屈折をめぐって

屈折した心とはどんな感じなのだろう。真っ直ぐであることが普通だとしたら、屈折はひねくれていることなのか。では、真っ直ぐな――あるいは純粋な――心というのは明快に規定されているのか。たとえば、ピカソの絵を見て「素晴らしい」と感嘆することが真っ直ぐな心で、「わけがわからん」と感想を漏らすのが屈折した心というように。これでは感嘆以外の意見に出る幕がなくなってしまう。わけがわからんというのも一つの真っ直ぐな心の表われであるはずだが、素晴らしいと褒めそやす大勢が居合わせる場でそんなことを言う人間は屈折しているように見られる。

誰にとっても美しく見えるものがあるとしよう。だからと言って、みんなが異口同音に美しいと評すべきことにはならない。そう感じた上で、美しいと形容することに納得しなくてもいいではないか。美しいではなく、「まあ、どこにでもあるけれどね」と言っても心が屈折しているとも思えない。ひねくれてもいないし、アマノジャクでもない。ただ、大勢と表現が異なっているに過ぎない。何事も賞賛対批判、多数対少数という二項対立の構図で仕切るほうが、むしろ屈折しているという見方も成り立つ。


美しい花を見て「美しい」と言い、青い空を見上げて「青い」と言うのが真っ直ぐな心の表われだとしても、美しいや青いで済ませているのはある種の怠慢、あるいは対象とことばの馴れ合いではないのかと疑義を呈してみる。すると、「そう思うのはきみの屈折した心ゆえだ」と言われる。「そうかもしれない」と頷けば真っ直ぐだと認められ、意地を張って「いや、そんなことはない」と反発すれば、ほらやっぱりひねくれ者だという烙印を押される。しかし(と再び屈折してみせれば)、眼前の特定の花を何にでも形容できる「美しい」で片付け、今見上げているこの場この時の空を万能の「青い」で済ますことに躊躇する。

「きみ、素直に美しいものを美しい、おいしいものをおいしいと言っておくほうが、世の中は楽に生きられるよ」。こんなふうに諭されたこと数知れず。そして、そのたびに、そうかもしれない、いやそんなことはないと葛藤してきた。楽に生きようと素直に思った時はそうかもしれないと処世術を用い、別に楽にならなくてもいいと思った時はそんなことはないと強がった。しかし、美しいや青いでいいだろうと思う時点で真っ直ぐであり、次いで、美しいや青いでは物足りないから別の言い方をする時点で屈折だとされることに不条理を見る。不条理などと言えば、これはまた屈折ということになりそうだ。

「屈折をめぐって」などと構えたが、話は簡単である。真っ直ぐだけではつまらないのである。一昨日の焼肉と昨日の魚の煮付けに同じ「おいしい」というラベルを貼ることはできる。しかし、何かを怠っているような気がして不愉快になる。真っ直ぐなほうが楽だよと言われても、この歳になって今さらドキッとしない。なぜなら、屈折していても――決して楽ではなかったが――愉快に生きてこれたからだ。いつも「おいしい、美しい、青い」で場しのぎする人たちとも一応の共生はできている。屈折していても、独尊や孤高になるわけではない。真っ直ぐも個性なら屈折も個性である。憎たらしいほど屈折した若者に対して、最近やっと寛容に振る舞えるようになった。いや、リスペクトさえしていることに気づく。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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