退屈な社交辞令

社交辞令そのものに別段忌まわしい意味はない。他人と付き合う上で社交辞令が不要だなどと言うつもりもない。しかし、下手をすれば心にもない舌先三寸になりかねず、度を越すと逆に礼を失するの患いを免れない。儀礼ばかりではなく、口には適度にまことのことばを語らせなければならない。

丁重であることと社交辞令的であることは同じではない。違いは説明しづらく、これはもう感じるしかない。丁重であっても友好的な空気を醸し出すことはできる。社交辞令はバカ丁寧かつ事務的であり、よそよそしさを匂わせる。丁重さと親愛の情や思いは相反しないが、社交辞令攻めに合うと親しさも本心も感じられなくなる。

他人に対して誠実であろうとすれば本心を語ればいいわけで、過剰なまでの社交辞令で相手を慮るには及ばない。もとより社交辞令は気遣いの本質とは似て非なるもの。人間関係において相手に敬意を表し、力上位を認めることは重要だが、社交辞令的になる必要はなく、丁重にお付き合いすれば済むことだ。自分に自信がない、仕事に物足りなさを自覚する、したがって不足分を社交辞令で補うという魂胆が見え隠れする。


社交辞令はずばり空言くうげんである。発する者はこちらの話をろくに聞いていない。話の内容よりも語気や調子に合わせているだけ。言っても言わなくても、人間関係の大勢に影響はない。

講演会に講師として招かれた時のことだ。「先生におかれましては、ご多忙中にもかかわらず、また足元の悪い中、遠路お越しいただき、貴重なお話をしていただけるとのこと、まことに感謝に堪えません」と司会者がぼくをねぎらった。ぼくは内心つぶやく。多忙なら来ないし、小雨で足元は悪くないし、電車に乗って地下街を歩いたから雨で困らなかったし、遠路と言われても、大阪から京都まで小一時間もかかってないし、それに、まだ話をしていないから貴重な内容かどうかわからないだろうし……。

いや、単刀直入に本題に入る前のアイスブレーク効果として社交辞令に出番があると言う人もいる。また、議論や対話の過熱をやわらげる潤滑油になるという意見もある。しかし、時間のムダを省きスムーズに事を進めたいのなら、余計な前置きを割愛して早々に本題に入るのが筋ではないか。百歩譲るにしても、社交辞令はその先にある何がしかの話のために必要なのだ。ところが、その話がそもそも存在していない。何も伝えるべきことがないから、沈黙の時間が社交辞令で穴埋めされるのである。

ぼくたちはことばで現実を生きている。ことばは扱いにくい。しかし、扱いにくさを克服して、事の本質をことばでえぐろうとする。社交辞令に依存するからまっとうな言語力が身につかないのだ。コミュニケーションで空気を弄んでいる暇はない。たとえ雑談であっても、定型文や陳腐な表現ばかりの会話でいつまでもごまかしは効かないのである。「きみ、いったい何を言いたいのか?」と言いたくもない質問を切り出さねばならない。

その場しのぎのためのことば、あるいは小手先の技として使われることばは不幸である。ことばの不幸は人の不幸でもある。いつも同じことばを形式的に使うのは想像力の貧しさであり、その貧しさは人の精神の貧しさでもある。相手を匿名ではなく、固有名詞を持つ人間として待遇しようとするのなら、人間関係のことばに真剣に向き合うべきだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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