ある日の述懐。
昨日は薄ら寒かった。気象予報では今日のほうがさらに寒いらしいが、朝に公園を横切ると陽射しがあって昨日ほどの寒さを感じない。予報に反して暖かいではないか……とつぶやく。しかし、ちょっと待てよ。
その予報に備えて、ぼくは昨日よりもしっかりと着込んで自宅を後にした。マフラーもしているし、昨日のコートよりもやや厚手のものを着ている。昨日はスーツだった。今日は普段着姿、タートルネックで首元も防寒している。気象予報が正しいなら、今日は昨日より寒い。だが、ぼくの装いが昨日と違うではないか。
もし季節の移ろいに敏感であろうとすれば――感覚を研ぎ澄まそうとするならば――いつも同じ格好、同じ体調に整えておくのがいい。外部環境に対して鋭い感覚を保ちたければ、外部環境を先取りして適応などしてはいけないのである。
〈感覚〉は環境や事物の写し取りである。見たり聞いたり触ったりして、情報を極力素直に受け入れる働きである。感覚にはどうやら他人や世間の最大公約数、場合によっては、気象庁の予報に合わせるような写実性が求められているような気がする。つまり、感覚の本質には普通や共通が潜んでいるようなのだ。
感覚が人それぞれなら、わざわざ〈知覚〉ということばを使う必要はない。すべて感覚で済ませておけばいいはず。しかし、誰かが「私の個人的な感覚ですが……」などと言う。個人的な感覚という時点で、環境や事物と素直に一体化しようとする感覚本来の働きに反している。そもそも人それぞれの感覚を知覚と呼んだのではなかったのか。知覚は環境や事物の情報を自分の経験や知識に照らし合わせて編集処理する働きである。感覚が対象との一致を目指すのに対して、知覚では対象との不一致や誤差をもたらすような解釈がおこなわれる。〈共通感覚〉という術語はあっても、共通知覚などということばはない。ある人が冷たいものを口にして平気なのに自分は沁みるという症状を知覚過敏という。知覚はセンサー機能の違いを特徴とする。
たった一語、一文でさえ、人は様々に解釈する。一冊の本になれば解釈の揺らぎはいよいよ大きくなる。人それぞれの知覚が経験や知識によって用語、文章、書物を異なった方法で捉えるのである。ことばだから多義性を備えるのは言うまでもないが、同じことは非言語的対象――事物、音、食材など――にも当てはまる。だからこそ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの感覚器官が働いて知覚が個性的になる。今さら確認するまでもないが、音楽を、絵画を、料理をぼくたちが同じ知覚品質で楽しんでいるわけではないのだ。
「人間が世界をどう理解するかは、かなりの程度まで、ぼくたちがその理解に到達するために使う機能と結びついている」(ニコラス・ファーン『考える道具』)
ある意味でこの一文は、カント的な「世界を知覚することは、ある意味で世界を変えること」に通じている。誰もが独自に世界を理解している。世界は誰にとっても同じ感覚で受容されるのではない。感覚と違って、知覚はつねに能動的に働き、感覚より出でて感覚よりも自分らしさを発揮するはずなのだ。