新聞という旧聞

月極で新聞を配達してもらっている。わざわざ配達してもらうのだから読むことにしている。記事によって、ざっと目を通したり、しっかり読んだり、気になるものは切り抜いたり。周囲では月極購読者は半数にも満たない。二十代、三十代世代には新聞をまったく読まない人も少なくない。彼らの情報源はネットやテレビだ。時たま「月極などしなくても、必要や興味に応じてコンビニでそのつど買えばいいではないか」と思うことがある。たしかにニュースだけをかいつまむなら紙媒体以外のもので十分にまかなえる。

新聞は発行部数も購読世帯数も漸減しているが、2016年の一般紙の購読世帯比率を知ってちょっと驚いた。今も全世帯のおよそ70パーセントが新聞を月極で取っているのだ。もちろんどれほど読んでいるかは定かでない。長年の癖で月極購読しているだけで、読んでいるのは世帯主一人、家族の他の面々はたまにテレビ欄を見るだけかもしれない。ともあれ、新聞は案外しぶとく粘っているという印象を受ける。

朝刊で読むニュースの大半はすでに前日のテレビ報道で知っているし、ネットで閲覧してわかっている。迅速な情報伝達という点では新聞は劣っている。新聞は「旧聞」のコンテンツを編集しているにすぎない。それでも購読するのにはワケがある。年配者は紙のほうがなじみやすいというのもその一つ。高い信頼性で事実を報道する強みもある。しかし、今となっては、単純な事実に関して言えば、新聞とテレビとネットに著しい差は見当たらない。敢えて言えば、旧聞の復習という機能が新聞の特性かもしれない。


オフィスではずいぶん以前に一般紙の購読をやめ、長年購読してきた日経も昨年やめた。スタッフ全員がいらないと言ったからである。仕事柄あるほうがいいという理由で週3回発行の日経MJだけかろうじて残っている。自宅で購読している新聞もほんとうにいるのかと、最近よく思う。以前に比べて魅力に乏しくなった気がするのだ。先日、やめる選択を後押しするような文章に出合った。『知的な痴的な教養講座』で開高健は次のように書いている。

新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。(……)なぜ読まないか、話は簡単である。(……)久しく前から、新聞をつくる人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。(……)ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足す二は四という文章ばかりである。この退屈さ、凡庸さ、陳腐さ――

そうか、最近の新聞がおもしろくないのは、こういうことなのだとえらく共感した。開高は1989年に59歳で亡くなっている。いつ頃書かれた文章か不明だが、三十数年前にこんなふうに新聞に見切りをつけた。いや、文中「すでに数十年前から」と書いているのだから、少なくとも三十代かそれ以前に新聞を読むのをやめたことになる。なるほど、やめるという手がありそうだと思った。だが、踏みとどまることにした。文章の工夫の退屈、凡庸、陳腐というならネットも変わらないからである。同じ退屈、凡庸、陳腐なら、長年読み続けてきた新聞にもうしばらく寄り添って、読みごたえのある記事の一つや二つを見つけてみようと思い直した。

数年前から記事の切り抜きを再開している。若い頃のように厚紙やスクラップブックに貼り付けたりはせず、一週間分を切り抜いて透明ファイルに挟み、後日再読して傍線を引く。気にとめておきたい記事のさわりはノートに転記して、自分なりの意見を書き込み、記事の一部は仕事に生かし、一部はこのブログで取り上げる。なぜこんな面倒な切り抜きをしているのだろうかと、切り抜きしながら思っている。まじめに理由を挙げるとするなら、コラム記事や旧聞の事実を二度読みして、広く浅く今生きている世間と時代を概観するためということになる。冗談っぽく答えるなら、ハサミを動かしていると、なにかしら達成感が得られるからである。しかし、何が達成されているのかはよくわからない。

たいやきとエスプレッソ

何を食べ何を飲むかという併せ技はもちろんのこと、何を食べてから何を飲むか、その逆に、何を飲んでから何を食べるかという時間差飲食も願望通りにはいかず、偶然の流れに委ねることが多い。思いと裏腹の後先になると、食べものと飲みものの味覚と印象は大いに異なってくる。出汁までたいらげたきつねうどんの後にコーヒーは飲みづらい。

あの日の昼下がり、腹八分目だったら話は変わっていたかもしれない。昼食で十分に満たされていた。いわゆる別腹デザートを受け入れる余地はなかった。それどころか、腹ごなしに歩かねばならないと思ったほど。だから歩くことにした。まったく不案内の場所ではなかったが、方向感覚は頼りない。街並みに視線を投げながら半時間ほど歩いたところで、「これはすぐれものだろう」と直感した店の前に出た。たいやきの店である。前の客がいくつか包んでもらった直後、焼き上がるまで数分待つ。

焼きたてがうまいに決まっている。半時間ほど歩いたので大丈夫だろうと思って買ったわけだが、熱々のたいやきを手にして、どうもあんこは喉を通りそうにない。買い食いを断念して、さらに半時間かけて帰路につくことにした。


真っ直ぐ帰ればいいのに、たまたま通りがかったカフェに誘惑される。以前飲んだこの店のエスプレッソが本場に引けを取らないのを知っている。ところで、エスプレッソを飲み慣れている人ならわかると思うが、ケーキやクッキーと相性のよい通常のレギュラーコーヒーとは違って、エスプレッソを飲む時は原則茶菓子は不要だ。せいぜい小さなチョコレートひとかけらである。エスプレッソのダブル、約60㎖を注文して三口ほどで飲み干す。仮に「店内でたいやきの持ち込みオーケー」と言われても無理だ。ここから自宅まで徒歩20分弱。苦味を口内に残しながら帰ってきた。

3時のおやつ」にちょうどよい頃に、日本茶を淹れ、オーブントースターでたいやきを焼き直して食べるつもりだった。しかし、エスプレッソの余韻がまだ残っていて一向にその気にならない。店の前に続いて二度目のパス。たいやきの存在を思い出したのは、その日の夜ではなく、なんと翌日の夕方になってからだった。焼き上がり直後の味を知らないが、おそらくうまさは半減していたに違いない。

飲食の組み合わせや順序はデリケートにして、かつ、大げさに言えば、深淵である。たいやきにはお茶でなければならない。実際、くだんのたいやき店の店内には、自由にどうぞとお茶を置いてあった。「エスプレッソとたいやきセット」という異端を思いつく店は現れないだろう。以前、某コーヒー会社が「和食の後のコーヒー」というスローガンを掲げたことがあるが、和食の献立次第である。鍋をつついて雑炊でしめた直後のホットコーヒーはどうなんだろう。エスプレッソも料理を選ぶ。肉料理とワインの食事だからこそ絶妙の仕上げになる。

なお、イタリアの朝のバールでは、小さなパンもつままずに、空きっ腹に砂糖たっぷりのエスプレッソを一気に注ぐのはありふれた光景だ。エスプレッソびいきのぼくもあの真似はできない。旅先では必ず小さな甘いパンをつまんでいた。しかし、パンと一緒ならエスプレッソでなく、普通のコーヒーのほうがいい。冷めたたいやき、朝のレギュラーコーヒーには合うかもしれない。あんぱん感覚で食べればいい。

岐路の決断

人生は大小様々な岐路ばかり。こう言ってみれば、たしかにそうだろう。だからと言って、明けても暮れても清水の舞台から飛び降りるような決断を迫られるわけではない。こと日常に関しては経験の知で軽やかに凌ぐことができ、顔色変えて意を決するような場面はめったにない。

日常の些事をいつも「ハレ」の儀のように重く捉えている知人がいた。いちいち大仰に心を新たにしなければ行為できず、諸事をてきぱきと取り扱えなかった。日常の小さな意思決定に経験や習慣を生かせない。たまに読む書物からは概念ばかり学び、日常をふつうに生きていなかったようなのだ。日常から離れた概念で生きていたら息苦しくなるのは当たり前。相談を持ちかけられ、次のように言ったことがある。

読書して知的になりたい、美術館に行って芸術に触れたいなどときみは言うけれど、知性や芸術心は日常の外で育むものではない。日々の習慣の一部なのではないか。ふだん読書や芸術鑑賞になまくらなきみが一念発起して親しもうとするたびに、命を賭けるような決断をしているのが滑稽だ。知的であることもアート的であることも特別ではない。いくばくかの好奇心と主体性さえあれば、三度の飯の間も、飯と飯の間でもそんな生き方はできる。覚悟なんていらないし、いちいち深呼吸して身構えることもない。日常をしっかり生きていれば、非日常的事態にあっても決断のジレンマに戸惑うことはないはず。

日常から知恵を得ていなければ、ここぞという決断の場面で後悔が先に立つ。その結果、何も決断できなくなる。明日になったら考えようと、モラトリアム人生は続く。


あの時、(こうではなく)あのようにしていたら、自分の人生は別のものになっていただろうと、戻らぬ過去を振り返って悔悛する。今に到ったあの時の選択が「やっぱり間違いだった」と吐露する。それが確信に変われば、これから先の日常は無常となり、自暴自棄と隣り合わせの日々になる。経験と呼べる経験は積めず、習慣と呼べる習慣は形成されない。

あの場面では、今のxではなく、別のyという選択肢がたしかにあった。今のxではなく、別のyを選んでいたら、自分の人生は大いに変わっていただろう……と自責の念に駆られる。しかも、この種の自省においては、選ばなかったyのほうがつねにxよりも優れていたに違いないという信念が支配的になる。なぜ今を肯定的に眺めることができないのか、不思議でならない。

選ばなかったyのほうがよく、選んだxが運悪かったなどという恨み節は、二者択一のくじ引きではよく吐かれる。ところが、人生の岐路というのは、実はxyという二者択一などではない。選んだのはx一つだが、選ばれなかったのはyだけではなく、その他多数なのである。見方を変えれば、おびただしい選択肢からたった一つが選ばれ、その選ばれた一つからその先に無数の選択肢が分岐し、その中からさらに一つが選ばれる……。その繰り返しなのだ。

岐路で選ばれなかったほうがよかったはずというのは幻想にすぎない。今がどうであれ、後悔と反省を延々と続けるくらいなら、あの時選んだ道を歩む自分に必然を見てとるべきだ。今を肯定しなければ始まらない。しかし、あの彼のように、岐路のジレンマに襲われて決断できない自分、モラトリアムに酔う自分を肯定することだけは何としても避けなければならない。

デッドライン

最近よく耳にするレッドラインもおなじみのデッドラインも、越えてはならない一線という点では似ている。但し、デッドラインは転じて「原稿などの締切期限」も意味するが、レッドラインのほうは期限のことではない。ここを越えたらおしまいという、後のない条件である。

仕事に取り掛かったからには、いつかは終わらせなければならない。今日明日に片付きそうな雑用に近い仕事でも、気の遠くなるような長きに及ぶプロジェクトでも、いつかは完了する。どんな内容であれ、仕事には期限がある。期限内に納める約束を守って報酬を得るから仕事だ。趣味とはちょっとわけが違う。

仕事を期限内に終わらせるために、作業の量と手順をあらかじめ見越しておく。どこまでやるのか、どのあたりでキリをつけるのかを判断しながら仕事を進める。予定した期限直前には仕上げの作業にかかっている。その段階ではどこまで凝るのかを決めなければならない。

ものづくりの仕事とサービスの仕事では仕上げの「キメ」の性質が違う。ぼくの生業としている企画では、品質の評価項目は設定可能だが、実際のところ、あってないようなもの。特に、期限間際の最終工程のこなし方などは仕事人の裁量に委ねられる。残された時間内に、表現はどこまで練るのか、正確に書いてきたつもりの文章にどれだけ脚色の手を入れるのか……迷いに際限はなく、タイムアップまで続く。


どこまでやるのか? もちろん、仕事の品質が「極上化」するまでに決まっている。顧客はそれを期待している。極上化はデッドラインと同期してそこで終わる。しかし、時間という期限があるから極上化に向かうのではない。仕事人それぞれの力量から導かれる品質の目標なり理想なりのスタンダードがあってこそである。もし期限内にそのスタンダードに達していなければ、プライドに差し障るはず。しかし、時間はつねに優先されるから、一般的な仕事人はやむなく仕事が完了したと見なす。

「今日が期限なので提出しますが、もしあと一日猶予をいただけるなら、満足できる品質に仕上がります」などと言えるか。これでは自家撞着に陥る。顧客はこう言うだろう、「つまり、今日なら満足のいかない品質というわけだね」。一流の職人なら、「仕事に納得がいかない。悪いが、あと一日待ってくれ」と言って、了承してもらえるかもしれないが……。

1882年に着工されたバルセロナのサグラダ・ファミリアは、いつ完成するか不明だった。完成などしないとも言われていた。写真は201111月に訪れた際の工事風景だが、当時でさえ、あと100年以上かかるのではないかと思っていた。実際、今から30年前の予測では着工から300年という想定だった。しかし、突如として、2026年、今から十年足らずのうちに完成という見通しとなった。長い工期中にはもしかするとエンドレスに続くのではないかと訝(いぶか)られた大事業もやはり終わるのである。

その日を迎える時、青写真で目論んだ品質基準はクリアできているのだろうか。こうしておけばよかった、あのようにすべきではなかったなどという心残りは仕事人に去来しないのだろうか。もっとも、このような建築物は完成直後から、それこそ際限のない修復作業が始まる。仕事は未来永劫続く。翻って、われわれの日々の仕事はどうか。デッドライン時点で仕事の品質の極上化は叶わぬ理想なのかもしれない。結局、デッドラインによって折り合いをつけざるをえないのだろう。

「なぜ」が消える時

“5W1H”が頻繁に強調されてきて、何を語り書くにしても要諦だとされる。いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)の5つのWと、どのように(How)という1つのH。文章の筋道と意味の精度を高めるには、これらを明確にしなければと強く意識する。しかし、元はと言えば、ニュース記事を書くにあたっての作法であった。5W1Hは事実に関わる。事実をきちんと押さえることが、何を差し置いても、記者の基本の心得だ。表現の巧拙よりも、事実に反しない文章が上等なのである。

同じ事実を扱うにしても、事実と認定するのに手間暇がかかるのが一つある。「なぜ」がそれだ。日時、場所、人物、行為・出来事、方法に比べて、理由や原因には事実に推論の要素が含まれる。

「○月○日午後○時、○○町角のコンビニ○○で、住所不定自称フリーター○○は、仲間に店員の注意を引かせて、弁当を二個万引きした。腹が減っていたが弁当を買う金がなかったからと取り調べに答えているという」。

日時、場所、人物、行為、方法は証言によって裏付けることができる。ところが、「腹が減っていたが弁当を買う金がなかった」という理由は本人の言であって、それが確実に唯一の理由または動機であると認定する客観的な証拠はない。本人がそう言ったことは事実であっても、その言が万引きの理由や動機であったかどうかは不明である。現行犯逮捕された者がなぜ万引きしたかは推論の域を出ないというわけだ。


「なぜ」は論理にとって不可欠であるけれども、特に論理立てることもない場面で敢えて問うことはない。なぜと問わないことをなぜと問うべきことと同様に心しておかねばならない。料理屋に行って刺身の盛り合わせを注文したら、連れに「なぜ刺身から?」と聞かれても困る。刺身を食べたい、ただそれだけだ。刺身を食べたいのが刺身を注文した理由というのも何か変である。最近肉食が続いたので、今日あたりは魚にしようと考えていたというのもしっくりこない。「なぜ」が不発になる場面である。

ここぞという時でもないのに「なぜ」を振り回さないほうがいい。いつ、どこで、誰が、何を、どのようにに比べれば、出番が少ないのである。論理思考や議論の技術に馴染んでしまうと、つい理由や原因の分析が癖になる。よく状況を見極めるのが肝要だ。

風景であれ芸術作品であれ、そこに佇んで見ているうちに「なぜ」と問いたくなる不可思議に襲われることがある。答えが出るはずもなく、問うてみようとした自分に戸惑う。木洩れ日の木々の、まあ、ありていに言えば、その美しさの理由を知ってどうなるものでもない。なぜと問おうとしている間は、対象との間に距離を置いていて、わからないことをわかろうと理を動かしている。意味があるはずもないし、無粋な問いである。

しかし、やがて理由を知ろうとすることが空しく、あるいは、知ろうとしても満足のゆく答えが見つかるわけでもないことがわかる。理から離れて対象に向き合っているうちに、同化する瞬間がやってくる。それまで見えなかった、たとえばそれを「美」と呼ぶとすれば、美が神妙な無形物として立ち現れてくる。風物の観賞や作品の鑑賞に言語や理屈を介在させないことは難しい。消えるのを辛抱強く待つしかない。

「読み」と「意味」

日本語に特有のふりがな。機能と言うよりも「技」や「芸」と呼ぶにふさわしい。漢字には幾通りも読み方がある。文脈の中で読み方が変わり、それに伴って意味も変わることがある。誰もが漢字に精通していれば、わざわざ漢字の傍らに小さな文字のかなを振る必要はない。しかし、どんな漢字にでも精通することなどありえないから、ふりがなに出番がある。とりわけ使用頻度が低い専門用語で、初見で読めないような漢字には、読み手の便宜のためにふりがなを付ける。たとえば、哲学の術語である形而上学に「けいじじょうがく」、馬具の鐙に「あぶみ」と読み方を示すのは、書き手の配慮である。

専門語だけでなく、難読語にもふりがなが欲しい。葡萄牙に「ポルトガル」、麺麭に「パン」、心太に「ところてん」と書くとする。しかし、そんな漢字を使わずに最初から本文でポルトガル、パン、ところてんと書いておけば、ふりがなはいらないではないか。わざと難読語を使うのは衒学的に過ぎると指摘される(衒学的は「げんがくてき」と読み、知識をひけらかすことを意味する)。ところが、別に見せびらかすわけではないが、漢字表記が望ましいこともある。最近よく耳にする「瑕疵責任」などを最初から「かし責任」などとは書きづらい。かと言って、瑕疵では読めない人もいるから、「かし」とふりがなを付ける。

ふりがなだらけの文章は煩雑で読みづらい。できれば付けずに済ませたい。しかし、刑事を「けいじ」ではなく、「デカ」と読ませたい場合がある。あるいは、たとえば〈漢字読方〉という四字熟語を考案して、それを「ふりがな」と読ませたい。書き手自身はその造語の読み方にこだわりがあるからだ。さて、ここまで書いてきて、あることに気づく。ふりがなのお陰で漢字が読めたとしても、意味がわかったことにはならないという点である。瑕疵は「かし」と読むのだね、でも、どういう意味? ということになりかねない。ふりがなは読み方を手ほどきしても、意味までもカバーしていないことを書き手は心得ておかねばならない。


『愉快コンセプトへの誘い』と題して講演する機会があった。誘いは「いざない」である。まさか「さそい」と読まれるとは想定していなかったから、ふりがなを付けなかった。当日会場へ行くと、受付で式次第が配られていた。そのペーパーにはこう書かれていたのである。

『愉快コンセプトへのお誘い』

事務局は誘いを「いざない」ではなく「さそい」と読み、それでは聞き手に失礼だ、ここは「さそい」でなければならないと気を利かした。講師であるぼくには変更を告げなかった。余計なお節介をしてくれたものだが、不幸中の幸い、テーマがテーマなのでさほど違和感はなかった。これが『バロック音楽へのお誘い』では拍子抜けしたに違いない。

こういうこともあるので、誘の上に「いざな」とふりがなを付けておくのが無難だ。しかし、それはそれで、また別の問題が生じる。ふりがなを振るのは、読めない人が多く、読み違える可能性が大きいと踏んでいる証拠である。「倦まずたゆまず」と書いたものの、「うまず」と読めないのではないか……念のために、倦に「う」を付けておこう、というわけである。「須く」と書いて、須に「すべから」とかなを振る。いずれの場合も、そう読める人には蛇足でしかない。読めない人には蛇足ではないが、先に書いた通り、意味が伝わるわけではない。倦まずたゆまずが「飽きたり怠けたりせず」、須くが「ぜひとも」と理解してもらえる保障はない。

「紺のスーツはかれこれ10年近く着ている。よく持っているものだ」と書くとする。長持ちのことだから「持って」でいいが、所有という意味に受け取られかねない。辞書を引くと「もつ」という動詞の表記は「持つ」しかないから、やむをえない。しかし、ここでは「保って」と書いて「もって」と読んでほしい気分である。これは当て字だが、もしふりがなを振らなければ十中八九「たもって」と読まれる。「よくたもっているものだ」ではメンテナンスになり、意図と異なってしまう。結局どうするか。「よくもっているものだ」と最初からひらがなで妥協することになるのだ。ふりがなはよくできた発明だが、書き手にも使いこなす技と芸を求める。

劣化する表現

「劣化する表現」というテーマには二つの意味を込めている。一つは、時を経て実体とかけ離れ古びてしまった表現や、斬新な表現が生まれた結果、相対的に値打ちが低められた表現。〈時代錯誤的表現〉と呼べる。もう一つは、便利な利器を多用するあまり、意図とは裏腹に出現してしまう表現、あるいは手抜かりが生じて誤りを見損じてしまう表現。〈注意散漫的表現〉と名付けておく。


〈時代錯誤的表現〉の一例として、店舗が移転したのに、元の場所のテントや壁面に店舗名が依然として表示されている場合がある。情報だけがそのまま残っていて、そこに対象物は存在していない。また、名称が新陳代謝されないケースもある。ぼくの職住の場である大阪市中央区は、平成になって間もない頃の28年前に東区と南区が合併して誕生した。中央区に中央税務署や中央警察署はない。東税務署・東警察署、南税務署・南警察署が名前を変えずに昭和を引きずっている。旧住所のまま表札を掛けている古い民家も存在する。怠慢もあるが、やむをえない事情もある。

旅に出てホテルや旅館に泊まる。案内された新館が老朽化した建物だったりする。他方、本館のほうがリフォームされて新館っぽく見えることがある。別館なのに本館よりも大規模であることも稀ではない。建物が一つだけなら、たとえば「なにわ屋」でよい。商売繁盛してもう一つ建物が増えると、それを「なにわ屋新館」と名付ける。必然、最初の館を「なにわ屋本館」に改名する。本館と新館の次は「なにわ屋別館」だろうが、新館と別館の違いがよくわからない。そこで「なにわ屋東館」とか「なにわ屋南館」とかに変更する。何かが生まれると先に存在したものとの差異が必要になる。古いほうの表現を劣化させないためには、常に言い換えてやらねばならない。ことばとその解釈は相互関係で成り立っているということがこの例でわかる。ソシュール流に言えば、言語は差異の体系なのである。

年季の入った建物に、これまた年代物の看板が掛かっていて、その店の名が「喫茶 新北浜」だとする。「創業50年なので、そろそろ喫茶 旧北浜にでも変えるか……」などと店主は絶対に思わない。ずっと「新」を貫く。その強い意志が逆に店の古めかしさを際立たせる。新たなものはほどなく劣化し陳腐化する。時代の流れは絶えず、しかも元には戻らず……巷の店やモノは消えては生まれ、生まれては消え、久しくとどまらない。日々情報が更新されていると確信しがちなウェブ上でも、空き家や廃屋になったようなサイトが存在し、古い情報がそのまま残る。「20054月開催!」などという講演のお知らせが、2017年になった今も、過去形ではなく、近未来系のイベントとして告知されている。


〈注意散漫的表現〉のほうの劣化はもっと深刻である。昨今、ほとんどの人が手書きを経ずに直接キーボードを叩く。叩いてはしかるべき漢字に変換する。変換不要なものはローマ字入力しながら、画面上でカタカナやひらがなの文字を確認する。この写真のような案内で、同じ用語、特にカタカナが何度も出てくるとキーの打ち間違いをしても、文字の間違いに気づかないことがよくある。「erebe-ta-」とローマ字で入力しているうちに、一つ目の音引き(長音符号)を抜いてしまって、「エレベーター」の表記が「エレベター」になった。しかも二度繰り返した。そして、貼り出してしまった。表現の劣化は信頼性への不安を募らせる。

企画研修で、タカとワシを漢字で書けるかと尋ねたことがある。両方書けた受講生はほとんどいなかった。彼らは漢字の違いを認識できるが、正しく再生できない。手で書けなくても、「takawasi」とキーを打てば、それぞれ変換候補リストに「鷹、鷲」が出てくる。鷹ではなく「高」、鷲ではなく「和紙」を選ぶ人はいない。書けなくても正しい漢字を選べてしまう。書けても書けなくても、判別力に差は出ない。しかし、ニュアンスを嗅ぎ取るという点では表現の劣化は否めないだろう。

toru」とローマ字入力すると、いくつか変換候補が現れる。「とる」という基本動詞は客語に何をとるかによって、漢字を変える。取る、撮る、摂る、獲る、採る、盗る、捕る、執る、録る、等々。使い分けるのが面倒ならすべて「とる」と表記すればいいが、表意文字によるイメージ効果を出すには的確に選ばねばならない。ふだん実際に書いて使い分けている人なら、必然、別の誰かが書いた文章も深く読み取れる。

文章は単語の足し算や文法的配列によって綴られるのではない。単語どうしが、ある種の「縁」で結ばれて連語として機能する。よく本を読みよく文を書いていれば暗黙知のうちに身につくものだが、単語をローマ字で打って候補リストから適語を選んでいるような文章作法ではいかんともしがたいのである。

切り離された一言

法然の「愚にかえる」という一言を文脈から切り離し、なおかつ愚を「おろか」と解釈するとしよう。おろかとは知能の働きがすぐれず、才能が劣っているさまである。「そうか、賢くなくていいんだ、バカでいいんだ」などと自分を慰めては話がおかしくなる。「愚に還る」とは思い込みやとらわれから自分を解放してやることだ。つまらぬ知識や理屈が固定観念の根源であるから、脱知識・脱理屈のことを愚に還ると表現しているのである。今風に言えば、雑念の「リセット」ということになる。

近くの寺に「愚に還れば楽になる」という標語が掲げられていた。つまらぬ知識や理屈を捨てたら楽になる? まあ、そうかもしれない。角張った賢さが考えの偏りの元であるなら、いっそのこと愚に還ろう。すると、素直になれそうな気がする。素直になることと楽になることが同じとは思えないが、ツッコミ場所はそこではない。脱理屈を諭しているのに、「もしあなたが愚に還るならば、あなたは楽になるだろう」などという仮言命題の記述に違和感がある。仮言命題は論理学で扱う形式なのだから。

思想の全体から切り離して一言だけ単独につぶやかれると、愚に還るの「愚」をおろかという意味で理解するだろう。還るというのだから、賢い人に向けられたことばであり、すでに十分におろかなら還りようもないということになる。全体を斟酌せずに部分だけの語釈をしてしまうと読み誤る。

中途半端な賢さゆえに苦しみを抱え込むということはよくあることだ。余計なことを考えなければもっと簡単に解決できたかもしれないのに、生半可に知力があるばかりに遠回りをして苦悶する。だから、手っ取り早くバカになってしまえばいい。しかし、「きみ、もっとバカになりなさい」と諭しても、「もう十分にバカなんだけどなあ」と返されれば、やはりバカやおろかの解釈が一筋縄ではいかないことに気づく。賢くても――いや、賢いがゆえに――バカやおろかになれるし、なろうとすればいいのだ、という意味である。しかし、意味がわかったとしても安堵してはいけない。人生を超然と生きていくならそれでいいが、仕事もしなければならない、日々生活も送らねばならないのである。「愚→賢」というもう一つのスイッチの切り替えなくしては協働も共生もうまくいかない。


理屈や知識ではなく、計らいのない愚者の知恵で人は救われることがある……小賢しいエゴを捨ててバカになろう……そうすることで潔くなれ幸せになれる……。はたしてつねにこの教えに従うだけでいいのか。思い込みやとらわれから解放されるだけが、実社会を生きる人間のゴールではない。本気で愚に還ってしまえば楽どころが、仕事も生活もままならないのである。

ずっと賢者、ずっと愚者は、いずれも愚者である。時々愚者になる賢者、時々賢者になる愚者は、いずれも賢者である。「愚に還れば楽になる」などと普遍的命題で断定するのではなく、「時々」と言ってしまうほうが、思い込みやとらわれから救われるだろう。愚と賢の折り合いをつけるとするなら、「考えてもしかたのないことは考えず、考えるに値することだけを考える」というところに落ち着くような気がする。

「愚」とは本来考えの足りないさまである。決して褒めことばではない。しかし、状況に応じて時々わざと考えの足りない状態に切り替える。それが愚に還ること。頭だけを働かせないように意識すること、つべこべ言わずに動いてみること、と言い換えてもいいかもしれない。ところで、愚の「禺」は大きな頭の猿という意味らしい。そこに「心」がくっついて、頭ばかりでかくて猿のように劣った心の持ち主を表わすようになった。愚の成り立ちそのものが偏見にまみれている。

ともあれ、全体の本意から切り離された一言、一行、一文の取り扱いは要注意である。格言、諺、スローガンしかり。特に「愚に還れば楽になる」を額面通りに解釈してバカを謳歌しそうな人に対しては単発引用して示してはいけない。

「らしさ」の研究

便利にして曖昧極まる表現に「らしさ」がある。「この作品には彼らしさがよく出ている」とか「京都らしさを満喫した旅だった」というような使い方をする。「Xらしさ」と言うかぎりは、本人はXの特徴や性質がわかっているつもりだろう。しかも、特徴や性質が一般的だと考えているから他人に対しても「らしさ」を使う。なにげなく使う「Xらしさ」のXの特徴や性質に本人は何らかの基準を設けている。輪郭不明瞭なその基準が誰にでも通用すると思っている。

彼の最新作を鑑賞した。「この作品には彼らしさがよく出ている」と評した。評者は彼の最大公約数的な作風を知っているつもりだ。なおかつ、最新作が作風に合致していることを認知しなければならない。もし「らしさ」がなければ、評者は「作風が変わった」などと言うに違いない。ところで、「らしさ」という表現を使うからには相手に通じなければならない。相手が彼について何も知らなければピンと来ない。また、仮に彼について知っているとしても、基準が違えば相手は「いったいこの作品のどこが彼らしいんだ」と訝る。男らしさ、女らしさ、京都らしさ、春らしさ……。実は、通じているようで通じていない。うなずいても曖昧の壁を越えていない。

「らしさ」の背後には「別のらしくないもの」が想定される必要がある。「シマウマらしさ」は馬らしくなく、ラバらしくなく、ロバらしくないことを前提にしている。では、シマウマと馬とラバとロバそれぞれの「らしさ」とは何か。差異をはっきりさせるためには、それぞれの特徴や性質について知らねばならない。しかし、誰もがそんな知識を持ち合わせているはずがない。思考実験してみればすぐわかる。いくつかのサングラスを用意してみよう。そして、シマウマに似合うサングラスを一つ選んでみよう。サングラスをかけさせたシマウマを見て「シマウマらしさが出ている」と言い得るか。言い得たとしても、馬、ラバ、ロバにない、シマウマ固有のらしさであると確信が持てるか。


「自分らしさ」というのはパーソナリティだ。「自分らしく生きていく」という人がいるが、自分のことをわかって言っているとは思えない。「ぼくらしいだろ?」と言えば、誰かが「いやいや、きみらしくないよ」と返す。自画像と他者が描く像が異なっている。本人も他人もその本人のパーソナリティがわかっているわけではないのだ。つまり、彼らしさにしても京都らしさにしても、個人的な見方にほかならない。彼についての、京都についての一般的な基準など一度も申し合わせたことなどないのである。

男らしさ、女らしさのステレオタイプ。おおよそわかっているつもりでも、性向をつぶさに言い表わすのはやさしくない。男と女を二項対立させてみれば少しは属性らしきものが立ち上がってくるが、「らしさ」はどこまで行っても曖昧世界から抜け出せない。「Xらしいなあ。なぜかって? だってらしいんだもの」というトートロジーに陥るばかり。らしさに正しい・間違いはない。ただそう見える、そう感じる、そう思うという主観だ。だから、誰かに「その意見はらしくないですね」と言われても、ムキになってはいけない。

そんな曖昧な「らしさ」だが、個人的な仮想のステレオタイプのくせに一つの絶対的な基準にまで昇格することがある。東京らしい五輪や大阪らしい万博という表現には、まるで「確固とした基準」があるかのようである。プラトンのイデア論は最たる例だろう。真なるものはイデアである。イデアは見えない(あるかどうかもわからない)。実際に見えている現実は便宜上の「イデアらしさ」に過ぎない。ぼくはイデアのぼくに近づこうと「らしさ」に磨きをかける。街はイデアの街を目指して「らしさ」を醸成する。しかし、ぼくや街のイデアが何であるかは誰にもわからないのである。

働く日々と時間

サラリーマンではなく、また「定形の仕事」があるわけでもない。考えることが仕事に不可欠なので、公私・オンオフを問わず、何をしていても考えるのが習慣になっている。この意味では年中無休である。しかし、会社を運営していれば労働基準を遵守すべく休日を設けるのは当然。心身が休まるかどうかは別にして、正規の休日がぼくにも与えられている。

労働日と休日がどのくらいあるのか比較してみた。年間で仕事をするのは235日、休んでもいいのが130日。昨年の12月と今年の1月の2ヵ月だけに限ると、労働日37日に対して休日が25日である。なんと休日率は40パーセントに達する。三日働いて二日休む計算だ。最近では一日8時間以上働くことはめったにないから、高度成長時代の猛烈な働きぶりとは隔世の感がある。

サラリーマンをしていた1987年までは週に二日休んだ記憶がない。一日の労働時間規定はあったが、めったにその通りに働いて済むことはなく、時間を刻む針は無いに等しかった。複数の職場を転々とした。勤め先はすべて中小・中堅、どこも同じ状態だった。とは言え、大企業や行政の仕事に携わっていたので、一般的な労働事情はよく承知していた。

組織の規模とは無関係に、わが国の人々が働く環境には多分に共通項がある。業績至上主義を目指せば勢い長時間労働を強いられる。上司や同僚と異なる労働観では生きづらく、仮に無理強いがないとしても、はなから定時退社は諦めている。長時間労働やハードワークが忠誠と昇進の踏み絵とされる会社は少なくなかった。

創業した1987年から90年代中頃までは日曜日に出社するのも珍しくなかった。年がら年中仕事の日々という趣であった。最近までそんな会社や店はいくらでもあったし、今もある。行きつけの中華料理店は数年前まで年中無休だった。しかし、オフィス街で商売をしていても土曜日は平日に比べて客数が激減する。日曜日にはオフィス街の外れに住む家族連れがちらほらある程度。と言うわけで、その中華料理店は日曜日は休業とし、土曜日も夜の予約が入らなければランチ営業だけして午後は店を閉めるようになった。


業績が上がることと仕事の質が上がることは別である。また、仕事量を減らしたからと言って精神衛生上プラスになるわけでもない。仕事量を維持もしくは増やしながら労働時間を短縮するためには、仕事の技術と質を高めスピードアップを図らなければならない。労働時間的なハードワークを改めるには質的なハードワークが大前提になるのである。

心理的負担の大きい、無意味な長時間労働が望ましいはずもない。しかし、そういう働き方をハードワークなどと呼ぶことが古典的なのだ。真の意味でのハードワークとはよい仕事に向けられるものである。労働時間の長さを云々する前に、心配しなければならないことは誰がやっても同じ仕事をしていることではないか。労働時間が短縮されても、仕事における人間の個性が消失してしまったらロボットと同じである。いや、人間は疲れてもロボットは疲れを知らないから、人間のほうが分が悪い。

以前、デヴィッド・オグルビーから次の一文を引用したことがある。

I believe in the Scottish proverb: “Hard work never killed a man.” Men die of boredom, psychological conflict and disease. They do not die of hard work.
(「ハードワークで人が死んだ試しはない」 というスコットランドの諺は正しいと思う。人は退屈と心理的葛藤と病気が原因で死ぬ。ハードワークで人は死なないのだ。)

ハードワークは長時間労働を意味しない。働く時間を減らしても、退屈し葛藤し病めば健康を害するのだ。そろそろハードワークの誤解を解くべきだ。誰かに強制されてがむしゃらに働けば労働時間は増える。しかし、これをハードワークとは言わない。過労・疲弊ばかりで「やりがい」のない仕事ぶりはハードワークとは別物なのである。やりがいのある仕事に人は無我夢中になり、経験を積んで技能を洗練させる。仕事に「忘我的に入っている状態」がハードワークであり、よい仕事をしている証なのである。「入っている状態」とは分別的でないこと、あるいは相反する二つの概念――たとえば仕事量と時間――を超越している状態だ。

ハードワーク無くしてスローライフ無し、である。代わりのきく、誰がやっても同じ程度の仕事をこなし、働く時間だけを短くするのは都合がよすぎる。そんなおいしい仕事はないし、あってはならない。一億総活躍社会の手始めに一億総プレミアムフライデーとは、お楽しみにもほどがある。日本政府及び大企業の発想はいつもこんな具合だ。毎月の最終週の金曜日に定時退社時刻を2時間かそこら早めても問題は解決などしない。毎日をプレミアムデーに変えてしまうような仕事人のハードワークを見つめ直すのが先決である。