いきなりイデオロギーなどと書き出すと怖気づく人がいるが、恐がるほど難しいカタカナ術語ではない。まず、ぼくたちは判断や行動に先立って考える。これはいいだろう。状況を見ながらそのつど考えることもあるが、拠り所となる体系があっておおむねその枠組みで考える。このような体系は個人的なものではなく、生きている時代や集団的慣習、支配的な思潮によってほぼ形作られる。マルクスはこのイデオロギーを社会階級固有のものとして考えたわけだ。たった一人だけのイデオロギーなど聞いたことがない。イデオロギーは集団的な観念体系なのである。
あるイデオロギーが生まれて浸透する背景には集団を成す人たちがいる。思想や政治に限った話ではない。観念であるから必ずしも不変ではない。また、流行とも無縁ではないので、一過性のつながりのはずのミーハー的グループでもイデオロギーは生成される。生成されはするが短命に終わるのが常であるから、また別のイデオロギーに取って代わられたりする。業界用語や専門用語を口癖のように交わす企業集団にもイデオロギーは根づく。常套的な共通言語で意思疎通する異業種交流会もイデオロギーの匂いをプンプンさせている。あまり好きな匂いではないが、だいぶ嗅がされてきた。
集団内の言語はイデオロギーによって色付けされる。主義や流派が似ていれば話法や文体、語彙も似てくるものである。1970年前後の学生オルグなどはメッセージも表現も似たり寄ったりだった。オルグに励む当事者たちはそのことに気づきにくい。たとえばエゴイストだらけの集団では、一人称による主観的な主張が幅を利かせる。日本語に主語はいらないと言われるが、話の中身をよく聞けば隠れた主語が自ずとわかってしまう。主語が言明されていなくても、「思う」と言えば一人称で話しているのと同じ。一人称で綴り始めると構文はある程度限定され、よく似た内容や表現が生まれやすい。
文末を決定する動詞を工夫すればいろいろな変化も可能だという意見もある。しかし、いったん「私」を主語にして思いや体験、心象を述懐したり他者に伝えたりしてみればわかる。たいてい「思う」「考える」「感じる」などで終えるしかない。そして、「私は……と思う」という構文で文章を綴れば、同一イデオロギー内では「……」に入るメッセージもたいてい同じになる。私小説などはこんなふうに綴られる。ある日常について「私が感じ思うところ」を書けば、動詞が制限され、名詞を形容詞で修飾するようになり、毎度毎度よく似た文体の文章を綴ることになる。少し礼を尽くした手紙の場合も同様で、時候の挨拶や社交辞令を安売りするような定型文でしたためられる。
文体がイデオロギーを醸成し、イデオロギーが文体に影響する。読み書きのリテラシーとイデオロギーは不可分の関係から免れにくい。関係を切り離したければ、人称や動詞の音読み・訓読みのバランスを取り、文章は長短を織り交ぜ、重文や複文にも踏み込んでみる。要するに、あの手この手でアヴァンギャルドなスタイルを試みるしかない。
ところで、ぼくたちは理解し考えることを書く。理解し考える内容は読んでいる本と強く関わっている。読むリテラシーが高まってくると様々なジャンルの本でも手の内に入ってくる。しかし、どんなジャンルの本を読もうと、底辺の観念体系は似通ってくるものだ。「いろんな本を読んでいる」と胸を張っても、知らず知らずのうちに特定イデオロギーのお気に入りばかりが増えてしまうのである。こうして、イデオロギーゆかりの文体も一緒に身についてしまう。誰もがこうなるわけではないが、人生も半ばを過ぎてしまったら、このほうが楽になる。
同一著者の本だけを数年単位でまとめて読んでみると、著者の文体が自分の文章スタイルの中に徐々に忍び込んでくることがわかる。名文家の書物を読めと先人たちが勧めてきたのは、文体の刷り込みがおこなわれることの証にほかならない。先に書いたように文体は観念の形成と無縁ではない。読み慣れた文体を通じてイデオロギーが徐々に自分の内に浸透してくる。あらゆる刷り込みや洗脳というのはこうして深化していくものなのである。このことを是とするか非とするかは自分で決めるしかない。
「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当てよう」(ピエール・ド・ラ・ゴルス)が成り立つなら、「君の読む本が君の文体でありイデオロギーである」くらいは朝飯前に断言できそうである。