ことばのメンテナンス

平成7年から国語に関する世論調査を文化庁が毎年実施している。二十年分まとめて眺めてみてつくづく思う。日本人は日本語を意外に知らない……それでも、まずまず意思疎通し合えているではないか……語用や意味は長い歳月を経て変化すると思っているが、情報化社会ではメディアを通じて変化は加速する……。日本全体の母語認識を憂う前に、ことばの知識と使い方を定期的に自己診断する必要があるかもしれない。「整語」というメンテナンスだ。

平成18年に誤解・誤用が顕著だと指摘されたのが「流れに棹さす」だった。全年齢層にわたって多数が棹さすを「逆らう」や「止める」の意に解している(「時流に逆らう」「調子を止める」など)。実際に川の流れに棹さした経験があれば分かるが、棹はすっと流されていく。棹どころか身さえ流されていく。棹一本ごときで流れが止められるはずがない。したがって、「大勢のままに動かされていく」というのが正しい意味になる。意志が働かないさまにも使える。夏目漱石の『草枕』の冒頭、「智に働けばかどが立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」の傍線部は、「情にほだされると自分の意志を失う」ということだ。

大勢が逆の意味に解釈しているのに、その慣用句を使っていいものか。使っても誤解されるのならその慣用句を避けるべきではないか。いっそのこと誤用を承知の上で使ってみるか。いやいや、誰かに誤用だと指摘されればそれこそ情けない。言うまでもないが、正しい意味と使い方を知っているなら、心得ている通りに使うべきである。ぽつんと「流れに棹さす」と言うだけでは不親切と思うのなら、直後に「つまり」や「たとえば」でつないで言い換えたり補足したりすればいい。


自分が無知側に振り分けられることも少なからずある。四十にして誤っていて、五十にしてやっと正しく知った慣用句や語句をまめにノートに記録してきた。様々な表現に出合って「へぇ、そんな意味だったのか……」と思ったらその場ですぐに辞書に当たる。中年以降の国語力アップにはそんなまめな経験量が欠かせない。たとえば、「灯台もと暗し」の意味を知ったのは平成2年に読んだ一冊の本に遡る。灯台を港の海際に建つ灯台だと思っていた。しかし、いわゆる西洋灯台が導入される前からこの表現は常用だったのである。この灯台は、ろうそくを立てる燭台などの「灯明台とうみょうだい」のことだ。部屋ゆえの明暗が象徴されているから風流である。

『徒然草』は十代から何度も読んでいるが、第十九段中のあることばの本来の意味に気づいたのは十数年前のことだ。

をりふしの移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今ひときは心を浮きたつものは、春のけしきにこそあめれ。鳥の声などもことのほかに春めきて、のどやかなる日影に、かきねの草もえいづるころより、やや春ふかくかすみわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、をりしも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。

日影と日陰

「のどやかなる」とあるから勝手に日影を「日陰」と読んでしまっている。兼好の時代の古い用法ではない。日影の意味は今も同じで、「日の光、陽光、日なた」である。「のどやかなる日影」とは「うららかな(明るい)陽射し」のことなのだ。対して日陰は「ものの陰になっていて日が射さない場所」である。同じく「ひかげ」と発音するが、漢字は使い分けられる。この写真の光景のように、日影と日陰は一つの空間にたいてい同時に現れる。

「始末」という表現は、実に始末に負えない。「立派な人間は始末に困る」という文に出合ったら、ふつうは辻褄が合わぬと思うだろう。『南洲先生遺訓』によく似たくだりがある。

命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。されども今様の人の凡俗の眼には見得られぬぞ。

傍線部の仕末は「始末」に同じである。「始末に困る」とは始末に負えないという意味ではない。「(金、地位、名誉などに見向きもせず)志を貫けること」である。つまり、始末に困る人とは立派な人間のことを指す。こんな上等な表現は使ったことがないので誤用経験もないが、まったく逆に解するところだった。ちなみに、始末に困る人の対義語は「始末のつく人」である。表現と意味を何度か反芻して理解できるようになった。しかし、生兵法は大怪我のもと、自ら使うのはやめておこう。うまく使えても意味が通じそうな気はしない。ところで、この始末については古本市で買った里見弴の『文章の話』という本で知った。恥ずかしながら、今年の夏のことである。

多義語と万能語

英語の動詞で多義語の最たる単語はおそらく“get”である。手元の辞書には他動詞、自動詞合わせて24もの意味がある。ちょっと待てよ。日本語で表現すると24通りの表現に置き換わるのに、英語圏の人たちは”get“という一通りの表現で押し通しているではないか。彼らは”get“が他の単語と結び付いて文脈の中で変化する意味を経験的に感知する。膨大な英文を読んだり聴いているうちに繊細な意味を読み分け聴き分けることができるようになった。何か別のことばにいちいち置き換えなくても分かる。これをニュアンスが分かると言う。

英語を外国語として学ぶぼくたちの場合も、大量の実例を「コーパス」として累積していけばネイティブ並みのニュアンス感知力が身に付く。理解という点ではこれで何の不自由もない。しかし、そのニュアンスを英語を知らない人たちと共有しようとすれば、日本語に置き換えなければならなくなる。ここに翻訳という仕事の苦労が生じるのだ。ネイティブが”get“からそのつどニュアンスを感じればいいところで、翻訳者はそのニュアンスの違いを日本語で表わさなければならない。ゆえに、24通りもの日本語表現が英和辞典に掲載されることになる。


party

ハロウィンのパーティーと(英語で)言う時の「パーティー」は一義ではない。ためしに英語の辞書で“party”を引いてみる。どんな辞書にもおおむね四つの意味が挙げられているはずだ。〈1.パーティー 2.政党 3.団体(一行、一団) 4.(誰々の)相手;(第三者的な)人たちや関係者〉。 ざっとこんなところである。たとえば、ハロウィンのパーティーの「パーティー」が、1.のお祝いをする会か2.の行列集団であるかは詳しく状況を知らないと判断できない。

英語の“party”は多義語なのである。おもしろいことに、日本語の食事会、懇親会、コンパ、飲み会、二次会などはすべて“party”でまかなえる。この意味で万能語でもある。どうしてももっと具体的に表現したいのなら、 party”というふうに「~」をトッピングすればいい。「~」の箇所にはcocktailteawelcomeなどを入れればよく、日本語の「~会」と同じような役割を果たしてくれる。ぼくたちはパーティーということばからハレの大規模なものを連想しがちだが、英語では、小はそれこそ三人の女子会でもいいし、大は2.の政党主催による何千人規模のホテルでの新年会でもいいのである。

ついでに、“party”の語源を遡ってみよう。予想通りラテン語に辿り着いた。現代イタリア語で「出発する」を意味する“partire”と同じ綴りの古語は元々「分ける」であった。ここからイタリア語の“partito”(政党)と“parte”(部分)が派生した。ラテン語の語幹である“pars/partis”はちゃんと英語の“party”において「分けたもの」「分かれたもの」という痕跡を残している。

ここでふと思い出す。沢口靖子が友人を自宅に招くパーティーシーンのコマーシャルである。おもてなしの食事はクラッカーのリッツ。そのリッツにいろいろな食材をトッピングする。お呼ばれして行ったら、すべてリッツ! たとえその上に贅沢なキャビアやフォアグラが乗せられていても、ぼくならがっかりする。あのコマーシャルを見るたび、少々呆れ、少々小馬鹿にしていた。

しかし、もうお分かりだろう。あれでいいのである。なぜなら、“party”とは本来「分ける」ことなのだ。分けるのだから、小ぢんまりと分けてもよく、分けるものがクラッカーでもローストビーフでもいいのだ。自宅での数人だけの女子会であってみれば、たとえリッツ攻めに遭わせても友人に文句を言われる筋合いはない。リッツを万能食材として扱っているように、多義語も万能語なのである。

魂と脳に響くことば

ある程度時代に同期しないと困る仕事だから、新しい話題にも一応の目配りをしている。自力で目配りできないことも多々あり、時事や流行に強い若い人たちの話に耳を傾けて不足を補う。しかし、二十歳過ぎの人と六十年以上生きてきたぼくとでは、リアルタイムの最前線情報の比重は同じではなく、したがって受け止め方が違う。受け止め方の比重には年齢に応じて20分の160分の1程度の開きがある。分子と分母を上下に分かつ括線の下では歳相応の経験と知識が集積している。中身の質を度外視すれば、分母の量は最前線情報の分子の比ではない。

最近よく70年代~80年代のノートやカードを振り返る。ナルシズムに浸るためではなく、その時々の時代をどう生きてきたかを振り返るためである。記憶だけでなく記録に痕跡を求めようというわけだ。当時書いたものを読んで気づくのは、文の論理以前に直観や感覚によって対象に心が動く様子を表現しようとしていることである。現在の文章に比べると、二十代、三十代の時のほうがよく対象を見て心的作用を描写できているような気がする。

今は筋を追いかけて、前文と当該文と次の文をつなぐよう――そこに展開する考えが一貫するよう――書くことを意識する。線で概念を綴ろうとしている。その代償として、個々の点としての対象の摑み、その対象について生起する感覚がおろそかになる。描写や比喩から「執念」が消えている。感じる瞬間の昂ぶりを極力押さえているから、理性がまさって概念に傾く。とは言え、大局的に物事を眺望できているとしても熟成味が増したことにはならないだろう。要するに、叙述することに不熱心になり、他者を意識した理屈っぽい説法が多くなったにすぎない。普遍を求めて情趣を失しているとすれば、まだまだ拙い証拠である。


新書の帯のことば

書店で手に取った新書の帯のキャッチフレーズに「魂がふるえる言葉がここにある。」とあった。これはぼくへの示唆か。なるほど、二十代、三十代はそんなことばによく出合い、テンションが上がったものである。今は脳にも響くことばでなければ残らない。もっとも、経験を積むにしたがって感じることから分かることへ変移するのは当然だ。経験が少ないからこそ断片的なことばに感じ入る。しかし、経験が上乗せされるにつれ、ことばそのものについて考え、ことばで考えようとしなければならない。魂がふるえるだけでは物足りないのだ。脳にも響かなければ感覚も理性も次なる上の閾値に向かわない。

ずいぶん前に抜き書きして、時々読み返す文章がある。金田一京助の『片言をいうまで』である。樺太アイヌ語を採集していく実際の場面が鮮やかに描かれている。単語を覚えてアイヌの住人に披歴したある日のこと……。

私と全舞台との間をさえぎっていた幕がいっぺんに切って落とされたのである。さしも越え難かった禁園の垣根が、はたと私の前に開けたのである。ことばこそ堅くとざした、心の城府へ通う唯一の小道であった。きょ成って水到る。ここに至って、私は何物をもためらわず、すべてを捨てて、まっしぐらにこの小道を進んだのは、ほとんど狂熱的だった。(傍線岡野)

傍線部の表現は魂を揺さぶるに余りあり、そして文脈を視界に入れて再読すれば脳にも響く。ともすれば面倒くさそうにコミュニケーションで済まそうとする姿勢への戒めになってくれる。

もう一例を挙げる。「人間は考える葦である」は『パンセ』の中でパスカルが紡いだ有名なことばだ。この格言だけをぽつんと切り離し、さも魂を揺さぶられたかのように満足している人がいる。そして、文脈を読み取ることなく、この格言だけを斟酌して何となく「人間は弱い存在」だと感じている。そんなことを言うために、パスカルは人間を葦にたとえたのではない。この名文句が登場するくだりをそのまま読んで脳に響かせてみればいい。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在である。だが、それは考える葦である。人を押し潰すために宇宙全体は武装するには及ばない。蒸気でも一滴の水でも人を抹殺するのに十分である。だが、たとえ宇宙が人を押し潰しても、人は人を抹殺する存在よりも尊い。なぜなら、人は自分が死ぬことを知っており、宇宙が自分よりも優位であることを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることにある。われわれは、われわれが満たすことのできない空間や時間からではなく、考えるということから立ち上がらなければならないのである。よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある。
(傍線岡野)

魂が揺さぶられても一過性で終わりかねないことは誰もが経験している。これぞということばは、記憶し思い出してこそおこないの糧になる。もう一度繰り返す。ことばそのものについて考え、ことばで考えようとしなければならないのである。

言語の五技能

他に適語が見つからないので、一般的な「技能」という用語を使っている。機能や働きでもいいのかもしれないが、分かりやすさと語調の良さから技能を選択した。言語学者ソシュールは、言語をシニフィアン(能記=記号表現)とシニフィエ(所記=記号内容)に分けて言語の本質に迫った。今回はそれとは違って、言語活動面から五つの技能について考えてみる。

言語の五技能

五技能としたものの、まずは四技能から話を始めよう。ぼくたちは、ことばを音声にして話し、音声として聴く。音声を用いない時は文字にして書き、文字として読む。これらの〈話す・聴く・書く・読む〉の四つの技能は、表現と認知に分けることができる。すなわち、話す・書くという表現系技能と、聴く・読むという認知系技能である。

知っている語彙は、認知はできるが使えないものと、認知も表現もできるものとに分類できる。たとえば、「渺渺びょうびょうたる」が果てしなく広いという意味であることはわかるけれども、会話や文章で自ら使うことがない場合、これは認知語彙ではあるが表現語彙になりえていない。認知語彙はつねに表現語彙を含み、表現語彙よりも多い。だいたい〈認知:表現=3:1〉と言われている。ところで、知識や経験は表現のための原資と言うよりも、他者が話し書くことを認知するために用意されるものだろう。ある程度知らなければ、また、ある程度類推を働かさねば、ぼくたちは他者のメッセージを理解できはしない。表現というのは、知識や経験の多寡とは関係なく、その気になれば、知っている範囲内でこなせるものである。千語もあれば話すことはできるが、千語程度では他人様の言うことや書いていることはよく分からない。


これら四技能の関係図の上に「考える」という技能を加えて五技能としてみると、言語と思考のつながりが見えてくる。四技能はいつでもきちんと機能するわけではない。必ず誤作動を起こす。言い間違い、書き間違い、聴き間違い、読み間違いである。ところが、考え間違いというのは自分も他人も気づきにくい。なぜなら、思考という技能は他の四技能に比べて共通項が少なくパターンが多いからである。つまり、個別であり多様なのだ。では、どんな時に考え間違いに気づくのか。書いてみて気づき、他人が書いたものを読んでみて気づくのである。音声の技能だけでは思考の精度を見極めにくいのだ。議論でディスコミュニケーションが生じやすいのも頷ける。

「考えていることを文字で表わせばいい」とまことしやかに語られるが、ぼくはここに書いている文章のようにあらかじめ考えているわけではない。書こうとしていることが頭に浮かびはしているが、それは輪郭のない茫洋としたものである。書かずに考えることがないわけではない。しかし、「言語的に思考していること」と「いまここで書いている言語的表現」はまったく同じではない。考えていることはここに書いているほど明快ではなく、また、考えている時の語彙は文章を綴っている時の語彙ほど豊かではない。書くという表現行為によって、思考に形を与え、考え間違いを検証し修正していくのである。

思考することが表現をもたらす温床であり細胞核であることを認めるにしても、考えていることを紙の上に単純に書き写しても文章の体を成すことはない。書かなければ考えたことにはならないとまで極論しないが、ほとんどの場合、書いてはじめて思考はその姿を現わす。書かなければ、考えるということは実に摑みどころのない虚ろな状態にとどまる。腕を組んで考えても、その考えはひ弱で無定形な感覚の域を出て来ない。ぼくの主張に説得力がなければ、最後に次の一文を参考にして考察していただきたい。

思考が、言葉となったり他人に伝達されたりする際のわずらわしさを避けて、ただ自分に対してだけ存在することに満足してしまっていたら、そんな思考は生れるや否や、たちまち無意識に陥ってしまうだろうし、自分に対してさえ存在しないということになってしまうだろう。」
(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)

語らないと始まらない

事実に反すると知りながら虚偽を語ることは好ましくない。もし事実に反していることが自明で、しかもそのことを弁じたければ、手っ取り早く創作として仕上げればいい。事実に反することが許容され、しかも責任を負わなくていいのが創作の利点だ。はなから虚構が担保されているのである。これに比べれば、自論を語る責任のほうは重い。事実であるか事実に反しているかもわからない、また、事実の解釈にも二義性がありそうだという場面に必ずぶつかる。さあ何を語るかと遅疑逡巡した挙句、つい慎重を期して黙することになる。こうして意見を言わない小心者や保身家ばかりが増える。

ギリシアについて、安保について、専門家と言えども知悉して論評しているわけではない。極端に言えば、誰もが一部の事情通なのであり、限られた既知から推論して意見を述べているにすぎない。知が「ある程度」に備わるまで口を開かないのなら、生涯意見を開示する機会はやって来ないだろう。言論の自由、表現の自由があるのだ、「程度」を低めに設定しておけばいいのである。ほんの少し分かれば、その小さな知識に自分の経験を照らし合わせて推論する。馬脚が露わになって知識不足や論の甘さを指摘されることになる。しかし、このことは問題であるどころか、テーマを深読みし別読みする機会を与えてくれるのだ。問題を引き起こすのは、対話を成り立たせている批評・検証・反論に耳を貸さず、不十分な知見をひたすら守ろうとする姿勢のほうなのである。

対話

浅い考慮かもしれない、視野も狭いかもしれない、しかし、考察途上でそのつど意見を構築する習慣と勇気を持たねばならない。さもなければ、世論の大勢や影響力のある人物の意見に棹差すばかりで、思いもよらぬ方向に流されていくことになる。自論というのは、基本が変わらなくても形や強度が変わるものである。変容のきっかけの大半は、異種意見の論者との対話を通じて生まれる。二者間の対話においては知識に格差があるのが常である。下位の者が格差を恐れていたら、いつになっても上位の者に挑発的議論を挑めない。しかし、対話は知識と論考の合戦である。往々にして論考は知識の多寡よりも優勢になりうる。


対話において話し方がうまいなどということは決定的ではない。つまらぬことを流暢に――あるいは扇動的――大言壮語してもしかたがないのである。話し上手などと言うけれど、何を以て「上手」なのか、誰も決められないだろう。そんな当てのない上手の幻想に縛られず、日々の経験の内に熟成させてきた語りたいことと語るべきことを語ればいいのである。もっと正確に言えば、精細な自論が最初からあるはずもない。あるはずもないのに、事前に丸暗記して人前で再現してみせるのは学芸会だ。学芸会に表現と演戯はあっても、伝えることにまで意識は回らない。あどけない子どもたちのパフォーマンスには拍手を送ろう。しかし、一人前の人間が、そこに居合わせる相手に眼差しを向けることもなく、今しがた覚えてきたことをあたかも独言のように再生し、それを対話と呼んで知らん顔するならブーイングである。

つぶやくように自分の心理を吐露するXがいる。つぶやくXからは他者への視点が抜け落ちている。Xのことばは対話に求められる伝達や説明の機能を失う。下手なりにも意味を明らかにしようとする情熱のかけらもない。共有と交換という対話のていを成していない。対話をしないのではなく、対話ができないのである。自分が次に何を語るかに気を取られて、人の話など聞いていないのである。聞かなければ、その時々にしかできない、打てば響くような反応ができるはずもなく、応答はつねに的外れになり、ことばがだらしなく虚ろな表情を見せる。言語を自然学習して事足りると考える風土で対話が育つはずもない。

吐露するだけのことばに描写力は宿らない。論理は不毛であり、説得力も芽生えない。他者に向かって語られていないXのことばに傾聴する忍耐が揺らぐ。Xの自分だけに捧げることばは色褪せ、やがて他人を退屈させる。思考交流としての対話と居酒屋の泣き言・戯言との違いがわからぬX。ぼくの周囲にもあなたの周囲にもXがいる。対話から逃げるXは、早晩〈言語エイジング〉という症候群を患う。言語からの脱却なら悟りだと見立ててあげてもいいが、言語の劣化以外の何物でもない。言語エイジングが晩年の最大の不幸だと言う自信はないが、不幸の一つであることは間違いない。

文体とイデオロギー

いきなりイデオロギーなどと書き出すと怖気づく人がいるが、恐がるほど難しいカタカナ術語ではない。まず、ぼくたちは判断や行動に先立って考える。これはいいだろう。状況を見ながらそのつど考えることもあるが、拠り所となる体系があっておおむねその枠組みで考える。このような体系は個人的なものではなく、生きている時代や集団的慣習、支配的な思潮によってほぼ形作られる。マルクスはこのイデオロギーを社会階級固有のものとして考えたわけだ。たった一人だけのイデオロギーなど聞いたことがない。イデオロギーは集団的な観念体系なのである。

あるイデオロギーが生まれて浸透する背景には集団を成す人たちがいる。思想や政治に限った話ではない。観念であるから必ずしも不変ではない。また、流行とも無縁ではないので、一過性のつながりのはずのミーハー的グループでもイデオロギーは生成される。生成されはするが短命に終わるのが常であるから、また別のイデオロギーに取って代わられたりする。業界用語や専門用語を口癖のように交わす企業集団にもイデオロギーは根づく。常套的な共通言語で意思疎通する異業種交流会もイデオロギーの匂いをプンプンさせている。あまり好きな匂いではないが、だいぶ嗅がされてきた。

文体とイデオロギー

集団内の言語はイデオロギーによって色付けされる。主義や流派が似ていれば話法や文体、語彙も似てくるものである。1970年前後の学生オルグなどはメッセージも表現も似たり寄ったりだった。オルグに励む当事者たちはそのことに気づきにくい。たとえばエゴイストだらけの集団では、一人称による主観的な主張が幅を利かせる。日本語に主語はいらないと言われるが、話の中身をよく聞けば隠れた主語が自ずとわかってしまう。主語が言明されていなくても、「思う」と言えば一人称で話しているのと同じ。一人称で綴り始めると構文はある程度限定され、よく似た内容や表現が生まれやすい。


文末を決定する動詞を工夫すればいろいろな変化も可能だという意見もある。しかし、いったん「私」を主語にして思いや体験、心象を述懐したり他者に伝えたりしてみればわかる。たいてい「思う」「考える」「感じる」などで終えるしかない。そして、「私は……と思う」という構文で文章を綴れば、同一イデオロギー内では「……」に入るメッセージもたいてい同じになる。私小説などはこんなふうに綴られる。ある日常について「私が感じ思うところ」を書けば、動詞が制限され、名詞を形容詞で修飾するようになり、毎度毎度よく似た文体の文章を綴ることになる。少し礼を尽くした手紙の場合も同様で、時候の挨拶や社交辞令を安売りするような定型文でしたためられる。

文体がイデオロギーを醸成し、イデオロギーが文体に影響する。読み書きのリテラシーとイデオロギーは不可分の関係から免れにくい。関係を切り離したければ、人称や動詞の音読み・訓読みのバランスを取り、文章は長短を織り交ぜ、重文や複文にも踏み込んでみる。要するに、あの手この手でアヴァンギャルドなスタイルを試みるしかない。

ところで、ぼくたちは理解し考えることを書く。理解し考える内容は読んでいる本と強く関わっている。読むリテラシーが高まってくると様々なジャンルの本でも手の内に入ってくる。しかし、どんなジャンルの本を読もうと、底辺の観念体系は似通ってくるものだ。「いろんな本を読んでいる」と胸を張っても、知らず知らずのうちに特定イデオロギーのお気に入りばかりが増えてしまうのである。こうして、イデオロギーゆかりの文体も一緒に身についてしまう。誰もがこうなるわけではないが、人生も半ばを過ぎてしまったら、このほうが楽になる。

同一著者の本だけを数年単位でまとめて読んでみると、著者の文体が自分の文章スタイルの中に徐々に忍び込んでくることがわかる。名文家の書物を読めと先人たちが勧めてきたのは、文体の刷り込みがおこなわれることの証にほかならない。先に書いたように文体は観念の形成と無縁ではない。読み慣れた文体を通じてイデオロギーが徐々に自分の内に浸透してくる。あらゆる刷り込みや洗脳というのはこうして深化していくものなのである。このことを是とするか非とするかは自分で決めるしかない。

「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当てよう」(ピエール・ド・ラ・ゴルス)が成り立つなら、「君の読む本が君の文体でありイデオロギーである」くらいは朝飯前に断言できそうである。

殺し文句のダウンロード

「殺し文句」という言い回しは今ではほぼ一義的に使われるようになった。相手の心を引きつける巧みな表現という意味が主流である。殺しとは物騒だが、ほろりとさせたり「グッときた」と思わせたりすること。どちらかと言えばニュアンスは肯定的だ。「彼のその一言は彼女にとって殺し文句になった」と言えば、「彼女にアピールした」という意味になる。

しかし、殺し文句の本筋の意味は、英語の“killer”がそうであるように、「抹殺」に近い。行動や判断を束縛することば、固定観念を植え付けてしまうことばなのである。殺し文句は他人のみならず、自分自身にも良からぬ影響を及ぼす。つぶやき続けると、知らず知らずのうちに「参ってしまう」。ほろりと参ってしまうのではなく、にっちもさっちも行かなくなって参ってしまう。

只管朗読の効果をいくつかの外国語学習で経験してきたぼくである。ひたすら文章を音読すれば語彙も文章の構造も身につく。唇が、舌が、口腔内から咽喉にかけての筋肉が言語を覚え、ひいては全身に語感が響くようになる。だから、ことばが不思議な力として作用すると言われる念仏効果を単なる霊的なものであるとして退けることはできない。もし念仏に有効性があるのなら、自らに向かって日々ネガティブな殺し文句を繰り返し発していると、考え方や行動に好ましくない形で刷り込まれていくことは容易に想像できる。

殺し文句のダウンロード

ことばに真摯に向き合えばわかることだ。一方で、己を励ましてくれることばがあり、また嫌な気分を浄化してくれることばがある。それなら逆に、気分を滅入らせ行動を不活性にする殺し文句があって不思議はない。このことに気づいておけば、そんな危ないことばの出番を制限できる。しかし、常用が癖になると正常な精神作用が蝕まれていく。いったんダウンロードしてしまったら蔓延し続けるウィルスソフトのようなものだ。


たとえば、「未熟ものです」とか「まだまだ学びが足りません」などと謙遜しているつもりなのに、これらの軽いことばが劣等感を徐々に強めていく。やがては熟練し学び遂げるまでは行動しないという習性が宿り始める。あるいは、「できるかぎりのことはしました」とか「時間と努力が足りませんでした」などの口癖は、明けても暮れても言い逃れする人間を仕立て上げてしまう。軽い気持ちから発していても、「別に急がなくても」や「もっとよく考えてから」などは先送り人間のパターンを形成する。ぼくの知り合いは「リスク、トラブル、批判」を怖れるあまり、それらを避ける防御線をいつも張り巡らしていた。その結果、すっかり引っ込み思案の臆病者になってしまった。

上記のようなことば遣いがまさか……と思うかもしれないが、実は、十分に殺し文句の資格を満たしている。負の念仏効果、恐るべし。気がついた時には取り返しがつかなくなっている。悪しき口癖が、偏った考え方や非常識的な行動を招く。フランシス・ベーコンは、歪んだ判断や思い込みのことを〈イドラ〉と称し、人間誰しもが陥りやすい4つのイドラがあると指摘した。

その一つが〈市場のイドラ〉である。市場とは人々が集まり交わる社会もしくは集団と考えればいい。そこではことばが飛び交い、検証不十分のまま文字面の表現が鵜呑みにされる。事実無根の噂が流れ、流れた噂に自分が流され惑わされる。やがて自らの内に偏見や先入観を培養することになる。

言語は知である。ベーコンも「知は力なり」と言った。つまり、言語は力なのであるが、他方、使い手次第では負の力となって思い込みを深めることがある。「口は災いのもと」などという意味ではなく、悪しきことばを繰り返し常套句として使っているうちに、自己暗示や洗脳が起こってしまうのである。ならば、良きことばを使えばいいということになるが、これは短絡的な発想である。うわべだけの「やればできる」も実力を伴わない「頑張ろう」も、その気にはなるだけで行動が空回りという結果になる。これらは「褒め殺し文句」になりかねない。なにげなくつぶやいている日々のことばが性格をかたどる。人に告げることば、自らに言い含めることばに責任を持たねばならないのである。

諺に関する諺

諺、金言、格言、箴言しんげん……いろいろな類義語がある。このようなことばで呼ばれる名言は無尽蔵だ。知らないことばが多すぎるとこぼすに及ばない。知らなくても困ることはないのだから。

句に出合えば考えのヒントになり気づきを促してくれるきっかけになる。下手な考え休むに似たり。オフィスにも自宅にもそれぞれ十数冊の辞典や書物を備えていて、よくひも解いている。最近ではウェブでもかなりの程度まで検索できるので、わざわざ座右に本を揃える必要もなさそうである。

それにしても、諺、金言、格言、箴言などのニュアンスの違いが鮮明ではない。諺がおよそ土着的で日常生活的な教訓だということは承知しているが、金言と格言の線引きがむずかしい。たいていの辞典では生き方や真理や普遍らしきものを唱えるものとしており、金言と格言の意味がかなり重なっている。格言のうちゴールドメダル級を金言と呼んでおくことにするか。なお、箴言は、金言や格言のうち、戒めの意味合いの強いものと考えればよい。

諺と石碑

古代に遡ってみれば、石に刻まれた文言にもいろいろあって、公的なメッセージ性の強い内容もあれば、PRや宣言文もあるし、当時の時事記録もある。ひっくるめて呼ぶなら「碑文」と言うしかない。石に刻まれてこそ、パピルスに書いてこそ、格言・金言となって後世に伝えられた。口伝くでんのみのリレーではこぼれ落としてしまっただろう。わが国にも稗田阿礼と太安万侶以前に名言もあったと推測するが、いかんせん、そらんじるだけでは記録は残りづらかった。


適当に辞典を繰って「諺に関する諺」を調べてみた。金言、格言、名言などをキーワードにするとかなり増えるが、諺だけに限定したら、ぼくの検索の技では十指にも満たなかった。いくつか抜き書きして少考してみた。まずはポジティブなもの。

諺は一人の才知、万人の知恵。(ラッセル)
諺は民衆の声、ゆえに神の声。(トレンチ)

多くの諺を発信源まで遡ることはできない。無名の誰かがつぶやいた後に広まったか、民話のように人々の間で語り継がれたか、そんな感じなのだろう。二つの諺には帰納推理という共通点がある。おそらく個別で特殊だったものが一般普遍としての価値を得た。万人の知恵、神の声とは力強い。他方、ネガティブなニュアンスのものもある。

諺は言い訳にならない。(ヴォルテール)
諺は蝶に似ている。蝶を幾匹か捕らえても、他のは飛び去ってしまう。(ヴァンダー)

「急いでくれと言ったのに、遅かったじゃないか!?」と文句を言ったら、相手が「急がば回れを忠実に実行したんですがねぇ」と諺を盾に取って言い訳をする。遅くなったのは諺の仕業じゃないから、当然本人を咎めるしかない。諺は万人の知恵か神の声かもしれないが、社会規範の上に君臨する法ではない。それに、複数の諺を対比してみれば、相容れないものが必ず出てくる。ある諺に従うと別の諺に背くことになるのである。ヴァンダーの言う通り、いくつかの諺を座右銘扱いすると、他の諺への意識が希薄になることもある。

時機にかなえば、諺はいつも耳を傾ける値打ちがある。(プラウトゥス)

古代ローマ時代の作家のこの諺がもっとも古い。条件付きでポジティブ、条件が落ちたらネガティブという例である。耳を傾ける値打ちがあるのなら、行動指針にしてもいいはず。但し、チャンスやタイミング次第というわけだ。いつでもどこでも誰にでも絶対ではない。時機にかなっているかどうかと自分で斟酌しなければならない。

明けても暮れても「石の上にも三年」などと胡坐をかいたり、「酒は百薬の長」とほざいて連日飲み明かすのも考えものである。諺は字句通りに実践するものではなく、己の言行や考えをチェックする素材と見るのがいい。ケースバイケースの付き合いをする分には、諺は味わい深いと言っておこう。

アルファベットスープ

シリア中部の世界遺産パルミラをイスラム過激派組織“IS”が制圧したという。ローマ帝国時代にもかなりの破壊行為が繰り返された地域である。いま再び人の手による崩落の危機に瀕している。

自ら「イスラム国」と名乗り、また他者もそう呼称するのは誤解を招き、イスラム世界にとっては寛容しがたい。そのことに関係諸国もマスメディアも同調してイスラム国(Islamic State)をアルファベットの頭文字で“IS”と表わし「アイエス」と呼ぶようになった。このやむをえない対処によって、ぼくの感覚も変化した。依然として数々の蛮行が繰り返されるにもかかわらず、アイエスと呼び換えることによって、憤りの感情が変容した。対象がぼやけてしまい、無機的かつ中性的になってしまったのである。

ここでシニフィアンとシニフィエを連想する。シニフィアンとは「表わしているもの」。記号表現のことだ。「ペン、pen」という文字の記号であり、音である。シニフィエとは、そのシニフィアンによって「意味されているもの」、すなわち記号の内容である。実際のペンであり、頭に浮かぶペンのイメージである。イスラム国というシニフィアンがアイエスに置き換えられても、シニフィエとしての過激派組織の実体が変わるわけではない。しかし、名は実体のイメージに影響を及ぼす。アイエスはイスラム国のイメージを無味な記号的存在にしてしまった。初めて「アイエス」を耳にする者にとってはマイルドでさえある。

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アルファベットスープ

アルファベットをかたどったビスケットがある。パスタもある。パスタはスープに入れて食べる。これを「アルファベットスープ」と呼び、アルファベット語圏の子どもたちには人気の料理だ。ばらばらの26文字から3文字や4文字で単語を綴ってスプーンに並べる。たわいもない仕草だが、形状がすべて同じ粒パスタとは違って、食べる愉しみが少しは膨らむ。

アルファベットスープと題された小見出しが“Ogilvy on Advertising”に載っていて、著者のデヴィッド・オグルビーが次のように書いている(拙訳)

どんな事情があるにせよ、頭文字で略した社名に変えてはいけない。IBM, ITT, CBS, NBCなどについてはすでによく知られている。しかし、いったいどれだけの人が次の社名にピンとくるだろうか? AC, ADP, AFIA, AIG, AIM, AMP, BBC, CBI, CF, CNA, CPI, CEX, DHL, FMC, GA, GE, GM, GMAC, GMC, GTE, HGA, IM, INA, IU, JVC, MCI, NIB, NCP, NCR, NDS, NEC, NLT, NT, OPIC, TIE, TRW, UBS.   これら37社はこの名で広告を出稿している。一般に浸透するのにどれだけの年月と費用がかかることか。無駄遣いである。

BBC, GE, GM, NECなどはわかる。しかし、他のほとんどは単なるアルファベットの組み合わせに過ぎず、無意味な記号に見えてくる。ぼくの会社の英文名は“ProConcept Institute Corporation”だが、単語のイニシャルを並べると“PCI”になる。固有性が消えて匿名になる。どこにでもありそうな乾いた名前になる。何の会社かわからない。そして、何の会社かわからないアルファベットを正式社名に変更する企業が多いのである。かつて社名を頭文字に略して3文字で綴るのが流行したせいだ。

企業風土も理念も表現できないこのようなアルファベットスープ的な社名は、子どもの気まぐれなお遊びに似て恣意的である。論理が抜け落ちてしまっている。今年に入って何人かのコンサルティング会社の人たちに会ったが、いずれもアルファベットカンパニーであった。何という会社か、まったく覚えていない。親密性がなく記憶に掛かりにくければ関心が薄れる。ISで鈍らされた感度に近いものを覚える。

ある「否定形の案内文」

ゼノンの論証のパラドックス。現実にありそうもないことを、さもありうるかのように論証する試みである。走ることが遅い者は、速い者よりも前を走っているかぎり、追いつかれず抜かれることはない……なぜなら足の速い者が遅い者がいた時点に着く時には、遅い者はすでにそこから先に行っているからである……というパラドックスがその一つ。

そんなもの一気に追い越せるではないかという反論をしても、ゼノンは言う、「足の速い者が追い越すためには、足の遅い者がすでに通過した地点にまず達しなければならない……しかし、その地点がどこであろうと、足の速い者が着いた時点で、足の遅い者は必ず少しでも先に行っているはずだ」と。

電光掲示板、アキレスと亀

上記のパラドックス物語を競演するのが「アキレスと亀」である。どんなに足の速いアキレスでも、いったんのろまな亀にハンデを与えたら最後、永久に追いつけない。先月関東に出張した折り、そんなゼノンのパラドックスを想起させる文言に出合った。東京駅の山手線ホーム、電光掲示板の電車案内文がそれである。

終点まで快速に抜かれません。

この普通電車は快速に抜かれない、それはちょうど亀がアキレスに抜かれないのと同じである……。まさか。


これは書かれた日本語である。決して声に出してみる日本語ではない。こういう文章を見ると、こう書かざるをえない事情があったのかと穿うがった見方をしてしまう。「終点にはこの電車が先着します」と肯定文で書かないのは、快速以外に別の何かが先着するからだろうか。あるいは、この電車と快速のどちらが早く終点に着くでしょうかというクイズに対する正解発表なのか。つまり、この電車は快速に抜かれないので、終点に着くのはこの電車です、というつもりか。

「次に6番線にまいります電車は……」とか「次の列車は……」に慣れているぼくには、「今度6番線にまいります電車は……」や「今度の列車は……」に違和感を覚える。それでも、何度か聞いていればなじめそうなので、「次」か「今度」かどっちがいいかなどとも考えないし、「今度」の揚げ足を取ってやろうなどとも思わない。慣れの問題であるから。

「快速に抜かれません」には生涯慣れることはないだろう。「この電車は○○駅で快速通過待ちをします」と聞いていつも悔しがる乗客への励ましのつもりなのに違いない。「お客さん、いつもいつも後から出る快速を先に行かせてごめんなさい。でも、この電車はね、快速に抜かれませんよ。誇らしく優越感を抱いて終点までどうぞ」というつぶやきに見えてきた。