークの達者な語り部は表情一つ変えない。過剰なジェスチャーもしない。それがマナーなのだ。

ジョークの役割  これはぼく自身の話である。講演や研修でコミュニケーションや思考、企画やリテラシーを扱う都合上、どうしても難解な術語が出てきたり硬派な講話に傾いたりする。少しでもやわらげるために笑話やジョークをはさむ。一種の糖衣効果、あるいは、話がやさしく聞こえるプラシーボである。しかし、後日よく言われることがある。「いやあ、核心の話はほとんど覚えていませんが、講義で聞いたジョーク、あちこちで使わせてもらっています」。

幸せは束の間  やせ細ったねずみが果樹園に小さな穴を見つけた。まったく苦労なく中に入れた。各種フルーツ食べ放題。その日からねずみは頬張り貪り、毎日腹いっぱい幸せいっぱいの日々を送った。ある日、ねずみは仲間のことが無性に恋しくなった。抜け穴から外に出ようとするが、すっかり太ってしまって穴を通れない。「元のようにスリムにならないと古巣に戻れないのか……」。ねずみはその日から一切フルーツに手をつけず絶食した。すっかりやせ細ったねずみは穴をくぐり、腹を空かせながら仲間の所に帰って行った。おしまい。

スイッチのON/OFF  オン/オフというのは切り替えである。仕事と休暇、気分、緩急、公私……どんなことにも切り替えが必要。誰かに命じられて切り替えるよりは、自らスイッチを操りたい。上手にスイッチを切り替えて他者に働きかけ、人間関係の中で生きていることをつくづく実感したい。ところが、最近感じるのだが、スイッチを持っているのにずっとオンずっとオフのままで、切り替えない人がいる。故障しているのに修理しない人もいる。そして、とても不思議なのだが、そもそもスイッチを持たない人が急増中なのである。

小題軽話(その1)

一つのテーマについて一応の筋道を立てて小文を書くのは、たとえそれが仕事ではなく、私的な慰みのブログであってもエネルギーを使う。頭が働かない夏場は特にきつい。と言うわけで、先月から整理していた過去ノートから断片メモを拾い、小ネタを肩肘張らずに扱うことにした。〈小題軽話〉という表題を掲げたが、この意図通りに書けるかどうかは不明。

すぐに気づかないダジャレ  書評会で立川談四楼の『もっと声に出して笑える日本語』を取り上げたことがある。実話をネタにしたダジャレや小話満載の文庫本。たとえば、クイズ番組でパネルの好きな番号を選んでもらったら、具志堅用高が「ラッキーセブンの5」と言ったという話。このおかしさにはすぐに気づく。しかし、次のはどうだろう。

面接官 「ところで、家業は何ですか?」
応募者 「カキクケコです」。

これ、文章を読むとすぐにピンとこないが、聞くだけなら「家業」と「か行」のダジャレに気づきやすい。笑わせる小話を文で綴るのはやさしくない。

星占い  いつぞやの水瓶座の今日の占いに「自分へのご褒美に少しぜいたくを」と書いてあった。大した仕事ができていない日々で、ご褒美などありえなかった。それに、休みの日ならともかく、平日に仕事の合間をぬってのぜいたくにどんなものがあるのか思い浮かばない。朝一番にこの占いを見ていたら、提案に乗ってステーキランチという手もあっただろうが、占いを見たのは夜も更けてからだった。今日の星占いは朝一番に見るもので、一日の終わりに見てしまっては後の祭りである。

悩んだらサイコロ  悩んだら、「えいやっ!」と答えを出せばいいと思うのだが、悩む人の場合はなかなかそうはいかないようである。答えが見つからないから悩む。正しい答えを出さねばならないと思うから決断が遅くなる。正しい答えではなく、納得する答えを選べばいいのに。とは言え、たとえばABの選択にあたって悩むのは、AにもBにも納得できず、第三の道も見つからないからだ。あるいは、ABの納得度が五分五分で踏ん切りがつかないということもある。限界まで考えても悩みが消えず、しかも時間が切迫してきたら、覚悟を決めてサイコロを振るしかない。このような助言をしたことは何度もあるが、そもそも悩む人は、サイコロを振るか振らないかで一から悩み始める。

記憶と世界  記憶力がよいのも良し悪しと言う人がいる。記憶が良すぎると嫌なことも覚えてしまって困ると言うのだ。記憶力の悪い人への慰めにすぎない。記憶力が悪ければ、嫌なことを忘れるが素敵なことも忘れるではないか。最近とみに、ぼくの周囲の四十代半ばを過ぎた面々に物忘れのひどいのが増えてきた。良きも悪しきも分別なく平気で忘れてしまう。本人に困っている様子はない。困るのは回りの人間のほうである。ぼくたちは過去と記憶で繋がっている。過去の経験や思い出は写真や記念品を介して甦ることがあるが、写真や記念品に頼らずに脳内で自力再生できる記憶力が重要なのだ。四十代で思い出しづらい兆候が出てくると、還暦過ぎる頃には危険である。記憶を通じてぼくたちは世界とも繋がっている。記憶が弱まり衰えると世界が見づらくなる。ここで言う世界とは、現在の仕事や私事、他人、日常生活、言語のことである。

断編残簡の日々

書くことについて気まぐれに考えて、本ブログでも拙文をしたためてきた。たとえば、二年前の1,000回の節目として投稿した書いて考えるなどがその一例。その中で、「拙く書くとは即ち拙く考える事である。書かなければ何も解らぬから書くのである」という小林秀雄の一文を紹介した。未だ拙く書くことしかできないぼくは、考えも拙いということになる。異論はない。しかし、それでもなお書き続けてきた。まさに「書かなければ何も解らぬから」書いてきた。

書くことによって――少なくとも書かずにいるよりは――自分が何を考えているのかに気づきやすい。腕組みして沈思黙考したり軽薄気味に喋ったりしている時の考えはおぼろげで、自分の考えのくせに摑みどころがない。ところが、書けば少しは明快になってくれる。書きながら、そうか、自分の考えていること、言いたいことはこういうことだったのかと、書く前よりも書いた後に考えの輪郭が濃くなっていることがある。

本ブログは20086月から始め、先月で丸九年になった。そして今日のこの小文が1,200回目の節目になる。自分が何を書いてきたか、もちろんだいたい覚えている。他人が書いた本を再読したくなるように、自分の書いた文章も読み返したくなる時がある。すぐには見つからないが、検索窓にキーワードを入力し、少々苦労してでも探し当てる。数年ぶりに再会する拙文を読んで、稀になかなかいいことを書いているではないかと自賛することもあるが、書き足りぬ不完全な文章、言わば断編残簡だんぺんざんかんを目の当たりにして道の険しさを知るばかり。もとより完全など目指していないが、何かが欠落している。文のみならず、考えも足りないのである。


一文すら書かずに過ぎゆく日々は、何も気づかず何も考えずに消え入るかのようである。だから、気づいたことはとにかく書く。少考したらそれなりに書く。拙い考えでも、書かないよりはいいだろうと思い、ひとまず拙く書いておく。生きるとは、呼吸して食事して働いて遊ぶなどの行為の寄せ集めでは決してない。生きるとは、他者と交わり、環境や季節や諸事・諸現象を感覚することである。ここに気づきが生まれる。気づくのはぼくであって、それは固有の体験だ。古来、高度な理性の持ち主は、気づきや体験を実に丹念に記してきた。

書く行為は文筆・著作の人たちだけの特権ではない。その気になれば、誰もが書くことができる。日々の感覚的体験を思うがまま書ける。ところが、書く人はいつの時代も少数派だ。だからと言って、少数派の習慣が特殊であり例外であると決めつけて退けるべきではない。誰もが吉田兼好になれるし、そのようになるほうが、おそらく生きることは何倍も愉快になるはずである。自分が何を考えているのかをはっきりさせたいのはもちろんだが、固有の気づきや体験を愉快に思うからこそ、書き続けられるのだろう。

文というのは書き始めてから書き終わるまで、思惑通りに綴れることなどめったにない。書き終えてうまく筋が通っていることもあるが、話があちこちへ飛んで乱れているのが常だ。それでも、何も書かずにぼんやりと考えているのとは大いに違う。文字にしてはじめて、考えと表現の間の落差が見えてくる。文と意を一致させること。ほとんど一致することはないのだが、一致させようとして書くこと、それがすなわち考えの深化につながる。考えていることを書いているのではない、書くから考えることができると実感するのである。

退屈な社交辞令

社交辞令そのものに別段忌まわしい意味はない。他人と付き合う上で社交辞令が不要だなどと言うつもりもない。しかし、下手をすれば心にもない舌先三寸になりかねず、度を越すと逆に礼を失するの患いを免れない。儀礼ばかりではなく、口には適度にまことのことばを語らせなければならない。

丁重であることと社交辞令的であることは同じではない。違いは説明しづらく、これはもう感じるしかない。丁重であっても友好的な空気を醸し出すことはできる。社交辞令はバカ丁寧かつ事務的であり、よそよそしさを匂わせる。丁重さと親愛の情や思いは相反しないが、社交辞令攻めに合うと親しさも本心も感じられなくなる。

他人に対して誠実であろうとすれば本心を語ればいいわけで、過剰なまでの社交辞令で相手を慮るには及ばない。もとより社交辞令は気遣いの本質とは似て非なるもの。人間関係において相手に敬意を表し、力上位を認めることは重要だが、社交辞令的になる必要はなく、丁重にお付き合いすれば済むことだ。自分に自信がない、仕事に物足りなさを自覚する、したがって不足分を社交辞令で補うという魂胆が見え隠れする。


社交辞令はずばり空言くうげんである。発する者はこちらの話をろくに聞いていない。話の内容よりも語気や調子に合わせているだけ。言っても言わなくても、人間関係の大勢に影響はない。

講演会に講師として招かれた時のことだ。「先生におかれましては、ご多忙中にもかかわらず、また足元の悪い中、遠路お越しいただき、貴重なお話をしていただけるとのこと、まことに感謝に堪えません」と司会者がぼくをねぎらった。ぼくは内心つぶやく。多忙なら来ないし、小雨で足元は悪くないし、電車に乗って地下街を歩いたから雨で困らなかったし、遠路と言われても、大阪から京都まで小一時間もかかってないし、それに、まだ話をしていないから貴重な内容かどうかわからないだろうし……。

いや、単刀直入に本題に入る前のアイスブレーク効果として社交辞令に出番があると言う人もいる。また、議論や対話の過熱をやわらげる潤滑油になるという意見もある。しかし、時間のムダを省きスムーズに事を進めたいのなら、余計な前置きを割愛して早々に本題に入るのが筋ではないか。百歩譲るにしても、社交辞令はその先にある何がしかの話のために必要なのだ。ところが、その話がそもそも存在していない。何も伝えるべきことがないから、沈黙の時間が社交辞令で穴埋めされるのである。

ぼくたちはことばで現実を生きている。ことばは扱いにくい。しかし、扱いにくさを克服して、事の本質をことばでえぐろうとする。社交辞令に依存するからまっとうな言語力が身につかないのだ。コミュニケーションで空気を弄んでいる暇はない。たとえ雑談であっても、定型文や陳腐な表現ばかりの会話でいつまでもごまかしは効かないのである。「きみ、いったい何を言いたいのか?」と言いたくもない質問を切り出さねばならない。

その場しのぎのためのことば、あるいは小手先の技として使われることばは不幸である。ことばの不幸は人の不幸でもある。いつも同じことばを形式的に使うのは想像力の貧しさであり、その貧しさは人の精神の貧しさでもある。相手を匿名ではなく、固有名詞を持つ人間として待遇しようとするのなら、人間関係のことばに真剣に向き合うべきだろう。

意味の一角

海面上に現れている氷山は全体の一部分、だから、姿を現わしている氷だけを見て氷山の全貌だと早とちりしてはいけない。このことは小学校で教わった。実物の氷山を調べてみるわけにはいかないので、コップに塩水を入れて氷を浮かべてみたことがある。たしかに……。一角が全体の約10パーセント、すなわち一角の9倍の大きさの氷が海面下に隠れていることを一度知ってしまえば、一角を以て全体を類推することができる。そして、その類推は正しい。

氷山の一角に倣って「意味の一角」と言ってみよう。一を知って全体を推し量るのが意味作用だから、決して異端的な発想ではない。ところで、どんなに言を尽くしても、ある概念のすべてを詳らかにすることはできない。辞書が列挙している用語の意味も用語の一部であって、決してすべてではない。氷山の一角と意味の一角に決定的な違いがあるとすれば、類推の精度である。氷山には数値化できる物理法則が当てはまるが、意味にはそんな法則はない。

意味の一角は人によって変化する。その一角から全体や本質を類推する作用も人それぞれである。「今きみに語ったことは伝えたいことの一角で、それは全体の50パーセントにも満たない」などと誰も言ってくれない。仮に数字で言ってもらってもどうにもならない。という次第で、一角をヒントにしながら、それだけでは不十分なので、読み手や聞き手のほうが知識や経験を用いて意味を補足する。これがコミュニケーションというものだ。この技術を手の内に入れるのは至難であるから、意味はめったなことでは明らかにならず、また確実に共有もできない。


「昆虫とは何か?」と問うことは、昆虫の意味を知ろうとすることにほかならない。『広辞苑』をひもとく。いきなり「①節足動物門の一綱」が出てくる。節足も綱もわかりづらい。いや、こんなことを知っても昆虫がわかったことにはならないだろう。続いて「②全動物の種数の四分の三以上を包含する」と書いてある。どうやら昆虫の種類は多いということらしい。念のために「昆」もチェックしたら「多い」という意味だった。昆にさんずいを付けたら「混」になる。なるほど。次の説明は「③体は頭・胸・腹の三部に分かれ、頭部に各一対の触角・複眼と口器、胸部に二対の翅(はね)と三対の脚がある……」。また、わからなくなった。ちょっと待てよ、これは確かに昆虫の定義だが、そもそもそういう共通の特徴を持つ動物群を昆虫と呼んだのではなかったのか。

ぼくとしては、②で折り合いをつけたい気分である。ジュール・ルナールは博物学者ではなく小説家だが、『博物誌』という書を著わしている。ルナールは言った。

「へび、長すぎる!」

なんとも痛快な意味の一角だ。こんなふうに昆虫の、(触角ではなく)一角を表に出してみるのも愉快である。

「昆虫、食べたい!」
変人でも変態でもない。わが国も含めて世界の一部の地域では、昆虫は食用的存在に見えているのだ。くどくどとした説明よりも見事に的を射ている。イナゴや蜂の子の未体験者は納得しないだろうが……。

「昆虫、キモチ悪い!」
もっともである。これを意味の一角にした人には広辞苑の①と③のような生体的分析は馬耳東風。一匹でもキモチ悪いのだから、群れを成すとチョーキモチ悪くなるはずである。

「昆虫、お友達!」
蚊やゴキブリを飼っている者は周囲にいない。しかし、カブトムシやスズムシをペットとして、いや、それ以上の親愛なる友として飼っている、いや対等に付き合っている人がいる。小学生の頃、梅酒を作るような大きな瓶に砂を入れてアリを飼ったことがある。友達という感覚はなかったが、観察対象として丁重に扱っていた。

「昆虫、重い!」
広辞苑の②に関連するが、昆虫は種類が多いのみならず、個体数をまとめると重いのである。どれだけ重いかと言えば、昆虫以外の動物――鯨、象、人間、その他すべての哺乳類、魚類、爬虫類、鳥類など――が寄ってたかっても適わないくらい重いのである。牛や豚や羊を食すためには育てなければならないが、昆虫には餌を与える必要はない。勝手に繁殖してくれる。「昆虫、重い!」という表わし方は、昆虫が無尽蔵の食糧であることを意味している。

諸々のコンビニ表現

一説  便利な表現である。「一説によると」などと書いてあると、他説のことはそっちのけで、妙に納得してしまう。たかが一説なのに、されど一説として説得力を増す。たとえばこんな具合。

「一説によると、アサリの語源は『あさる』が転化したものだという」。

どんな説がいくつあるのか知らないが、「一説によると」とあるだけで素直に受け入れる。この一説、真説か異説かもわからない。『新明解』の語釈㊁にあるように、一説は本来「ある説(意見・うわさ)」にすぎない。他説への言及がなければ、引用された一説を信じるしかない。一説は「排他的唯一説」としてまかり通る。

宝くじ  ことばの意味を掘り下げもせずに、安易に比喩が使われるケースがある。パーティーでのくじ引き遊びと宝くじはまったく違う。なのに、次のような比喩を耳にすることがある。

「こんなチャレンジをしても、宝くじと同じで、当たるか当たらないか分からない」。

「くじ引き遊びと同じ」なら、たしかに当たり外れがある。しかし、宝くじと同じというのは比喩間違い。別に確率論を持ち出すまでもない。宝くじは当たらないものと考えるのが現実的なのだから。「こんなチャレンジをしても、宝くじと同じで、当たらない」と言うのが妥当である。

一円  ぽつんと「一円」と言えば、生活上最小の貨幣価値のことである。ところが、一円にはもう一つ別の、「広い範囲にわたる様子」という意味がある。まったく意味が違うので混乱することはないが、次の例はどうだろう。

「全国一円 (株)ホワイトキャット急配」

再配送の煩わしさに戦略を変えざるをえない宅配業界にあって、このご時世に全国どこへでもたったの一円で配送とはありがたい……と読み違えて荷物を持ち込んでくる人がいないともかぎらない。

おかしい  反論や批判にはきめ細かな表現が求められる。しかし、勢いよく突っかかったのはいいが、止めを刺すのが「おかしい」では的外れにして期待外れである。

某野党党首は反対派の急先鋒に立って滑舌よろしく強いことばを吐くが、さてどこに落とし込むのかとお手並み拝見していたら、「……私は、これは、人として、おかしいと思います」で締めくくった。延々と理屈を並べてきて最後に「おかしい」はない。おかしいなどという表現でコメントする時は半分ギャグっぽく微笑むものだろう。いかめしい表情と口調には合わないのである。おかしいはコンビニ表現だが、この一言でそれまでの強弁の影が薄くなる。

四字熟語  初見であっても、漢字で書かれていれば雰囲気から何となく類推できる熟語がある。たとえば「危急存亡」に出合うとする。何となくではあるが、危険が迫っていて命にかかわりそうな場面のことだと見当がつく。とは言え、四字熟語は知識・教養であるから、知らなければ意味不明である。たとえ書くにしても、「跳梁跋扈」だの「臥薪嘗胆」だのという熟語は唐突に使わないほうがいい。

漢字が示されても難解なのが四字熟語だ。話しことばで使う際にはいっそう気をつけなければならない。何度も苦い経験をしてきた。前後関係や文脈にも留意して「けいきょもうどう」(軽挙妄動)、「いっしそうでん」(一子相伝)などと発してもほとんど伝わらない。「はくらんきょうき」(博覧強記)などは、「白乱狂気」だと誤解されたこともある。「たじょうたかん」(多情多感)ですらわかってもらえないことがある。四字熟語ももはやコンビニ表現と成り果てたかのよう。使う側には便利で心地よいかもしれないが、小気味よい音を響かせる割には雰囲気以外の意味はほとんど伝わらないのである。

「読み」と「意味」

日本語に特有のふりがな。機能と言うよりも「技」や「芸」と呼ぶにふさわしい。漢字には幾通りも読み方がある。文脈の中で読み方が変わり、それに伴って意味も変わることがある。誰もが漢字に精通していれば、わざわざ漢字の傍らに小さな文字のかなを振る必要はない。しかし、どんな漢字にでも精通することなどありえないから、ふりがなに出番がある。とりわけ使用頻度が低い専門用語で、初見で読めないような漢字には、読み手の便宜のためにふりがなを付ける。たとえば、哲学の術語である形而上学に「けいじじょうがく」、馬具の鐙に「あぶみ」と読み方を示すのは、書き手の配慮である。

専門語だけでなく、難読語にもふりがなが欲しい。葡萄牙に「ポルトガル」、麺麭に「パン」、心太に「ところてん」と書くとする。しかし、そんな漢字を使わずに最初から本文でポルトガル、パン、ところてんと書いておけば、ふりがなはいらないではないか。わざと難読語を使うのは衒学的に過ぎると指摘される(衒学的は「げんがくてき」と読み、知識をひけらかすことを意味する)。ところが、別に見せびらかすわけではないが、漢字表記が望ましいこともある。最近よく耳にする「瑕疵責任」などを最初から「かし責任」などとは書きづらい。かと言って、瑕疵では読めない人もいるから、「かし」とふりがなを付ける。

ふりがなだらけの文章は煩雑で読みづらい。できれば付けずに済ませたい。しかし、刑事を「けいじ」ではなく、「デカ」と読ませたい場合がある。あるいは、たとえば〈漢字読方〉という四字熟語を考案して、それを「ふりがな」と読ませたい。書き手自身はその造語の読み方にこだわりがあるからだ。さて、ここまで書いてきて、あることに気づく。ふりがなのお陰で漢字が読めたとしても、意味がわかったことにはならないという点である。瑕疵は「かし」と読むのだね、でも、どういう意味? ということになりかねない。ふりがなは読み方を手ほどきしても、意味までもカバーしていないことを書き手は心得ておかねばならない。


『愉快コンセプトへの誘い』と題して講演する機会があった。誘いは「いざない」である。まさか「さそい」と読まれるとは想定していなかったから、ふりがなを付けなかった。当日会場へ行くと、受付で式次第が配られていた。そのペーパーにはこう書かれていたのである。

『愉快コンセプトへのお誘い』

事務局は誘いを「いざない」ではなく「さそい」と読み、それでは聞き手に失礼だ、ここは「さそい」でなければならないと気を利かした。講師であるぼくには変更を告げなかった。余計なお節介をしてくれたものだが、不幸中の幸い、テーマがテーマなのでさほど違和感はなかった。これが『バロック音楽へのお誘い』では拍子抜けしたに違いない。

こういうこともあるので、誘の上に「いざな」とふりがなを付けておくのが無難だ。しかし、それはそれで、また別の問題が生じる。ふりがなを振るのは、読めない人が多く、読み違える可能性が大きいと踏んでいる証拠である。「倦まずたゆまず」と書いたものの、「うまず」と読めないのではないか……念のために、倦に「う」を付けておこう、というわけである。「須く」と書いて、須に「すべから」とかなを振る。いずれの場合も、そう読める人には蛇足でしかない。読めない人には蛇足ではないが、先に書いた通り、意味が伝わるわけではない。倦まずたゆまずが「飽きたり怠けたりせず」、須くが「ぜひとも」と理解してもらえる保障はない。

「紺のスーツはかれこれ10年近く着ている。よく持っているものだ」と書くとする。長持ちのことだから「持って」でいいが、所有という意味に受け取られかねない。辞書を引くと「もつ」という動詞の表記は「持つ」しかないから、やむをえない。しかし、ここでは「保って」と書いて「もって」と読んでほしい気分である。これは当て字だが、もしふりがなを振らなければ十中八九「たもって」と読まれる。「よくたもっているものだ」ではメンテナンスになり、意図と異なってしまう。結局どうするか。「よくもっているものだ」と最初からひらがなで妥協することになるのだ。ふりがなはよくできた発明だが、書き手にも使いこなす技と芸を求める。

劣化する表現

「劣化する表現」というテーマには二つの意味を込めている。一つは、時を経て実体とかけ離れ古びてしまった表現や、斬新な表現が生まれた結果、相対的に値打ちが低められた表現。〈時代錯誤的表現〉と呼べる。もう一つは、便利な利器を多用するあまり、意図とは裏腹に出現してしまう表現、あるいは手抜かりが生じて誤りを見損じてしまう表現。〈注意散漫的表現〉と名付けておく。


〈時代錯誤的表現〉の一例として、店舗が移転したのに、元の場所のテントや壁面に店舗名が依然として表示されている場合がある。情報だけがそのまま残っていて、そこに対象物は存在していない。また、名称が新陳代謝されないケースもある。ぼくの職住の場である大阪市中央区は、平成になって間もない頃の28年前に東区と南区が合併して誕生した。中央区に中央税務署や中央警察署はない。東税務署・東警察署、南税務署・南警察署が名前を変えずに昭和を引きずっている。旧住所のまま表札を掛けている古い民家も存在する。怠慢もあるが、やむをえない事情もある。

旅に出てホテルや旅館に泊まる。案内された新館が老朽化した建物だったりする。他方、本館のほうがリフォームされて新館っぽく見えることがある。別館なのに本館よりも大規模であることも稀ではない。建物が一つだけなら、たとえば「なにわ屋」でよい。商売繁盛してもう一つ建物が増えると、それを「なにわ屋新館」と名付ける。必然、最初の館を「なにわ屋本館」に改名する。本館と新館の次は「なにわ屋別館」だろうが、新館と別館の違いがよくわからない。そこで「なにわ屋東館」とか「なにわ屋南館」とかに変更する。何かが生まれると先に存在したものとの差異が必要になる。古いほうの表現を劣化させないためには、常に言い換えてやらねばならない。ことばとその解釈は相互関係で成り立っているということがこの例でわかる。ソシュール流に言えば、言語は差異の体系なのである。

年季の入った建物に、これまた年代物の看板が掛かっていて、その店の名が「喫茶 新北浜」だとする。「創業50年なので、そろそろ喫茶 旧北浜にでも変えるか……」などと店主は絶対に思わない。ずっと「新」を貫く。その強い意志が逆に店の古めかしさを際立たせる。新たなものはほどなく劣化し陳腐化する。時代の流れは絶えず、しかも元には戻らず……巷の店やモノは消えては生まれ、生まれては消え、久しくとどまらない。日々情報が更新されていると確信しがちなウェブ上でも、空き家や廃屋になったようなサイトが存在し、古い情報がそのまま残る。「20054月開催!」などという講演のお知らせが、2017年になった今も、過去形ではなく、近未来系のイベントとして告知されている。


〈注意散漫的表現〉のほうの劣化はもっと深刻である。昨今、ほとんどの人が手書きを経ずに直接キーボードを叩く。叩いてはしかるべき漢字に変換する。変換不要なものはローマ字入力しながら、画面上でカタカナやひらがなの文字を確認する。この写真のような案内で、同じ用語、特にカタカナが何度も出てくるとキーの打ち間違いをしても、文字の間違いに気づかないことがよくある。「erebe-ta-」とローマ字で入力しているうちに、一つ目の音引き(長音符号)を抜いてしまって、「エレベーター」の表記が「エレベター」になった。しかも二度繰り返した。そして、貼り出してしまった。表現の劣化は信頼性への不安を募らせる。

企画研修で、タカとワシを漢字で書けるかと尋ねたことがある。両方書けた受講生はほとんどいなかった。彼らは漢字の違いを認識できるが、正しく再生できない。手で書けなくても、「takawasi」とキーを打てば、それぞれ変換候補リストに「鷹、鷲」が出てくる。鷹ではなく「高」、鷲ではなく「和紙」を選ぶ人はいない。書けなくても正しい漢字を選べてしまう。書けても書けなくても、判別力に差は出ない。しかし、ニュアンスを嗅ぎ取るという点では表現の劣化は否めないだろう。

toru」とローマ字入力すると、いくつか変換候補が現れる。「とる」という基本動詞は客語に何をとるかによって、漢字を変える。取る、撮る、摂る、獲る、採る、盗る、捕る、執る、録る、等々。使い分けるのが面倒ならすべて「とる」と表記すればいいが、表意文字によるイメージ効果を出すには的確に選ばねばならない。ふだん実際に書いて使い分けている人なら、必然、別の誰かが書いた文章も深く読み取れる。

文章は単語の足し算や文法的配列によって綴られるのではない。単語どうしが、ある種の「縁」で結ばれて連語として機能する。よく本を読みよく文を書いていれば暗黙知のうちに身につくものだが、単語をローマ字で打って候補リストから適語を選んでいるような文章作法ではいかんともしがたいのである。

心の機微と表現

感情を型通りの形容詞で表わして事足りることがある。もう一工夫の余地無きにしもあらずだが、たいていの場合、ふとひらめいたことばでやり過ごす。他方、大雑把な感情表現では物足りなく、心の機微を何とかして紡いでみたいと思う時もある。しかし、溢れるほど豊かな表現群に恵まれているわけではない。あり合わせの語彙からやむなく一つ選ぶことになるが、書いた文章を読み返し、あるいは話したことばを振り返ると、言い尽くせていないもどかしさに苛まれる。さほど高尚でもないものの、複雑な思いがよぎるのは日常茶飯事。それを一言で仕留めるのは厄介である。

語彙増強という手段があるが、辞書で覚えてもことばが増えるわけではない。ことばは相互に依拠してネットワークを形成するので、単純に語数を増やして活用できるものではない。外国語の学習でさんざん味わってきたことだ。言語表現は知識であると同時に経験でもある。おびただしい場面で何度も聴き読み、ぎくしゃくして間違い、再試行を繰り返してようやく思いと合うようになっていく。但し、あくまでも「だいたい合う」ということに過ぎないから、表現の工夫や努力に終わりはない。

春に爛漫に咲き誇る対岸の桜景色を見て「美しい」と感嘆し、夏に向日葵畑の壮観を「美しい」と形容する。異なる景色なのに、どちらも美しいでいいのか。向日葵の群生に美しいという表現はふさわしいのか。気分と見ようによってはユーモラスと言ってみたい時もある。対岸の桜の美しさと和室の一輪挿しの美しさは同じではなく、厳密に言えば、観賞する者の心の機微は異っているだろう。


美しいという表現が万能でないことは百も承知だ。できればその時々の思いに忠実な言い換えをしてみたい。古いトラベラーズノートに走り書きした「美しいベルガモの城塞跡」というメモがある。いま読み返してみて落ち着かない。この風景は、美しいという一語に収束できない心象風景を描き出していたのだから。

心の機微をことばに置き換えるなどと言うのは簡単だが、モノとしての本を見て本と表現するのとはわけが違う。本はずっと本や書物と言い続けて問題はない。しかし、思いや感じることをいつも同じ表現で割り切っていると、心の機微のほうが粗っぽくなるような気がしてくる。語彙やことばの組み合わせが欠乏するとコミュニケーションに支障を来すのみならず、心の内の起伏や濃淡感覚を失いかねないのである。

「言葉の邪魔の入らない花の美しさ」こそを感じなければならないと小林秀雄は言った。花のみならず、風景にも人にも、間に合わせの表現を介入させてはいけないのだろう。書いてみて言ってみて落ち着かないのなら……美しいということばよりも感覚が捉えている美しさのほうが純度が高いのなら……いっそのこと黙っているのがいいが、黙ってそこに居合わせてただ体感だけするというのはなかなか厳しい。つい「美しい」と感嘆を洩らしてしまう。美を感じることには黙るという忍耐を身に付けねばならないのだろう。言い飽きた、聞き飽きたと感じた瞬間、心の機微を機械的に形容詞で表わそうとする惰性に流されず、じっと黙るか、さもなければ、ありったけの脳内辞書をまさぐってみるべきである。