ほんとうに要るのか?

要らないと決めたら処分すれば済む。ある日一念発起して大そうに断捨離を突然決行するまでもない。要・不要を見極めて、暇な折りに少しずつ減らしていけばいいだけの話。と書けば簡単そうに思えるが、当面の必要なものはわかっても、少し先を見通して「要るか要らないか」を判断するのは厄介である。それに、モノの必要価値は、個人だけではなく、家族、会社、公共にも関わることが多い。個人が要らないと言い切っても、家族や会社の誰かが必要とすれば不用品として片付けられない。害獣対策にしても、一気呵成に駆除しないで禁猟区や禁猟期間を定めているのは、自然界の中では人知の及ばない連鎖によって生命が持ちつ持たれつ共生しているからだろう。

「この世に存在するものにはすべて理由がある」という説がある。自然界ではそうかもしれないが、人工物に限れば普遍性に疑問符が付く。誰にとっても無意味で必要性すらまったく感じないのに存在しているものがある。仕入れ過剰で消費期限が過ぎて廃棄される食品にしても、作られた時点では存在理由があったのだろう。わが家にも、必要や願望があって購入されて冷蔵庫に収まっている食品があり、時間が過ぎて捨てざるをえないものがある。買ったのにはわけがあった、しかし、活用されなかった。つまり、別になくてもよかったということになる。

中学生になって初めて手にし、以来半世紀、十数本の万年筆が手元にある。どれにも何度か出番はあった。しかし、お蔵入りせずに済んでいるのは五指にも満たない。なけなしの小遣いをはたいて買ったものも含めて、インクの潤いを与えられない万年筆は今となっては存在理由を失ったかのようだ。但し、それはぼくに対する存在理由である。スペースも取らない道具だから誰かに譲ってあげるという方法で必要性が生まれ復活できる可能性は残っている。


背景の事情はわからない。動機もわからない。また、調べる気もないが、どんな存在理由があり、誰が必要としているのか不明なものがある。建築物に付属して佇み、解せないながらも撤去されずに保存されている無用の長物。かつて赤瀬川原平らの仲間はそんな存在物を「超芸術トマソン」と呼び、盛んに路上観察しては愉快がっていた。最近、週に一度歩く歩道際でそんなトマソンを見つけた。いや、いつも見えていた。正しく言えば、見えてはいたが「なぜ?」と一歩踏み込むような気づきがなかったのである。これがトマソンと呼ぶべき存在だと断定する確証はない。同時に、これがトマソンでないことを示す証拠も理由も見当たらない。少なくともぼくにとっては。

これがその存在である。場所は大阪市中央区。中央大通りと谷町筋の交差点。主要道路である谷町筋と歩道の間に「緩衝ゾーン」のような空間があり、そこに人間の頭部大の石が接着されている。かなりの数である。都会の中に忽然と姿を現わす「石庭」にしては、規則性も情趣も感知できない。車に乗らないので、運転や交通事情にまつわる設置の動機には想像が及ばない。美しい景観のための設えであるはずもない。歩道と道路の間にコンクリートを盛り上げたが、あまりにも殺風景なので、何か造作してみよう……そうだ、石をたくさん置くのがいい、予算も余ったことだし……というふうにしか思えない。

ひときわ目立つ黒いオブジェには少なくとも意味があるのだろうと思い、じっくり見てみた。ここから道路向かい数十メートルの所に西鶴終焉の碑はあるが、そんな歴史を背負う碑には思えない。銘板は見当たらない。きみ、石だけ適当に並べるだけではいかんだろう……芸術の香りもいるんじゃないか……というような次第で黒いオルフェならぬ黒いオブジェを設置したのか。百歩も譲れないが、数歩譲って斟酌するなら、これは何かのおまじないか、あるいは単なる象徴に違いない。おまじないなら交通安全以外にない。もし象徴なら、いったい何を象徴しているというのか。ともあれ、四捨五入すれば、これはやっぱり超芸術トマソン。しかも、かなり手の込んだ無用の長物である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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