やればできる??

味も素っ気もなく夢も希望もないことを書くが、「やればできる」などと根拠なく自他ともに励ますのはやめたほうがいい。「できないことは、やってもできない」のほうがずっと確かなのである。やってもできなかった件数はやってできた件数を圧倒的に凌ぐ。経験的に自信をもって証言できる。

「できる」とは諸々の資質、努力、能力の絶妙な組合せの結果である。いま「諸々の」と書いたように、「できる」に到った要因を、または要因の組み合わせ方を特定することはほとんど不可能だ。成功の秘訣や鉄則などについて書かれたハウツー本は後を絶たないが、秘訣や鉄則が理解できて誰もが真似できるとするならば、そういう類いのことをもはや「できる」などとは言わない。「歯を磨くことができる」などと大人が自慢したら滑稽ではないか。その行為に「できる」の出番はない。大人はただ「歯を磨く」にすぎない。

意を注ぐべきは「できないこと」のほうだ。いま、自分は「できること」を目指して何々をしている……けれども、意に反して、うまくできない。この時のできないという自覚と原因の分析が「できる」へのヒントになる。できることへの熱っぽさに比べて、できない理由を明らかにしようという思いは冷たい。ただやみくもに試行錯誤するだけではいかんともしがたい。やがて、できそうもないことを薄々感じ始めると、できない理由を探ることもなく、「実は、これはできなくてもよかったのさ」と自分を納得させて幕を引くことになる。


誰がやってもできることに目を見張るような価値はない。めったにできないからこそ「やれば」という仮定が成り立つ。たとえば企画を志す人たちに断片的なことでもいいから日々書きなさいと助言する。読み聞きしたこと、考えたことをノートに書くのに才能はいらない。しかし、継続の難しい習慣的行為である。だから、啓発にあたって一度も「やればできる」などとぼくは言わない。試みてもそう簡単にできないことを知っているからだ。三日間ならできるかもしれない。しかし、一ヵ月、三ヵ月と続けるのは百人中二、三人いるかいないかだ。対象が何事であれ、「やればできる」と鼓舞する側に根拠らしきものはなく、たいていの場合、から元気な励ましで終わる。事の難しさをよくわきまえて「やっても容易にできるものではないが……」と補足しておくのが良心というものだろう。

元々「やればできる」にはできるという意味合いは乏しい。できるという確信があれば、わざわざ「やれば」という仮定をすることもない。できることよりも、実は、「やれば」の「やる」のほうに意味がある。「やれば」には、めったにやり遂げられない困難さが前提されているのである。困難なものを「できる」というのはある種の欺瞞ではないか。かつて著名な占い師が「努力すれば金メダル」と選手に告げた。やればできると同じ構造である。但し、この占いは絶対に的中する。もし金メダルを獲得したら努力をしたからであり、金メダルを逃したら努力が足りなかったからという理屈がつく仕掛けだ。努力の度合については言及されず、できる・できないに焦点を当てている。

宝くじのことを考えてみればよくわかるはずだ。買わなければ当たらない。つまり、当たるためには買わねばならない。しかし、「買えば当たる」の何と心細いことか。やらなければできない。できるためにはやらねばならない。ここまではいいが、この先の「やればできる」に無理があることがわかる。論理を飛躍させること、いや、もっと言えば、あまりにも現実味のないことをスローガンにして自慰するのはやめよう。もちろん恣意的に偶発的にできることはある。やらなくてもできることが稀にあるだろう。しかし、やってもできないことの蓋然性の高さを心得ておくべきである。

できる・できないの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」のほうが意味を持ち始める。励みとすべきは、「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」というレオ・バーネットの至言である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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