心の機微と表現

感情を型通りの形容詞で表わして事足りることがある。もう一工夫の余地無きにしもあらずだが、たいていの場合、ふとひらめいたことばでやり過ごす。他方、大雑把な感情表現では物足りなく、心の機微を何とかして紡いでみたいと思う時もある。しかし、溢れるほど豊かな表現群に恵まれているわけではない。あり合わせの語彙からやむなく一つ選ぶことになるが、書いた文章を読み返し、あるいは話したことばを振り返ると、言い尽くせていないもどかしさに苛まれる。さほど高尚でもないものの、複雑な思いがよぎるのは日常茶飯事。それを一言で仕留めるのは厄介である。

語彙増強という手段があるが、辞書で覚えてもことばが増えるわけではない。ことばは相互に依拠してネットワークを形成するので、単純に語数を増やして活用できるものではない。外国語の学習でさんざん味わってきたことだ。言語表現は知識であると同時に経験でもある。おびただしい場面で何度も聴き読み、ぎくしゃくして間違い、再試行を繰り返してようやく思いと合うようになっていく。但し、あくまでも「だいたい合う」ということに過ぎないから、表現の工夫や努力に終わりはない。

春に爛漫に咲き誇る対岸の桜景色を見て「美しい」と感嘆し、夏に向日葵畑の壮観を「美しい」と形容する。異なる景色なのに、どちらも美しいでいいのか。向日葵の群生に美しいという表現はふさわしいのか。気分と見ようによってはユーモラスと言ってみたい時もある。対岸の桜の美しさと和室の一輪挿しの美しさは同じではなく、厳密に言えば、観賞する者の心の機微は異っているだろう。


美しいという表現が万能でないことは百も承知だ。できればその時々の思いに忠実な言い換えをしてみたい。古いトラベラーズノートに走り書きした「美しいベルガモの城塞跡」というメモがある。いま読み返してみて落ち着かない。この風景は、美しいという一語に収束できない心象風景を描き出していたのだから。

心の機微をことばに置き換えるなどと言うのは簡単だが、モノとしての本を見て本と表現するのとはわけが違う。本はずっと本や書物と言い続けて問題はない。しかし、思いや感じることをいつも同じ表現で割り切っていると、心の機微のほうが粗っぽくなるような気がしてくる。語彙やことばの組み合わせが欠乏するとコミュニケーションに支障を来すのみならず、心の内の起伏や濃淡感覚を失いかねないのである。

「言葉の邪魔の入らない花の美しさ」こそを感じなければならないと小林秀雄は言った。花のみならず、風景にも人にも、間に合わせの表現を介入させてはいけないのだろう。書いてみて言ってみて落ち着かないのなら……美しいということばよりも感覚が捉えている美しさのほうが純度が高いのなら……いっそのこと黙っているのがいいが、黙ってそこに居合わせてただ体感だけするというのはなかなか厳しい。つい「美しい」と感嘆を洩らしてしまう。美を感じることには黙るという忍耐を身に付けねばならないのだろう。言い飽きた、聞き飽きたと感じた瞬間、心の機微を機械的に形容詞で表わそうとする惰性に流されず、じっと黙るか、さもなければ、ありったけの脳内辞書をまさぐってみるべきである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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