机上と現場

ふと6月上旬のことを思い出した。珍しく出張が少なく、ほとんど大阪にいた。休みの日に出掛けてもなるべく近場で済まし、散歩もいつものお決まりの経路、毎朝毎夕の自宅とオフィスの行き来もほぼ同じ道を辿っていた。こういう日々が半月ほど続くと発想やものの見方が変異するのがわかる。感じること、語ること、書くことののことごとくから現場感覚が引き算されてくるのである。行為する自分――状況や物事に接する自分――の観察眼が弱まっていく。道すがら光景を見ているはずなのに、実は見えてなどいない。旅先なら、出くわすものを頭で考える前に条件反射的に観察できるというのに……。

装飾的な感じ方や書き方をもう何十年も遠ざけてきたから、今さら嘆くには及ばない。現場に居合わせて写実しているつもりが装飾過多になり、やがては心象の描写にも転移して自己満足に陥ることを知っている。けれども、このことを差し引いても、あの6月前半は変調だった。オフィスと自宅の机に交互に向かいながら、現場とつながる感覚がもっとあってもいいはずだと反省しきりだった。出張や旅に出掛ける時の、あの「しばしそこに佇む」という余裕がなくなっていた。〈いま・ここ〉に集中せよと人に言っているくせに、今ではなく「次」がいつも頭のどこかに引っ掛かっていた。大袈裟に言えば、形而上学的なまなざしだけを机上に向けていたような気がする。

その6月の中旬に一泊二日で検査入院することになった。翌週の診察時、病院の待合室で小林秀雄の『平家物語』の一節を久々に読む機会があった。

(……) 整然とした秩序のなかで、細々とした自然描写は無用であろう。伊吹山が見えたら、見えたと言えば足りる。大磯小磯を打過ぎてで充分だ。動いていく重衡の肉体は、もうしっかりと動かぬ自然に触れている。(……)
自然の観照について、細かく工夫を凝らした夥しい文学に比べてみれば、「平家」は、まるでその工夫を欠いているように見える。あの解り切った海や月が何とも言えぬ無造作な手つきで、ただ感情をこめて摑まれる。


この一節を読んで、現場感覚の量が減ってきたとか、物事に接しての描写が不器用になったなどと神経過敏にならなくてもいい思い、少し気が楽になったのである。よくよく考えれば、現場に身を置いて感じているつもりがまったく感じていないことがある。数え切れないほどの現場経験を積んでも、その経験が茫洋としたままのイメージでしか再現できなければ威張れない。では、イメージの代わりに飾り立てることばをふんだんに用いればどうか。いや、それでもなお、言いえぬ思いは空回りするだけだ。現場での経験を過剰に粉飾しなくてもいいのだろう。むしろ感覚を想像力で抱擁し、素直なことばで仮止めしておくことに意味があるのだろう。

木漏れ日

木々の中をそぞろ歩きする……樹間から射してくる光、繁る葉で狭められる空、名も知らぬ鳥の啼き声三つ、四つ。そこでは、静寂であるだとか深閑であるだとかの観念的な表現は浮かんでこない。二次的に処理されたことばに出る幕はない。しかし、部屋に戻って文章を書き始めると、徐々に現地の印象が希薄になり、加工しようとする意識が優勢になってくる。現場での視聴覚体験から机上の思考へと軸足が動く。机の前に座る時間が長くなると、必然机上の空論を弄することになるのである。

おびただしい形容詞で細密描写したからと言って経験が生かされているわけではない。たとえ机に向かっていても、現場とつながっていれば思うことの表現は簡素かつ平明であってもいいのである。むしろそのほうが再現性に優れていると言えるだろう。ところで、このように一文を結んで知らん顔して終えるのに苦はないが、現場の経験と机上のことばを簡潔につなぐには高級な知が働かねばならず、ぼくごときにとっては道は険しいと言わざるをえない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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