表示のクオリティ

分厚い電話帳が活躍した時代、「あ」で始まる社名を付ける会社が多かったという話を聞いたことがある。あれは本当だったのだろうか。名前は「あいうえお順」に並ぶから、確かに「あ」で始まる社名は最初のほうで出てくる。しかし、社名や職業を1ページ目から検索するのは非現実的だ。知り合いに姓も名も「あ」で始まる女性がいたが、後で聞けばペンネームだったそうである。そして彼女は言った、「検索しやすいですからね」と。しかし、今は昔。PCやスマートフォンで検索するのが当たり前になった今、「あ」や「A」に名前の優位性があるとは思えない。

ネーミングは侮れない。一目見て覚えやすい名前は何かにつけて有利だ。また、おおむね短い名前のほうが長い名前よりも親しみやすい。聞きやすく読みやすい名前はそうでない名前よりもわかりやすくて覚えやすい。こういう視認性や可読性がセオリーとして広まると、短くて読みやすい名前が増える。ここに言いやすさが足され、ついでに検索しやすさが考慮される。だが、どれもこれも似たり寄ったりの名前が氾濫することになる。つまり、差異化したつもりが、期待したほどの効果なしという結末。

〈千年ロマンへと想いをはせ、海の幸、山の幸、自然豊かな宇佐のチカラの恵みを未来へと紡ぎ広める条例〉

昨年暮れにこんな条例が生まれた。大分県宇佐市議会が本会議で全会一致で可決した、日本一長いと思われる名称だ。誰も覚える気にはならないが一応差異化はできている。ユニークゆえに話題性はある。それが証拠に新聞で取り上げられた。そして、覚えていなくても、「宇佐」や「条例」で検索すればヒットするだろう。やがて「千年ロマン条例」と略され、宇佐という固有名詞は抜け落ちるかもしれないが……。


仮にネーミングで成功したとしても、成功を台無しにしてしまう要素がある。表示のクオリティだ。名前なら文字のデザイン。仮に文字のデザインがよくても看板が劣化すればお粗末になる。名前だけではない。案内の表示にも当てはまる。写真は先日宿泊したホテルの部屋案内表示である。こぢんまりとしたホテルだが清潔感があり、まずまず設備も充実している。この表示を見るまでの印象は悪くなかった。

だが、「ノドリーコーナー」にはがっかりした。謎の「ノドリー」、最初「ドリンクコーナー」だと思ったが、即座に読み解けた。ランドリーの「ラ」の文字と、ンの「`」が剥がれたままになっているのである。このことに気づかない清掃人、ホテル従業員の鈍感はどうだ。いや、気づいているが放置しているのに違いない。案内表示を見くびっていると言わざるをえない。

「アダルト」という名のごく普通の喫茶店がある。この名前を見て一見の客は入店をためらう。どんなに店構えが立派でも、コーヒーが飲みたくて死にそうでも、通り過ぎる可能性大である。では、店名を今時はやりのカフェらしくリネーミングするとしよう。それでもなお、この店のテントは「café」の文字の「é」が剥がれて欠損し、「caf」になっている。名はクオリティの象徴であり、名を伝える表示もクオリティを担う。こんな表示を放置したまま営業している店のコーヒーがうまいはずがない。店でリラックスしてコーヒーを飲む自分の姿が想像できないのである。

覚えやすく発音しやすいだけでは不十分。文字にも留意しなければならない。ことばを無神経に使えば命取りになる。名の失態は実のイメージを損なうのである。ヨハネによる福音書を思い出したので、最後に引用しておきたい。

初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。(……)
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった(……)

やればできる??

味も素っ気もなく夢も希望もないことを書くが、「やればできる」などと根拠なく自他ともに励ますのはやめたほうがいい。「できないことは、やってもできない」のほうがずっと確かなのである。やってもできなかった件数はやってできた件数を圧倒的に凌ぐ。経験的に自信をもって証言できる。

「できる」とは諸々の資質、努力、能力の絶妙な組合せの結果である。いま「諸々の」と書いたように、「できる」に到った要因を、または要因の組み合わせ方を特定することはほとんど不可能だ。成功の秘訣や鉄則などについて書かれたハウツー本は後を絶たないが、秘訣や鉄則が理解できて誰もが真似できるとするならば、そういう類いのことをもはや「できる」などとは言わない。「歯を磨くことができる」などと大人が自慢したら滑稽ではないか。その行為に「できる」の出番はない。大人はただ「歯を磨く」にすぎない。

意を注ぐべきは「できないこと」のほうだ。いま、自分は「できること」を目指して何々をしている……けれども、意に反して、うまくできない。この時のできないという自覚と原因の分析が「できる」へのヒントになる。できることへの熱っぽさに比べて、できない理由を明らかにしようという思いは冷たい。ただやみくもに試行錯誤するだけではいかんともしがたい。やがて、できそうもないことを薄々感じ始めると、できない理由を探ることもなく、「実は、これはできなくてもよかったのさ」と自分を納得させて幕を引くことになる。


誰がやってもできることに目を見張るような価値はない。めったにできないからこそ「やれば」という仮定が成り立つ。たとえば企画を志す人たちに断片的なことでもいいから日々書きなさいと助言する。読み聞きしたこと、考えたことをノートに書くのに才能はいらない。しかし、継続の難しい習慣的行為である。だから、啓発にあたって一度も「やればできる」などとぼくは言わない。試みてもそう簡単にできないことを知っているからだ。三日間ならできるかもしれない。しかし、一ヵ月、三ヵ月と続けるのは百人中二、三人いるかいないかだ。対象が何事であれ、「やればできる」と鼓舞する側に根拠らしきものはなく、たいていの場合、から元気な励ましで終わる。事の難しさをよくわきまえて「やっても容易にできるものではないが……」と補足しておくのが良心というものだろう。

元々「やればできる」にはできるという意味合いは乏しい。できるという確信があれば、わざわざ「やれば」という仮定をすることもない。できることよりも、実は、「やれば」の「やる」のほうに意味がある。「やれば」には、めったにやり遂げられない困難さが前提されているのである。困難なものを「できる」というのはある種の欺瞞ではないか。かつて著名な占い師が「努力すれば金メダル」と選手に告げた。やればできると同じ構造である。但し、この占いは絶対に的中する。もし金メダルを獲得したら努力をしたからであり、金メダルを逃したら努力が足りなかったからという理屈がつく仕掛けだ。努力の度合については言及されず、できる・できないに焦点を当てている。

宝くじのことを考えてみればよくわかるはずだ。買わなければ当たらない。つまり、当たるためには買わねばならない。しかし、「買えば当たる」の何と心細いことか。やらなければできない。できるためにはやらねばならない。ここまではいいが、この先の「やればできる」に無理があることがわかる。論理を飛躍させること、いや、もっと言えば、あまりにも現実味のないことをスローガンにして自慰するのはやめよう。もちろん恣意的に偶発的にできることはある。やらなくてもできることが稀にあるだろう。しかし、やってもできないことの蓋然性の高さを心得ておくべきである。

できる・できないの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」のほうが意味を持ち始める。励みとすべきは、「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」というレオ・バーネットの至言である。

写真からの連想

目まぐるしく過ぎたこの一週間。しかし、隙間の時間はあるものだ。ちょっとした隙間にメモしたり写真を撮ったりしている。なぜこれを書いたのか。記憶を再生できないメモはあるが、写真には記憶がくっついていることが多い。記憶がよみがえり、それだけで終わらずあれこれと連想することがある。


衝動で買って手元にあるのだから、これが何かはわかっている。わかっているが、今こうして見てもすでに知ってしまったその名前となかなか一致しない。以前誰かにもらってまだ封を開けていないヒノキのチップにそっくり。風呂に入れたら大変なことになる。これはキャラメル味のココナツである。見た目以上に美味だ。小皿にいくつか置いて「お一つどうぞ」以外に何も言わずに差し出してみよう。いったい何割の人が一粒つまんで口に放り込むだろうか。キャラメルコーンを食べるのに勇気はいらない。キャラメルココナツには、いる。


パワーポイントのクリップアート素材を漁っていたらカジュアルな読書人の写真に出合った。いや、これは読書ではなくて朗読しているのではないかと思い直す。そうだ、書評会で朗読をしてもらおうとひらめいた。不定期で主宰している書評会では一冊の本を読んでまとめることになっている。読めなかったら発表はできない。しかし、朗読ならできるだろう。本の気に入った一節、1ページだけ選んで読めばいいのだから。見開き2ページなら3分もかからない。聴く方も飽きない。たとえば森鴎外の短編『牛鍋』の歯切れのいい冒頭だけなら30秒で朗読できる。但し、噛んでばかりで流暢さを欠いては台無しである。

鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉のくれないは男のすばしこい箸でかえされる。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろう。晴着らしい印半纏しるしばんてんを着ている。そば折鞄おりかばんが置いてある。 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。


ディベートの試合の審査では「バロットシート」なるものを使う。議論の内容の要点をメモし、争点の攻防をわかりやすくフローの形で再現する。何週間も準備をして試合に臨んでいる人たちのことを思うと、安易な聞き方はできない。全身を耳にして傾聴する。話すスピードは書くスピードよりも速いのが常であるから、書き味のよい筆記具を選ぶ。

ディベート大会では数種類の万年筆と水性ボールペンを用意する。その日の調子と気分に応じてこの一本を選ぶ。これと決めれば一筆入魂である。一昨日の大会では左から二本目のブルーブラックインクのボールペンで書き込んだ。


久々に行きつけの古書店を覗いた。全集のうちの一冊『文体』が新品かつ格安だったので、なまくらにページをめくっただけでさっさと買って帰った。文体というのはすでに比喩された術語である。なにしろ「文の身体」なのだから。自分の姿勢、身体つきを知らないわけではないが、後日講演している写真を見て、奇怪な立居に驚くことがある。文体になると紙に書かれたものと自覚との間にはかなりの落差があるに違いない。自分の文体を意識したことはほとんどなく、またテーマによってスタイルが変わるのを承知しているから、自分流の文体などあるはずがないと思っている。

しかし、ぼくの拙い文章をよく読んでくれている人は、テーマに関係なく、文体があると言う。喜ぶべきかどうか悩む。他人様の文章を読んでいて、退屈するのは文体にではない。明けても暮れても同じような話にうんざりするのである。文体が織り成す文章の中身がマンネリズムに陥らないように気をつけておきたいと思う。

肯定と否定をめぐって

毎年2月に神戸で開催される全国ディベート大会に関わってから今年で8年目になる。この大会は「防災・社会貢献」に関する論題に特化していて、高校生、大学生、社会人がオープンで議論を競う。ぼくのディベートキャリアはまもなく47年。ディベートの研究者でもないしディベートで生計を立てているわけでもないが、現場での指導と審査にはかなりエネルギーを注いできた。〈関西ディベート交流協会〉という非営利組織を立ち上げて活動してからもまもなく28年になる。にもかかわらず、論題の証明・反証の方法について、議論の優劣判断について、まだよくわからない。深いからではなく、議論が生き物であるため理想の定型が見えないからである。

論題というのはテーマだ。テーマだが、「~について」という形式で記述しない。変革の方向性――または価値の大小――をあらかじめ示す。たとえば「わが社は毎朝掃除をすべきである」という具合に。すでに毎朝掃除をしているなら、わざわざこの論題を議論するには及ばない。掃除をしていない、あるいは、掃除をしていても毎朝ではないという現状があるから、それを変えようと提案するわけである。論題にはすでに「一つの答え」が書かれる。その答えの是非を問う。

論題を肯定する、だからその妥当性を立証しなければならない。この立証に対して否定が生じる。この肯定と否定の立場がディベートの論題をめぐる関係図式になる。しかし、先の論題「わが社は毎朝掃除をすべきである」の例で言えば、毎朝掃除をしていない現状があり、それが望ましくないからこそ論題が生まれたのである。「今のままでよい、何も変えなくてもいい」という立場を「推定」という。疑わしきは罰せずを意味する〈推定無罪〉という術語が示す通り、誰も異論を出さなければ、あるいは単に疑わしいと言うだけで問題を立証できなければ、変革などいらないという立場である。実は、この立場が本来テーゼなのだ。これに対するアンチテーゼが論題であり、論題の肯定ということになる。


現状の政策は、かつて別の旧政策だった〈テーゼ〉に対する新しい政策としての〈アンチテーゼ〉であった。しかし、月日が経てばどんな政策も陳腐化し問題を孕むようになる。安住のせいか怠慢のせいか知らないが、惰性のように維持されて今に到る。ここにおいて、かつてのアンチテーゼが検証のまな板に載せられてテーゼと見なされる。そして、このテーゼに対する変革案が論題で謳われ、それを肯定する立場が新たなアンチテーゼとなる。このアンチテーゼが立証されると、テーゼは覆される。覆されてはなるものかとアンチテーゼを検証し反論する。これがテーゼによるアンチテーゼの否定である。ややこしい話のように見えるが、これが弁証法の出発点になっている。

二律背反の論題を一方が肯定し、他方が否定する。いずれの言い分にも理があると思っても、両方は同時に成り立たない。だから、教育ディベートの審査では議論の優勢な者に軍配を上げる。客観的な証拠と説得力のある論拠が優劣を分ける。教育ディベートでは、論題を肯定する側に立つか否定する側に立つかは自分で決められない。コイントスで決まる。個人的に論題を支持していても、50パーセントの確率で否定する側に回る。したがって、主観的な思いを棚上げして、客観的かつ虚心坦懐に論題に向き合い、「相反する命題のいずれをも証明できなければならない」というアリストテレスの教えを実践することになる。

「肯定は立証責任を負うから大変だが、否定はただ反論していればいいから楽だ」などと言われた議論未熟な時代があったのは確かである。しかし、教育ディベートと異なる実社会の議論は必ずしもそうではない。論者は自分の価値観を引きずる。虚心坦懐の心得が難しいのだ。裏付ける証拠が客観的であっても、論拠や理由づけに主観が入り込む。この傾向は、否定言論よりも肯定言論において顕著になる。たとえばお気に入りのスポーツチームが勝つだろうという推論は我田引水になりがちだ。人間には「ひいき」に対して先入観を優先し、疑いを挟まない傾向があるのだ。

論理的かつ分析的な技術を身に付けるには否定することを覚えなければならない。少々自論が甘くても精度の高い否定検証ができれば、テーゼの質を高める作用が働く。別に二者間でなければできないことではない。いや、むしろ一人の人間においてこのような弁証法的思考を身に付けることに議論の意義がある。

時々自虐のすすめ

「あるがままに」などということはほとんど不可能だと思うが、仮にあるがままに現実をすべて受け入れることが可能だとしよう。その時、疑念は生じない。いや、生じさせてはならない。もっとよさそうな現実も想像してはいけない。何も考えず、ずっと今の現実に向き合うのみ。やがて願望も期待も消え去って思考停止状態に陥るだろう。未来の可能性は閉ざされる。翻って、あるがままであることをしばし棚上げしてみる。それは現実に問題――何か変?――を察知することにほかならない。おおよそ変革の発案動機はここから生まれる。発案に便宜上「新しい試み」と名付けておく。

新しい試みは現実の変革を目指す。したがって、そこに弊害が内蔵されているとしても、いきなり未だ見えぬ弊害に神経は使わない。新しい試みを実行した後にはじめて新たな弊害に気づく。気づいて知らん顔すれば、自ら変化を加えた現実をあるがままに受容することになる。それは発案動機に反するから、弊害にはそのつど対処療法を施すことになるだろう。現実の変革、その変革によって生じる新たな弊害、その弊害への対策という企ては、カオスへと向かうエントロピーの法則に似て、とどまる所を知らない。これは、ある種の自虐行為ではないか。

新しい試みに新しい弊害が含まれるというのは、別に稀なことではない。かつて完璧に成された試みがなかったのは、必ず試みの中に弊害の種が内因していたからである。自浄作用は自壊作用を伴う。そして、強引に言えば、自壊作用は何がしかの意志的な自虐作用を誘発する。


現状に対するアンチテーゼを出した勇気を褒めたものの、そのアンチテーゼの抱える新たな弊害を指摘した途端、不機嫌な顔になる。そして、可愛い自分のアイデアを必死に守ろうとする。このようなナルシズムを増長させる理由は何だろう。現状検証という客観的なプロセスを経たことと無関係ではないようだ。独りよがりではないと信じているのである。これでは、あるがままに現実を受容しているテーゼ側と何ら変わらない。

自分大好きというのは、ある意味であるがままであることよりも性質たちが悪い。そもそも自分などというものはないのかもしれないではないか。にもかかわらず、人は自分を発見して自分が好きになる。もっとも自分の発見は自分がよくわかっていることを担保しない。いや、自分をわからないままに発見した気になったから自分が好きなのかもしれない。

「このアイデアは現実のこんな問題を解決する試み。助言をいただきたい」と言うから、「そのアイデアからは新しい弊害が生まれる」と指摘する。ところが、この指摘が、批判ではなく、非難だと受け止められる。褒める人がいい人で、批判する人がよくない人とレッテルを貼られれば、批判指導する立場のはずなのに弱腰人間と化して無難に褒めのほうを選ぶようになる。自己保身のために他人を褒めているにすぎないのである。

辛口派のぼくは本人のことを考えて批判する。出来がよいと判断しても、いくばくかの皮肉や毒舌をからめて評する。長い目で見れば、ほめ殺しよりはよほどいいと経験的に学んできたからだ。自画自賛がまずいとは思わない。だが、自虐的なジョークの一つも挟みながらでなければならないだろう。

テーゼに対して批判するアンチテーゼ人間は己の変革案に驕ることなく、その案に対しても時々自虐的になることを忘れてはならない。自虐的とは自分いじめであり、高く重ねた積み木を崩すような苦痛を伴う。覚悟が必要だ。もし「時々自虐」が受け入れがたいなら、次善策がある。「日々自省」がそれだ。自省の念を込めて締めくくっておく。

木を見る

「木を見て森を見ず」。物事の一部にばかり気を取られると全体が見えなくなるという戒め。早とちりしてはいけない。木を見るなと言っていないし、先に森を見ろとも言っていない。この成句は「木も森も見ておこう」と無難に教えているのである。

木は部分・局所・細部の比喩である。対して、森は大局を意味している。全体を見据えて状況や成り行きを理解し判断するのを「大局観」という。もちろん大局観は身につけたい。しかし、先験的に大局観に恵まれることなど不可能だ。通常、ぼくたちに森が見えることはないし、それで特にまずくなることもない。もし森を見ようとして森深く入り込めば、逆に森が見えなくなる。目の前に樹木の群生は見えるだろう。しかし、それは森の全体ではない。一本一本の木の、いくばくかの集合にすぎない。

ドローン目線で森を俯瞰できたとしても、ぼくたちは環境や生態を判断する材料を持ち合わせていない。せいぜい「鬱蒼うっそうとしている」とか「緑が深い」と感嘆する程度だろう。森が見えずとも、ひとまず目の前の一本の木を見ることに勉め、そのことに満足することから始めるしかないようである。木だけを見ていると森は見えないぞと戒められたが、木を見ることは森を想像できる可能性に開かれている。


昨年暮れに自宅周辺を歩き、力感的な一木いちぼくに出合った。由緒ある神社の樹齢数百年を数える楠と比較すれば見劣りする。見上げなければならないほどの巨木ではないが、数ある樹木の中で自生の造形美が目を引いた。ほとばしる生命力を感じたのは、自分が体調不良だったせいかもしれない。

「強くて逞しい木を見ると抱きつきたくなるのです」と言った女性がいた。幹の胴の一部にしか手を回せないが、それでもエネルギーが十分に伝わってくるのだそうだ。木は気に通じる力を宿すということか。どんな木でもいいわけでもなく、神木でも気に通じないことがあるという。木の枝ぶりや全体の形との相性みたいなものがあるに違いない。

「谺」という漢字がある。「こだま」と読む。こだまは谷間に響く音や声だが、昔は濁らずに「こたま」と呼ばれていたという。「木魂」や「樹神」という字も当てられていたようだ。見慣れているのは「木霊」。いずれも樹木に宿る精霊の表現だという(中村幸弘『読みもの 日本語辞典』)。ピピッとひらめいた木に抱きつく癖があったあの女性は妖精の存在も信じていた。木の精霊を感知することくらい朝飯前だったのだろう。

一本の木が伝えているものを感じ、そこから様々に思いを馳せていれば、やがて大局が見えるかもしれない。木と森の両方を見失うよりは、ひとまず一本の木に関心を払えることを喜びとしておく。繰り返しになるが、木と森は人の見方・生き方の比喩である。

翻訳ソフトの腕試し

ソーシャルネットワーク上にノートルダム寺院の写真が掲載され、フランス語と英語の説明文が付いていた。

Notre-Dame de Paris, un lieu que l’on ne présente plus!
Notre-Dame de Paris: this place needs no introduction!

意味は明らかだが、翻訳アイコンがあったので試しにクリックしてみた。フランス語の訳は「ノートルダムドパリ、私たちはもはや提供していない場所です!」。「私たち」がパリ市か旅行代理店のことか知らないが、もはやノートルダム寺院が見学できなくなったかのようである。英訳のほうは「ノートルダム de Paris: この場所は導入は必要ありません!」  寺院に何かを持ち込もうとしたが、それはわざわざいらないという感じ。仏英の原文ともに「あらためて紹介(説明)するまでもない場所」と書いてあるのだ。この翻訳ソフトなら人間が勝つ。

これと前後して、Googleの翻訳ソフトのAIがかなり進化したという話を小耳に挟んだ。お手並み拝見とばかりに試してみた。なるべく平易で自然な文章を即興で作って入力した。

四方八方からやってくる話題や時事をニュースという。ニュースの情報量は日々ますます増大しているが、何も知らずに日々過ごすよりはニュースに触れるほうがいいかもしれない。【A

入力しているのとほぼ同時進行で英文が現れてくる。その早さに正直驚く。出来上がった英文がこれである。

The topics and current affairs coming from all directions are called news. The information volume of news is increasing more and more from day to day, but it may be nice to touch news rather than spend days without knowing anything.

わかりやすい英語で日本語を過不足なく見事に訳している。正直言って、学生アルバイトが初稿で書く英文よりもよくできている。なにしろ瞬間芸だから、コストパフォーマンスでは翻訳ソフトのほうが上だろう。ちなみに、この英文を同じソフトで和訳させてみた。アワビを干しアワビにして、それを戻せば元のアワビとは違うだろう。そんなふうになると思ったが……。

すべての方向から来るトピックと時事はニュースと呼ばれます。ニュースの情報量は日々増えていますが、何も知らずに日々を過ごすのではなく、ニュースに触れるのはいいかもしれません。【B

話題を「トピック」にしたのには違和感はあるが、「である調」を「ですます調」に変え意味もきちんと伝えていて合格だ。英語を経てもなお、ぼくの書いた【A】とソフトの【B】はほぼ同じ表現、同じ内容を伝えている。以上の日→英→日……の動作を何度か繰り返させたところ、from day to dayday by day、時事→時事通信、current affairs newslettersなどの小さな変更は見られたが、原意はおおむね踏襲されていた。これは侮れないと思った。


この調子でAIが進化していけば、翻訳ソフトは十年、いや数年以内に、囲碁や将棋のソフトのようにプロが舌を巻くレベルに達するのか。そんな想像がよぎったが、ぼくが書いた文章が案外素直で訳しやすかったかもしれないと考えた。そこで、もう一題試させることにした。冒頭のノートルダムのようなでたらめ翻訳文で馬脚を現すかもしれない。

ぼくは一人称単数の表現を状況に応じて使い分ける。

一文目だけを入力したら、瞬時に“I use the first person singular expression according to the situation.”と翻訳された。完璧である。しかし、実はこれに続く次の文章に難しい仕掛けをしたのだ。

ぼくは普段「ぼく」と言うが、友人に対しては「俺」と言う。目上の人や得意先の前では「私」と言う。たまに冗談っぽく「わし」と言ったりもする。

この三つの文章も瞬間芸であった。

Usually I say “I”, but to a friend I say “I”.  I say “I” in front of superiors and customers. Sometimes I say “I” like a joke.

最終文の「時々私はジョークのように私と言う」はおもしろすぎる。いや、全文が冗談になっている。予想通りだった。意地悪されたソフトは、どんなシチュエーションでも自分のことを“I”と言うほかないのである。これは翻訳ソフトの「誤訳」ではなく、今のところ「推論の限界」または「異文化の壁」と言うべきか。ソフトは「ぼく」と「俺」と「私」と「わし」を正しく訳した。しかし、英語の一人称単数は“I”の一つしかない。日本語のそれぞれのニュアンスを伝えるには、英語の表現を増やすか、日本語の表現を、たとえば「私」一つに限定するしかない。すなわち、文化の修正である。それは無理な話。この一例から、人間がAIに追い越されない最後の砦がどこにあるのかがわかるような気がする。

食卓考

食事、食事の場、食文化、共食などのことを書こうとして、ひとくくりにするぴったりのことばが思い浮かばなかったので、食卓としてみた。「食卓考」だがテーブルの話ではない。

イタリアで始まったスローフード運動の前から、仕事は早く食事はゆっくりという主義を貫いていた。男子四人集まってテーブルを囲んだら、食べるのはたいてい一番ゆっくりである。普段は饒舌、しかし食事中は案外寡黙である。好き嫌いはまったくない。ぼくをよく知る人はぼくを食事に誘うにあたって余計な気遣いをするには及ばない。出されたものは、たとえそれが見た目グロテスクな初体験の料理であっても、食べる。残さないで食べ尽くす。食材に対して傲慢になってはいけないと心している。ゆえに、好き嫌いの激しい人と食卓を囲まないわけではないが、眼前で好き嫌いを露わにする人を快く思わない。それを感知する人たちはぼくとの食卓から離れていく。来る者拒まず、去る者追わず。

食事はみんなで和気藹藹と語らいながら食べるほうがおいしいという定説がある。必ずしもそうではない。話が弾んだのはいいが、何を食べたかうろ覚え、しかもせっかくの料理の味も十分に堪能できなかったということがよくある。一緒に食べるからうまくなるのではない。一緒だから会話と場を楽しんでいるにすぎない。小雪舞い散る寒い日に、今夜はみんなで鍋を囲もうと思う。こっちがご馳走するのだから、何鍋にするか自分で決めればいいが、先に書いたように、人には好き嫌いがある。温情をほどこすつもりで聞いてみると、あれは苦手、それは嫌い、これがいいと好みが割れる。ならば別の機会にということになり、結局、捌き立ての旬の真鱈の一人鍋を食べる。鱈で腹が膨らんでたらふくになる。


ろくに喋りもしないのに打ち合わせと懇親会の好きな男がいた。得意先に打ち合わせをしようと自分から声を掛ける。その後に親睦を兼ねて接待的な場を設ける。これが狙いだ。食事にはお疲れさまの意味もあるが、彼にとってはほっと溜息をつく「逃げ場」だった。仕事から離れるので雑談が交わされるが、適当に聞き流しながら、時折り社交辞令的なうなずきと作り笑いを挟みつつ、黙々とビールを飲み箸を動かすばかり。接待などしていなかった。食事は自分を労う息抜きの場であった。

続いて腹一杯の状態で二次会へと向かう。六千円のリーズナブルな会席料理の後に、ピーナツとおかきをつまみながらカラオケ三昧。支払いが会席料理の倍額というのも稀ではない。「親が死んでもじき休み」という言い回しがある。次に何があろうと、たとえどんなに忙しかろうと、食べた後は一休みせよという教えである。この原義の他に、ご馳走の食後感という余韻に浸るという解釈を付け加えておきたい。食事前の「おいしそう」、食事中の「おいしい」、そして食後の「おいしかった」で食卓の満足が完結する。ぼくはそう考えている。

食卓の味わいは料理への集中力によって深まる。五感を研ぎ澄ますべきである。会話を交わすことを排除しない。しかし、料理の価値を減殺するようなお粗末なお喋りは集中力の邪魔になる。年に数回、十数人に囲まれる懇親会に出席する。主賓の栄誉に浴するものの、矢継ぎ早の質問に答えるばかりで、ろくに食事を楽しめない。豪華な料理の下手な共食は一人の粗食に劣ると実感する瞬間である。

感覚から知覚へ

ある日の述懐。

昨日は薄ら寒かった。気象予報では今日のほうがさらに寒いらしいが、朝に公園を横切ると陽射しがあって昨日ほどの寒さを感じない。予報に反して暖かいではないか……とつぶやく。しかし、ちょっと待てよ。
その予報に備えて、ぼくは昨日よりもしっかりと着込んで自宅を後にした。マフラーもしているし、昨日のコートよりもやや厚手のものを着ている。昨日はスーツだった。今日は普段着姿、タートルネックで首元も防寒している。気象予報が正しいなら、今日は昨日より寒い。だが、ぼくの装いが昨日と違うではないか。
もし季節の移ろいに敏感であろうとすれば――感覚を研ぎ澄まそうとするならば――いつも同じ格好、同じ体調に整えておくのがいい。外部環境に対して鋭い感覚を保ちたければ、外部環境を先取りして適応などしてはいけないのである。

〈感覚〉は環境や事物の写し取りである。見たり聞いたり触ったりして、情報を極力素直に受け入れる働きである。感覚にはどうやら他人や世間の最大公約数、場合によっては、気象庁の予報に合わせるような写実性が求められているような気がする。つまり、感覚の本質には普通や共通が潜んでいるようなのだ。


感覚が人それぞれなら、わざわざ〈知覚〉ということばを使う必要はない。すべて感覚で済ませておけばいいはず。しかし、誰かが「私の個人的な感覚ですが……」などと言う。個人的な感覚という時点で、環境や事物と素直に一体化しようとする感覚本来の働きに反している。そもそも人それぞれの感覚を知覚と呼んだのではなかったのか。知覚は環境や事物の情報を自分の経験や知識に照らし合わせて編集処理する働きである。感覚が対象との一致を目指すのに対して、知覚では対象との不一致や誤差をもたらすような解釈がおこなわれる。〈共通感覚〉という術語はあっても、共通知覚などということばはない。ある人が冷たいものを口にして平気なのに自分は沁みるという症状を知覚過敏という。知覚はセンサー機能の違いを特徴とする。

たった一語、一文でさえ、人は様々に解釈する。一冊の本になれば解釈の揺らぎはいよいよ大きくなる。人それぞれの知覚が経験や知識によって用語、文章、書物を異なった方法で捉えるのである。ことばだから多義性を備えるのは言うまでもないが、同じことは非言語的対象――事物、音、食材など――にも当てはまる。だからこそ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの感覚器官が働いて知覚が個性的になる。今さら確認するまでもないが、音楽を、絵画を、料理をぼくたちが同じ知覚品質で楽しんでいるわけではないのだ。

「人間が世界をどう理解するかは、かなりの程度まで、ぼくたちがその理解に到達するために使う機能と結びついている」(ニコラス・ファーン『考える道具』)

ある意味でこの一文は、カント的な「世界を知覚することは、ある意味で世界を変えること」に通じている。誰もが独自に世界を理解している。世界は誰にとっても同じ感覚で受容されるのではない。感覚と違って、知覚はつねに能動的に働き、感覚より出でて感覚よりも自分らしさを発揮するはずなのだ。

ほんとうに要るのか?

要らないと決めたら処分すれば済む。ある日一念発起して大そうに断捨離を突然決行するまでもない。要・不要を見極めて、暇な折りに少しずつ減らしていけばいいだけの話。と書けば簡単そうに思えるが、当面の必要なものはわかっても、少し先を見通して「要るか要らないか」を判断するのは厄介である。それに、モノの必要価値は、個人だけではなく、家族、会社、公共にも関わることが多い。個人が要らないと言い切っても、家族や会社の誰かが必要とすれば不用品として片付けられない。害獣対策にしても、一気呵成に駆除しないで禁猟区や禁猟期間を定めているのは、自然界の中では人知の及ばない連鎖によって生命が持ちつ持たれつ共生しているからだろう。

「この世に存在するものにはすべて理由がある」という説がある。自然界ではそうかもしれないが、人工物に限れば普遍性に疑問符が付く。誰にとっても無意味で必要性すらまったく感じないのに存在しているものがある。仕入れ過剰で消費期限が過ぎて廃棄される食品にしても、作られた時点では存在理由があったのだろう。わが家にも、必要や願望があって購入されて冷蔵庫に収まっている食品があり、時間が過ぎて捨てざるをえないものがある。買ったのにはわけがあった、しかし、活用されなかった。つまり、別になくてもよかったということになる。

中学生になって初めて手にし、以来半世紀、十数本の万年筆が手元にある。どれにも何度か出番はあった。しかし、お蔵入りせずに済んでいるのは五指にも満たない。なけなしの小遣いをはたいて買ったものも含めて、インクの潤いを与えられない万年筆は今となっては存在理由を失ったかのようだ。但し、それはぼくに対する存在理由である。スペースも取らない道具だから誰かに譲ってあげるという方法で必要性が生まれ復活できる可能性は残っている。


背景の事情はわからない。動機もわからない。また、調べる気もないが、どんな存在理由があり、誰が必要としているのか不明なものがある。建築物に付属して佇み、解せないながらも撤去されずに保存されている無用の長物。かつて赤瀬川原平らの仲間はそんな存在物を「超芸術トマソン」と呼び、盛んに路上観察しては愉快がっていた。最近、週に一度歩く歩道際でそんなトマソンを見つけた。いや、いつも見えていた。正しく言えば、見えてはいたが「なぜ?」と一歩踏み込むような気づきがなかったのである。これがトマソンと呼ぶべき存在だと断定する確証はない。同時に、これがトマソンでないことを示す証拠も理由も見当たらない。少なくともぼくにとっては。

これがその存在である。場所は大阪市中央区。中央大通りと谷町筋の交差点。主要道路である谷町筋と歩道の間に「緩衝ゾーン」のような空間があり、そこに人間の頭部大の石が接着されている。かなりの数である。都会の中に忽然と姿を現わす「石庭」にしては、規則性も情趣も感知できない。車に乗らないので、運転や交通事情にまつわる設置の動機には想像が及ばない。美しい景観のための設えであるはずもない。歩道と道路の間にコンクリートを盛り上げたが、あまりにも殺風景なので、何か造作してみよう……そうだ、石をたくさん置くのがいい、予算も余ったことだし……というふうにしか思えない。

ひときわ目立つ黒いオブジェには少なくとも意味があるのだろうと思い、じっくり見てみた。ここから道路向かい数十メートルの所に西鶴終焉の碑はあるが、そんな歴史を背負う碑には思えない。銘板は見当たらない。きみ、石だけ適当に並べるだけではいかんだろう……芸術の香りもいるんじゃないか……というような次第で黒いオルフェならぬ黒いオブジェを設置したのか。百歩も譲れないが、数歩譲って斟酌するなら、これは何かのおまじないか、あるいは単なる象徴に違いない。おまじないなら交通安全以外にない。もし象徴なら、いったい何を象徴しているというのか。ともあれ、四捨五入すれば、これはやっぱり超芸術トマソン。しかも、かなり手の込んだ無用の長物である。