シンクロニシティ考

〈シンクロニシティ〉は共時性と訳される。偶察力を意味する〈セレンディピティ〉と同様、偶然の現象に関わる概念だ。別々の場所でよく似た複数の現象が起こることがある。現象間にしかるべき因果関係が認められないのに、そこに偶然の一致を感じてしまう。同時生起に理由はない。だが、結びつけて意味を見い出したいと思うのである。

「心に思っていることが、外界にあらわれる共時性は、我々の日常生活にしばしば起こっている」(F.D.ピート『シンクロニシティ』)

思いの現象化も共時性なら、たとえば、初めて訪れた街で「なんとなくカレーライスを食べたい」と思っていたら、すぐ角にカレーの店の看板が見えたなどというのも一種のシンクロニシティと言えるだろう。

「昨日のランチはカレーライスだった」と言えば、居合わせた人が「あ、偶然、私もそうでしたよ」と反応する。よくあることだが、カレーライスのような珍しくもない料理にまつわる偶然をシンクロニシティと呼ぶのは安売りになる。せめて鯨のさえずりの刺身のような希少食材でないと、偶然の一致に驚かない。思いの現象化、異なる場所での複数の現象、複数の人間の経験などが共時することは珍しくない。しかし、わざわざシンクロニシティという術語を持ち出すのであれば、驚嘆に値するありえない確率事象でないといけないだろう。


類似性の強い出来事が離れた場所でほぼ同時期に起こる。F.D.ピートの言うように「日常生活にしばしば起こっている」のだが、起こっていることに不思議を感じなければいちいち気に留めない。その出来事の蓋然性がきわめて低いからこそシンクロニシティに注目するのである。因果関係とは別の原理が偶然の出来事の中に働いたのではないかと仮説を立てたくなり、シンクロニシティを解き明かしたいと願えば、研究の対象になる。

シンクロニシティの最たる例は電話の発明だ。電話はグラハム・ベルが発明し、1876214日に特許が出願された。実は、その2時間後にイライシャ・グレーという人物が、ベルの原理とは異なる仕組みの電話の特許を出願していた。ベルとグレーに交流はない。まったく別の原理で、別の場所で電話という新しい装置の開発をおこなっていたという次第だ。今年のバレンタインデーの日のランチに二人の人間が、別の場所で別の動機でカレーライスを食べたというのとはわけが違うのである。

ところで、現象の証人であるぼくたちは、何をもって珍しい共時性に気づくのか。現象と現象、出来事と出来事を擦り合わせる以外に、それが「カレーライス」であり「電話」であるという符号の一致が起こっている。カレーライスという思いのことばに対して、忽然と現れる店をカレー店と認めることばの一致が不可欠なのである。ベルとグレーの発明した装置の一致もさることながら、出願書類中の電話ということばの一致によってシンクロニシティが確認される。現象と現象を、思いと現象を結びつける言語の働きにも注目しなければならない。

心の機微と表現

感情を型通りの形容詞で表わして事足りることがある。もう一工夫の余地無きにしもあらずだが、たいていの場合、ふとひらめいたことばでやり過ごす。他方、大雑把な感情表現では物足りなく、心の機微を何とかして紡いでみたいと思う時もある。しかし、溢れるほど豊かな表現群に恵まれているわけではない。あり合わせの語彙からやむなく一つ選ぶことになるが、書いた文章を読み返し、あるいは話したことばを振り返ると、言い尽くせていないもどかしさに苛まれる。さほど高尚でもないものの、複雑な思いがよぎるのは日常茶飯事。それを一言で仕留めるのは厄介である。

語彙増強という手段があるが、辞書で覚えてもことばが増えるわけではない。ことばは相互に依拠してネットワークを形成するので、単純に語数を増やして活用できるものではない。外国語の学習でさんざん味わってきたことだ。言語表現は知識であると同時に経験でもある。おびただしい場面で何度も聴き読み、ぎくしゃくして間違い、再試行を繰り返してようやく思いと合うようになっていく。但し、あくまでも「だいたい合う」ということに過ぎないから、表現の工夫や努力に終わりはない。

春に爛漫に咲き誇る対岸の桜景色を見て「美しい」と感嘆し、夏に向日葵畑の壮観を「美しい」と形容する。異なる景色なのに、どちらも美しいでいいのか。向日葵の群生に美しいという表現はふさわしいのか。気分と見ようによってはユーモラスと言ってみたい時もある。対岸の桜の美しさと和室の一輪挿しの美しさは同じではなく、厳密に言えば、観賞する者の心の機微は異っているだろう。


美しいという表現が万能でないことは百も承知だ。できればその時々の思いに忠実な言い換えをしてみたい。古いトラベラーズノートに走り書きした「美しいベルガモの城塞跡」というメモがある。いま読み返してみて落ち着かない。この風景は、美しいという一語に収束できない心象風景を描き出していたのだから。

心の機微をことばに置き換えるなどと言うのは簡単だが、モノとしての本を見て本と表現するのとはわけが違う。本はずっと本や書物と言い続けて問題はない。しかし、思いや感じることをいつも同じ表現で割り切っていると、心の機微のほうが粗っぽくなるような気がしてくる。語彙やことばの組み合わせが欠乏するとコミュニケーションに支障を来すのみならず、心の内の起伏や濃淡感覚を失いかねないのである。

「言葉の邪魔の入らない花の美しさ」こそを感じなければならないと小林秀雄は言った。花のみならず、風景にも人にも、間に合わせの表現を介入させてはいけないのだろう。書いてみて言ってみて落ち着かないのなら……美しいということばよりも感覚が捉えている美しさのほうが純度が高いのなら……いっそのこと黙っているのがいいが、黙ってそこに居合わせてただ体感だけするというのはなかなか厳しい。つい「美しい」と感嘆を洩らしてしまう。美を感じることには黙るという忍耐を身に付けねばならないのだろう。言い飽きた、聞き飽きたと感じた瞬間、心の機微を機械的に形容詞で表わそうとする惰性に流されず、じっと黙るか、さもなければ、ありったけの脳内辞書をまさぐってみるべきである。

軽めの断章

古いノートに走り書きした断章。軽めの茶話をいくつか紹介する。

「四方八方、東西南北からやって来るのがニュースだね。英語で北は……そう、North。東は……East。西は……West、そして南は、はい、South。頭文字を並べたら、NEWS……これがニュースの語源だよ」。

知る人ぞ知る作り話のジョークなのにえらく感心されてしまった。種明かしをしづらい雰囲気になったので、そのままにしておいた。

日本では、日本人が道に迷っても、見た目明らかに日本人でない通行人に道をたずねることはない。しかし、人種のるつぼのような街では相手を選ばずに道案内を求めてくる。

パリに滞在していた時の話。もちろん、ぼくは観光客。朝、あてもなく手ぶらでアパート近くを歩いていた。男性が近づいてきてフランス語で「郵便局はどこか?」とたずねる。よりによってこのぼくにたずねたものである。「観光客なので、このあたりのことはよく知らない。誰かに聞いてください」ととっさに反応するほどフランス語に堪能ではない。なので、郵便局がありそうな方角に見当をつけ、そっちを指差して“Voilà!”(あっち)と返した。男性は“Merci”と言ってその方向へ歩いて行った。歩き続ければ、きっとどこかで郵便局が見つかるだろう。

「仕事でマッチングできるかも」ということで、友人がA氏を紹介してくれた。アポの日、友人は都合がつかなかったので、A氏が一人でオフィスに訪ねてきた。A氏は東大卒だと友人に聞かされていた。

名刺を交換し自己紹介の流れで雑談になり、A氏が大阪出身だとわかった。知らない振りして「大学も関西ですか?」と聞いてみた。「いいえ。東京のほうです」とA氏。東京には百数十もの大学がある。とぼけて「○○大学とか……」と二流大学の名前を言ってみた。「あ、違います」。

「東京のほう……あっ、そうか、『ほう』は法律の法なんですね……東京の法、へぇ、東大法学部?」「ええ」。東京大学法学部を出ていても、なかなか胸を張って言いづらいのだなあと同情したものである。

釈迦に説法。ある日、釈迦に説法しようとした大胆な男がいた。傍にいた友人がたしなめた。釈迦が友人を遮って男に懇願した。「ぜひ説法を聞かせていただきたい」。

馬の耳に念仏。馬の手入れをしていた厩務員、「毎日、こうしていろいろと話し掛けるけど、お前の耳には一切入らないんだよなあ」とつぶやいた。馬が言った、「ぜひ念仏を唱えていただきたい」。

とうの昔に消えたはずの歌手のリサイタル広告を見た。「リサイクル」と読んだのはぼくの非ではない。

ことばが考えを実現する

はじめに明快な考えがあって、それをことばで伝達し共有しているという通念がある。しかし、日々のコミュニケーションを振り返ってみれば、この通念の誤りに気づく。考えはそう易々と伝達され共有されるものではない。はじめに明快な考えがあるのなら、なぜ明快なはずの考えが言語化された後に意味不明になってしまうのか。

実は、ここに言語の思考に対する優位性という真実が潜んでいる。言語は思考の手段やしもべなどではなく、むしろ言語のほうが「思考らしきもの」を明快な思考にしているのだ。言語以前に明快な思考は存在しない。思考は言語に促されて生成し、ことばのやりくりによってはじめて明快になる。『知覚の現象学』からメルロ=ポンティのことば。

「思考がことばを操るのではなく、ことばが思考を実現する」

メルロ=ポンティは「意味は存在するものではなく、生成するものである」とも言う。ぼくたちはわかり切っていることを伝えることもあるし、十分にわかっていないことを手探りで伝えようとすることもある。しかし、前者の、自分でわかり切っていることですら、相手には違った意味として伝わってしまうことがある。はじめに明らかな意味があるのでもなく、それがそのままことばで伝わっているわけでもないのだ。意味は自分と相手との間でそのつど見い出され生まれる。意味は両者で共有されるまではどこにも存在してなどいない。

思考を才能に言い換えても、言語の優位性は揺るがない。『学問の方法』の中でジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。

才能インゲニウムは言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」

言語を形成するのが才能だと仮定してみよう。では、その才能は何によって形成され高められるのか。もし才能はじめにありきなら、言語は一握りの天賦の才だけに授けられ、ほとんどの人間は今のようにことばを運用することはできなくなってしまう。やはり言語が才能を形成すると考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語によって形成される。考えなくても才能がなくても何とかなるが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


ヴィトゲンシュタインの入門書として書かれた『はじめての言語ゲーム』(橋本大三郎)に次のくだりがある。

「私たちが言葉を話せるようになるのは、言葉を理解したからであって、文法を教わったからではない。(……)そもそも言葉がわからないと、文法を教わることができない」

先に書いた言語と思考の関係は、この言語と文法の関係にも当てはまる。最初に文法があってことばを習得しているのではない。幼児期の言語形成過程を見れば自明の話である。ろくに考えもできず、才能の萌芽すらなく、母語の文法の何一つも知らずに、幼児はことばを必死に聞き、ことばらしきものを必死に発しようとする。ちょうどヒナが飛ぶことの意味を知らないままに羽ばたこうとするように。

このような言語習熟・習得のプロセスや背景にある考え方は、言語以外の学習を下支えしている。思考や才能のみならず、問題解決や情報処理や計画・構想などもことばの技法にほかならない。どんな学習対象であっても、言語の学び方からかけがえのないヒントとインスピレーションが得られるはずである。

以上のように言語の優位性を説いていくと、思考や才能や文法を実現する言語自体はどのように根づき息づくのかという疑問にぶつかる。しかも、言語は共通性と同時に人それぞれの固有性も特徴とする。言語の固有性はどのように形成されるのだろうか。おそらく個人的な経験によってである。ことばは経験と密接につながって個性的になり豊かになり息づいてくる。森有正は『「ことば」について』の中で次のように語る。

「(……)経験ということが問題になるその発端からすでにことばそのものなのである。我々にとって、現実そのものが経験を定義しているが、その経験はことばを定義していると言えるかもしれない。また経験はそういうことばを通してのみ成立するとも言える。(……)経験そのものがことばによってはっきりして来る。ことばは経験とは別の、単なる手段ではなく、もっと経験にとって実質的な何か、我々がそれを操作し、それを生きることによってのみ、経験自体が成立する(……)」

ともあれ、ことばが何か別のための手段などと考えないほうがよい。手段と見なしているあいだは経験と一体化しないし、思考と分断されたままになるだろう。ことばは生きることそのものであり、森有正的に言えば、「経験とことばとは同時的であり同一物なのかもしれない」。少なくとも、思考は先験的でもなければ突然変異的な作用でもない。思考はことばを日々駆使する経験の延長線上に現れる一つの行為にほかならない。

名乗り方

人は自分のことがわかっているような気になっているが、いったい自分が自分であることの証とは何だろう。おそらく他人に対してアイデンティティを明かす時に自分が強く意識されるかもしれない。初対面の他人に対して自分を名乗る。ふつうは自分の姓名を告げるが、これで身分証明ができているわけではない。したがって、名前を肩書や帰属先で補う。たとえば「○○です。株式会社△△で営業課長をしております」。順番は変わることがある。「株式会社△△の営業課長の○○です」という具合に。組織の屋号・肩書・姓名の3点セットである。しかし、はたしてこの名乗りで自分が何者かが他者に伝わっているのだろうか。

「国会議員です」と名乗るのと「紳士です」と名乗るとは自分の捉え方が違っている。名前を告げた後に「私は紳士です」と自己紹介した人に会ったことはないが、初対面でどこどこの誰々と言われてもその真偽は不明である。つまり、どんな名乗り方をされても「自称」に過ぎない。それが公称でもあるかどうかはしばらく付き合ってみないとわからない。ならば、「自称紳士」もあながちありえない話ではない。

アイデンティティの伝え方にもう一つ有力な方法がある。「~ではない」と言ってみるのである。「○○と申します。決して怪しい者ではありません」。相手に信じてもらえるか怪しまれるかは別問題として、「~ではない」と告げることによって少しは自分をあぶり出せるかもしれない。「サラリーマンではありません」であれ「怪しい者ではありません」であれ、「~ではないこと」を伝えるのも一つの身の証し方ではある。

政治家と紳士、どちらの「個体数」が多いだろうか。微妙である。紳士のほうが多いような気がするものの、現実によくお目にかかるのは政治家のほうで、紳士にはめったに遭遇しない。また、政治家でありかつ紳士である確率はかなり低そうである。だから、ジョークが一つ成り立つ。

「彼は紳士ですか?」
「いいえ。政治家です。」


経営者が「株式会社△△の代表の○○です」と社名と肩書を名乗ったら、その個人のアイデンティティが証明されたと言えるのだろうか。アイデンティティには生業なりわいとしている専門性あるいは得意分野も欠かせないはず。代表だからといって経営ができるわけではないのだから。組織を率いる人、あるいは組織に帰属する人は組織の名称とその組織における肩書を名乗るが、何を得意としているかが不明なことが多い。他方、組織に帰属するしないにかかわらず、プロフェッショナルを任じる人は何ができるのかを必ず名乗ることになる。経済評論家、医師、詩人、弁護士……などである。コンサルタント、フィナンシャルプランナーなどのカタカナの肩書もある。

資格系の肩書や身分は、原則〈自称=公称〉でなければならない。弁護士をはじめ、公認会計士、栄養士、司法書士、消防士、建築士など「士」で終わるプロフェショナルがいる。他に、「師」で終わる医師、教師、調教師、薬剤師らにも資格の裏付けがある。もっとも、「~師」には無資格でも名乗れる例外が多々ある。たとえば、ぼくは講師と呼ばれることが多いが、過去に資格を取得した覚えはない。漁師や尊師や占い師は任意性である。自ら名乗ることはめったにないが、詐欺師や山師というのもある。講師と呼ばれて時々詐欺師や山師のグループに振り分けられたような気がすることがある。

思想家はあっても思想師や思想士、思想者、思想官などは見聞きしない。「~家」というのは、さすが家だけあって奥行きを感じさせる。小説家、舞踊家、作曲家、脚本家、建築家、書家……。そうそう、富裕層を思わせる資産家や蒐集家というのもある。書評家は職業だが、読書家は趣味のニュアンスが強い。著作家ではなく著述業と名乗る人もいるが、家が業になると、営みの色が濃くなるような気がする。

何一つ資格を持たずにプロフェッショナルの下座に着いてきた身としては、「~家、~師、~士、~業」で終わる職名につねに違和感を抱いてきた。そこで一計を案じることにした。「~人」と名乗ってしまうのである。歌人、詩人、職人のように、企画人や発想人と自称してみる。この二つの名称を併せて「アイディエーター」とカタカナの肩書を数年前から背負ってきたが、ニュアンスは「~人」である。芸人や浪人や犯人と同じグルーピングになるが、気に留めないことにしておく。

見聞雑記

備忘録 なぜノートを書くのかと問われれば、「考えるため、考えを明快にするため」と答える。記録していればいつでも読み返せるが、ぼくにとってそれは目的ではなく「おまけ」のようなものだ。備忘録ということばがあるように、忘れないために書く人もいる。

熱心にメモを書く男性がいた。何でも書く。ところが、いくら書いても重要なことはすっかり忘れてしまう。記録するから安心して忘れるのか、それとも書くこと自体が惰性なのか。彼は書いてしまうとほとんど読み返さなかった。読み返すことを忘れてしまった。考えもせず記録するだけで読み返しもしなければ、記憶に残るはずがない。無機的に書いて、書いたものを思い出すきっかけもないから備忘になっていない。“To do list”で仕事やアポを一覧化すればと勧めたが、書いたものを引き出しの奥にしまい込んでチェックしないから、まったく効果がなかった。

一般 しっくりこないことばに一般人というのがある。「芸能人Kのお相手は一般女性」というあれである。一般という表現に意外感のニュアンスが込められている。一般の対義語は「特殊」なので、芸能人なら「特殊女性」と一緒になるのが通念なのだろう。そう言えば、島田紳助も引退時に「明日からは一般人ですから」と言った。一般的な話になるが、一般という表現の使い方は微妙であり、わかったようでわからない。

盗塁 ここ一週間、ワールドベースボールクラシック(WBC)を観戦している。ゲスト解説が原辰徳、しかも盗塁の場面になると、野村克也の揶揄を思い出す。原、当時読売巨人監督。野村、当時東北楽天監督。交流戦の9回裏ツーアウト、ランナー一塁、巨人の攻撃場面。スコアは42で巨人劣勢。原は2点差なのに一塁ランナーを果敢に盗塁させた。セカンドベース前でアウトになり試合終了。試合後、野村は記者団の前に現れ、メロディを付けて「 バッカじゃなかろか、ルンバ」とコメントした。同業者をこのように小馬鹿にするのはなかなかできるものではない。

一番 時々「一番論と唯一無二論」の話題が出る。ご存じ、ナンバーワンかオンリーワンかという話である。一番も唯一無二にも縁がないのでさほど関心はない。「二番じゃダメですか?」というのもあったが、何を戦っているか次第。一番と二番に圧倒的な差異を認める世界もあれば、僅差と見てくれる世界もある。予選上位2名が準決勝進出なら、無理して一等を狙うこともない。数年前のコマーシャルに「一番売れているものが一番おいしい」というのがあった。くだらないし情けない。一人前を作るよりも四人前を作るほうがおいしい料理があるし、大きな樽で熟成させるワインが味わい深いということはある。しかし、量的販売指標と美味には何の関係もない。よく売れるのは人気があることの証明ではあっても、おいしさを保障しているわけではない。

服装 この時期はまだいいが、3月末から4月中旬あたりの装いは難しい。寒暖対応とファッション性を重んじるむきには、何を着るかは悩ましいに違いない。服装にはまったくかまわないのを「無頓着」と言い、かまうのを「頓着」という。頓着とは執着やこだわりのこと。このことばはまるで服の着飾り専用に作られたかのようだ。服装は目に見える。目に見えるものばかりに頓着していてはいけないのだろう。

「そう、確かに、見かけと中身とは往々にして似ても似つかぬ。人はいつでも見た目の美しさに、つい欺かれるもの」
(シェークスピア)。

ダ・ヴィンチからガウディへ

2011年のノート3冊のうち1冊を捲っていたら、最初のほうのページにレオナルド・ダ・ヴィンチの、最後のほうのページにアントニ・ガウディのことばの引用を見つけた。そして、あれこれと考えを巡らしてみたのである。

数日前、食後に入店したカフェの壁の一部が鏡だった。その鏡に掛け時計が映っていた。鏡は実像の左右を反転させて虚像を映し出す。暗号の解読ほど手間取らないが、反転時計の長針と短針の位置関係にやや戸惑う。しかし、これが文字になると判読にさらなる時間を要する。漢字ならまだしも、アルファベットで書かれた文章には辟易する。

左右反転の鏡面アルファベットで手記を綴ったのがレオナルド・ダ・ヴィンチだ。鏡面文字で書いた謎をひも解いてみよう……などとは思わなかったが、久々に手持ちの本を拾い読みしてみた。この写真の手記はイタリア語で書かれた鏡面文字である。イタリア語も他の欧米語も左から右へと横書きされる。この左右反転文字は右から左へと書かれている。右端が揃っていて左端が不揃いだから、右端が行頭だということがわかる。

ダ・ヴィンチは手記のほとんどをこんなふうに書いている。しかし、左から右へと通常の体裁で書いた自筆がないわけではない。それがこれだ。ミラノのスフォルツァ公に自分を起用してくれと陳情した「売り込みの手紙」。さすがに鏡面文字は意味伝達して訴求するには適さない。常識を心得て、読みやすい文字でしたためたのだろう。鏡面文字の身上書を提出していたら、間違いなく書類選考で落とされたに違いない。


ダ・ヴィンチの手記に意味難解な一節がある。

「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」

感性には主観が入り込む。だから生活の場である地上では感性が主役となる。これに対して、理性は観照する。主観を交えることなく冷静に観察するから、個人的な事情から離れて物事の意味が明らかになってくる。感性の外は天空が開けている場所だ。そこから理性が全体の何もかもを俯瞰している……この一文からこんなイメージが湧いてくる。

アントニ・ガウディも感性と理性を対比している。

「われわれ地中海人の力である想像の優越性は、感情と理性の釣り合いが取れているところにある」

これはラテン系のスペイン人とは違うカタルーニャ人のプライドを示している。ガウディは感情(または感性)が豊穣であることを必ずしも好ましいと考えていなかった。ダ・ヴィンチ同様に、ガウディもまた理性という天空からの俯瞰、あるいは自然を眺望することを拠り所にしていた。「自然は偉大な教科書である」ということばがそれを現わしている。サグラダファミリアは自然の模倣である。そして、自然を切り取ったハサミ、それが理性だったのである。

自然と調和する、あるいは自然の中に人間との調和的な要素や「模範解答」を求める。この作業は感性の仕業と言うよりも、きわめて理知的な行為なのである。人がありとあらゆる経験と知識を駆使しなければ、自然から教えを乞うことはできないし、自然を取り込んで人工物として再現することはできないだろう。人工物のほとんどは自然の模倣であり、よく模倣された人工物に対しては自然のほうがそれに調和するようになる。サグラダファミリアは自然の姿と写像関係にあって、自然の鏡像として眺めることができるかもしれない。

紀行からのインスピレーション

台詞せりふばかりの小説は読みづらい。地の文ばかりでも退屈する。活字を追う上で状況説明は不可欠だが、ほどよい会話のやりとりがあってこそ変化が生まれる。脚本が演劇になると地の文が消える。しかし、地の文が消えても、眼前の視覚的場面が意味を与えてくれる。観客は舞台俳優の会話に集中しながらも、語られない地の文を「視覚的に」聞いている。

紀行と言えば紀行文、あるいは旅日記と相場が決まっている。ゲーテの『イタリア紀行』にならって、以前本ブログで『イタリア紀行』を54回にわたって書いたことがある。撮ってきた写真をさほど慎重に選別せずにあしらい、見た所感じたことを綴ったが、台詞はほとんどなく地の文ばかりの体裁だった。

パリ滞在記もしたためるつもりで準備を始め、サンマルタン運河【写真】から文を起こそうと思っていた。しかし、現地で交わした会話の頻度はイタリアのそれにはるかに及ばない。風景を描写し、運河の由来とエピソードを拾い、印象を記しておしまいになりそうな予感がして保留したままになっている。

最近は映像版紀行をテレビでよく観ている。映像になっても文章と大差はない。そこに地の文としてナレーションが入り込む。ナレーションの文やナレーターの声は紀行作品の質を決定づける。なくてもよさそうなナレーションが入り込んでくると、映像に凝らした工夫が台無しになることさえある。ナレーションにこれぞという表現――ちょっとメモしておこうという気になるもの――にはほとんど出合わない。印象に残るのは街に暮らす人たちの語りであり、地の生活の行間に浮かび上がる生き様である。


先日、イタリア北東部の都市トリエステの旅番組を観た。海岸と海水浴を楽しむシニアが映し出された。海水浴場は銭湯みたいに壁で男女のゾーンが仕切られている。せっかく夫婦で来たのに別々に遊泳し日光浴するのだ。女の一人が答える、「別々のほうがいい。男たちときたら、話すことはいつも三つ。サッカー、女、自慢話」。トリエステだけに限った話ではない。イタリア全土の男のステレオタイプが浮かび上がる。これをナレーションで説明してしまったら迫力不足、いや、野暮である。

別の日、『ヨーロッパ鉄道の旅』でポルトガル紀行を疑似体験した。塩田を訪ねる場面がある。働き手は言う、「ここで生まれたらこの仕事をするんだよ」。塩づくりに従事するのは他に選択の余地のないさだめ。それをさらっと言ってのける。別のシーンでは二人の婦人が頭に大量の洗濯物を載せて洗い場へと向かう。おそらくその毎朝の役目に疑義をまったく挟まずに受容している。ずいぶん昔から一般の女性はおおむねそうして生きてきた。洗い場まで出掛けて洗濯するという家事もまたさだめなのである。

運命に従う、あるいは運命をあるがままに生きるということが普通である世界と、ぼくたちのように、必ずしも世襲や土着という境遇や運命に縛られずに多様な選択の機会に恵まれる世界がある。一般的にぼくたちのほうが自由度が高いと言われるわけだが、はたしてそうなのだろうか。運命に抗って自由な選択に生きるにも覚悟が必要である。幸せになれるかもしれないが、落胆の終幕を迎える確率も大きい。世襲や土着の縛りから解放された自由は、同時に不安定という重い荷物を背負う。

遠い外国への旅から疎遠になった今日この頃、他人が旅する紀行で旅した気になっているが、リアルな旅とは異なるインスピレーションに恵まれることに気づく。バーチャル体験侮るべからず。バーチャルは「仮想の」と訳されるが、元々は「事実上の」という意味なのだから。他人の旅を間借りしていても、そこに今生きている自分が重ね合わされるのである。

情報の伝え方

新聞やウェブページ、その他のメディアを問わない。紙でもデジタルでも話は同じである。文章や写真などの情報は一つのまとまりのある「面」として伝達される。その面を便宜上「紙面」と呼ぶことにする。紙面の主役は文章である。読み手に伝わらなければならない。しかし、文章のわかりやすさや適切な表現という質だけが伝達を担うわけではない。むしろ、見出しや本文の位置関係のほうがメッセージの意味や伝達の精度に大きく関わることがある。ものは言いようであるが、ものは並べようでもあるのだ。

一ヵ月以上前の新聞記事を見て「凡ミス」に気づいた。大見出しは「ジャマイカリレー金剥奪」。副見出しが「薬物陽性 日本、『銀』繰り上げへ」である。大見出しと副見出しから、昨夏のリオ五輪を即座に連想する。リオ五輪の100㍍×4の優勝チームはジャマイカである。そして、日本はジャマイカに次いで2着になり、銀メダルを獲得した。あのゴールシーンは今も記憶に新しい。「銀の日本が銀に繰り上げ」とは変だ、金に繰り上がるのではないか……ひどい凡ミスだと判断したのは、実はぼくの早とちりであった。しかし、早とちりさせた主たる原因は記者と編集者のほうにある。

本文を読めば、「ウサイン・ボルト(30)を含むメンバー全員の金メダルが剥奪」とある。ボルトの年齢は現在の年齢である。だから今の話だと思う。さらに記事は「処分が確定すれば銅メダルだった日本が銀メダルに繰り上がる」と続く。「おいおい、リオでの日本は銀メダルだったではないか」とぼくが反応するのも無理はない。


「日本のリレーチームの銅は北京だったはず。次のロンドンはたしかメダルを取っていない。半年前のリオは銀である」などと思いをめぐらしていて、はたと気づいて写真説明文を読んだ。「北京五輪の陸上男子400㍍リレーで金メダルを掲げるジャマイカチームの……」と書かれている。ここでやっとこの記事が8年半前のレースのことについて書かれていることがわかったという次第。この時点で記事全体を俯瞰的に見渡したら、大きな見出しの下に申し訳程度に但し書きされた「北京五輪」という文字が目に入った。

周知の通り、再検査したところ、北京五輪当時から保存されていた検体が薬物陽性反応を示したのである。そんな長きにわたって検体が保存されているなどとは知らない。仮に知っていたとしても、ロンドンを飛び越して北京まで遡る金剥奪の話だとピンとくる想像力を持ち合わせていない。ぼくの想像力・理解力の問題ではない。この記事には紙面づくりの決定的な問題があるのだ。「金メダル剥奪」というテーマにとって最重要のキーワードは「北京五輪」なのであり、さらに親切に書くなら「2008北京五輪」とすべきだった。これが大見出しに含まれるべきだった。日本が銅メダルから銀メダルに繰り上がる情報よりも、目立つ場所に配置されてしかるべきなのである。

「見出しの下にちゃんと北京五輪と書いてあるではないか」という言い訳は通用しない。鳥の目で紙面全体を見渡してから記事を読むわけではないからだ。「見出しから本文へ誘導せよ」というのは記事や広告のセオリーである。見出しで何について書かれているのかがわからねばならない。紙面づくりに携わる者は、文章を綴ることに躍起になる。しかし、どんなに文章を分かりやすく書いても、置き場所が不適切であれば、記事全体の誤読が生じる。情報が氾濫して個々の情報価値が低減する時代、紙面を読ませるには新しい一工夫が必要になっている。

日常の周辺

物持ちがいい男がいた。仕事上の書類であれ、どこかでたまたま手にした物であれ、何でも残していた。本来、物持ちとは長く大事に使うこと。しかし、彼は使いもせずに取って置くことのほうが多かった。ある時、習慣的に物を残しておく執着心がよくないと気づいた。執着心を消そうと一念発起し、所有するものを一つずつ順に捨てていくとスペースと余裕が生まれ、ほっとしたようだった。ほっとする? ほんとうにそうだったのだろうか。何が何でも捨てるのだという頑固な決意と物が減っていく現象とは裏腹に、化け物のような残滓ざんしの幻影が見え隠れした。


これがいいあれがいいという選択肢狭まる日々に必然を見る / 岡野勝志


ぼくの散歩道に公園はある。しかし、広場がない。ヨーロッパの都市にはそこかしこに大小様々の広場があり、教会や塔が建っている。遠目にランドマーク頼りに広場に足を踏み入れることもあれば、敷石の細い舗道を曲がると忽然と広場が現れることがある。人々が三々五々集まり、そぞろ歩きして通り過ぎ、佇んで談論するような広場は、残念ながらぼくの街にはない。公園はあるが、広場のような主役の座にはない。広場は街の中心であり象徴なのだ。そこに住まうことを決意した拠り所の一つとして存在し続ける。


「この仕事は宝くじと同じで、当たるか当たらないかわからない」と誰かが言った。正しいアナロジーではない。宝くじを比喩として持ち出すのなら、こう言うべきである。「この仕事は宝くじと同じで、当たらない」。


Xには手間暇がかかる。明けても暮れても画策しなければならない。なぜこんな面倒なことをするのか。Xは人心の疲弊を招く。人生にXをしている余裕などない。単純明快に事をおこなうのに精一杯だ。X相反する二つのシナリオを求める。シナリオは一つのほうがわかりやすい。Xには、偽善、嫉妬、保身、計略、儀礼などが代入できる。


かれこれ30年近くいろいろな勉強会を主宰してきた。勉強会後の懇親会によさそうな店を見つけるのが癖になっている。わざわざ探しに行くわけではないが、近場で通りすがりにリーフレットやショップカードをもらってくる。

パーティー・歓送迎会の予約承ってマス

「マス」などと書いてある店を予約しない。店にも入らない。これは店探しのキャリアに裏付けされた直感の成せる業である。