占拠
深夜、物音に気づいた。機械の擦れ合うような音だった。時折り小さな部品を勢いよくぶつけ合っているような音が紛れ込む。その音がひときわ強く聴覚を刺激した。
まず「軽量の金属製品を町内の誰かが運んでいるのだろう」と推理した。しばらくして、その推理が気配と食い違っているように感じたので、夜逃げだろうか? と推理した。いや、馬鹿げている。突拍子もない思い巡らしに苦笑してしまった。もしかすると、泥棒か? とすると、ちょっと厄介だと思ったが、とっさに身を起そうとしない自分に不条理なまでに安堵している。察するほど危険が迫っていないことを自身の落ち着きぶりが証しているかのようだ。
時計は零時四十三分を示していた。こんな時刻に何事かと怪訝に思うばかりで、頭も気持ちも冷めていた。もし泥棒の仕業ならこの時刻の営みは常識的だろうが、音を立てるのは未熟者に違いないと思ったりした。
形のない空想が頭をよぎり始める。焦点の定まらぬ視線の先には影すら見えない。ただ音が聞こえるだけである。視覚は意味を失い、聴覚が上滑りする。この時点で、無視を決め込むにはやや神経が昂ぶりかけていた。それでも、身体は鈍感なままで動きたがらない。窓を開けて外の様子を窺えばよかったのだろうが、それをしなかった。依然として音は止んでいなかったが、いずれ止むに違いないと自分に言い聞かせ、少々昂ぶっている神経を宥めようと努めた。
読みかけの推理小説が余すところあと二、三十ページだ。ちょうどクライマックスに差し掛かっているところでもある。愉しみを放棄してまでわざわざ聴覚を研ぎ澄ますことはない。そう考えると、気にするほどの音でもないような気がしてきた。読みかけの箇所に戻り、前の段落をざっと読み直してから先に進んだ。
それでもなお、小説と並行して、無視しえない現実の筋書きを別の回路で追いかけようとしているのに気づく。
(もうパジャマに着替えたしなあ……一度ベッドに潜ってしまうと朝まで身体を起こす気にはなれないんだ……)
こうなると、頼りは三軒隣りの爺さんしかいない。朽ちたような瞼をこすりながら寝間着姿で外へ出て大声で怒鳴りつけてくれる望みはある。耳は遠いが、爺さんは皺だらけの皮膚で音を聴く。あの年季の入った集音装置がいつまでも物音を聞き流すはずがない。
いや、ちょっと待てよ。爺さんは末娘の所へ出掛けていて、自宅にはいないかもしれない。そう言えば、この二、三日見掛けていない。きっとそうだ。爺さんは不在なんだと早々と見切る。爺さんに期待できなければ、喫茶店の女房あたりはどうだろうか。あの女なら血の気も多いし、町内のささいないざこざにも口を挟むのだから、この異様な物音を聞き捨てるはずはない。(お節介な耳と冗漫な口と贅肉を型にはめたらああいう女が出来上がる……)
爺さんの入れ墨のような顔の皺、喫茶店の女房の豊満な体躯を思い浮かべているうちに、物音が聞こえなくなっていた。いや、実は依然として消えてはいなかったのかもしれないが、気がつけば本に戻っていた。小説の筋書きに不安、緊張、愉快、興奮と一通りの感情の起伏を乗り越えて、とうとう読み終えた。最後のページに深く荒い鼻息を吹きかけた時には、すでに物音は止んでいた。時計の短針は四十五度近く動いていた。
全神経を外部と小説に向けていたから、部屋と自分への感覚は麻痺状態に陥っていた。いま物音からも小説からも解き放たれて、ようやく我に返った。
気がつくと、部屋には得体の知れない金属のような物体が現れていた。不思議なほど恐怖心を抱かない。それどころか、懐かしささえ覚えながら物体に近づき右手を差し伸べてみた。しかし、触ることができない。指が、手の甲が、手首が突き抜けてしまう。そうか、これは幻影か……そして、物音は幻聴だったのか……かと言って、そう感じている自分は幻なんかじゃない。朝方に目が覚めたら幻は終わっているだろう。いや、終わっていてほしい。いつまでも続いたらたまったもんじゃない。ぐったりするほど疲れていた。そして眠りに落ちた。
読了した本は傍らに置かれたままだった。虚構の文字世界に生まれた『占拠』と題された作品は、いま現実の世界に寄生し始めたようだった。朝方になっても、また次の日も、さらに何日も寄生状態は続いた。ある日、寄生が終わった。寄生の終わりは別の状況――占拠――の始まりだった。そして、来る日も来る日も視聴覚的存在として部屋を支配し続けた。
岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉