シリア中部の世界遺産パルミラをイスラム過激派組織“IS”が制圧したという。ローマ帝国時代にもかなりの破壊行為が繰り返された地域である。いま再び人の手による崩落の危機に瀕している。
自ら「イスラム国」と名乗り、また他者もそう呼称するのは誤解を招き、イスラム世界にとっては寛容しがたい。そのことに関係諸国もマスメディアも同調してイスラム国(Islamic State)をアルファベットの頭文字で“IS”と表わし「アイエス」と呼ぶようになった。このやむをえない対処によって、ぼくの感覚も変化した。依然として数々の蛮行が繰り返されるにもかかわらず、アイエスと呼び換えることによって、憤りの感情が変容した。対象がぼやけてしまい、無機的かつ中性的になってしまったのである。
ここでシニフィアンとシニフィエを連想する。シニフィアンとは「表わしているもの」。記号表現のことだ。「ペン、pen」という文字の記号であり、音である。シニフィエとは、そのシニフィアンによって「意味されているもの」、すなわち記号の内容である。実際のペンであり、頭に浮かぶペンのイメージである。イスラム国というシニフィアンがアイエスに置き換えられても、シニフィエとしての過激派組織の実体が変わるわけではない。しかし、名は実体のイメージに影響を及ぼす。アイエスはイスラム国のイメージを無味な記号的存在にしてしまった。初めて「アイエス」を耳にする者にとってはマイルドでさえある。
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アルファベットを模ったビスケットがある。パスタもある。パスタはスープに入れて食べる。これを「アルファベットスープ」と呼び、アルファベット語圏の子どもたちには人気の料理だ。ばらばらの26文字から3文字や4文字で単語を綴ってスプーンに並べる。たわいもない仕草だが、形状がすべて同じ粒パスタとは違って、食べる愉しみが少しは膨らむ。
アルファベットスープと題された小見出しが“Ogilvy on Advertising”に載っていて、著者のデヴィッド・オグルビーが次のように書いている(拙訳)。
どんな事情があるにせよ、頭文字で略した社名に変えてはいけない。IBM, ITT, CBS, NBCなどについてはすでによく知られている。しかし、いったいどれだけの人が次の社名にピンとくるだろうか? AC, ADP, AFIA, AIG, AIM, AMP, BBC, CBI, CF, CNA, CPI, CEX, DHL, FMC, GA, GE, GM, GMAC, GMC, GTE, HGA, IM, INA, IU, JVC, MCI, NIB, NCP, NCR, NDS, NEC, NLT, NT, OPIC, TIE, TRW, UBS. これら37社はこの名で広告を出稿している。一般に浸透するのにどれだけの年月と費用がかかることか。無駄遣いである。
BBC, GE, GM, NECなどはわかる。しかし、他のほとんどは単なるアルファベットの組み合わせに過ぎず、無意味な記号に見えてくる。ぼくの会社の英文名は“ProConcept Institute Corporation”だが、単語のイニシャルを並べると“PCI”になる。固有性が消えて匿名になる。どこにでもありそうな乾いた名前になる。何の会社かわからない。そして、何の会社かわからないアルファベットを正式社名に変更する企業が多いのである。かつて社名を頭文字に略して3文字で綴るのが流行したせいだ。
企業風土も理念も表現できないこのようなアルファベットスープ的な社名は、子どもの気まぐれなお遊びに似て恣意的である。論理が抜け落ちてしまっている。今年に入って何人かのコンサルティング会社の人たちに会ったが、いずれもアルファベットカンパニーであった。何という会社か、まったく覚えていない。親密性がなく記憶に掛かりにくければ関心が薄れる。ISで鈍らされた感度に近いものを覚える。