前時代的な発想

英語の“great”は多義の形容詞である。大きい、多数の、ふつうでない、偉大な、重要な、著名な、気高い、等々。基本は「大なるさま」を表わす。「右」や「上」を規定するのに、それぞれ「左」と「下」との対比が必要なように、「大」は「小」との兼ね合いで意味を持つ。相反する概念がお互いにもたれ合って成り立っている。

たとえば、あるカボチャを大きいと言えるためには、小さなカボチャを持ち出さねばならない。その大きなカボチャは別のさらに大きなカボチャの出現によって、相対的に小さく見られてしまう。つまり、大きいは小さいと対比されながらも、同時に大きいものどうしの中でも比較されることになる。ふだん何気なく「大きなカボチャ」とか「小さなカボチャ」と言うが、形容詞は個人の感覚で度合が変わる。今さら言うまでもないが、形容詞で意味を正確に伝えるのは至難の技なのである。

そこで気になる常套句がある。米国新大統領お気に入りの“We will make America great again.”がそれだ。「再びアメリカを偉大にしよう」。いま「偉大」と訳したが、先に書いたように、“great”のコアとなる意味は「大きい」である。前後の文脈を度外視するなら、この一文は「アメリカを前のように大きくしようぜ」と訳せなくもない。どんな程度に大きくするのかわからないが、“again”と言うかぎり、同様の大きかった過去があったということだ。

再び、もう一度、前のようにというのは、いったいいつの時代のことなのだろう。「古き良き時代」という表現も出てきたが、まさか西部開拓時代まで遡るはずもない。「大きい」がわかりづらいから、お付き合いして「前時代」とするしかない。少なくとも“again”なのだから、見つめている方向は未来ではなく、いつぞやの過去に決まっている。


型通りの前時代的発想は多様性の時代になじまない。多様性とは様々な尺度を容認するということだ。プロタゴラスが「人間は万物の尺度である」と言った時、人間は個人のことだった。言うまでもなく、物事に対する知覚や価値判断は個人の尺度に委ねられる。カボチャAは大きく、カボチャBは小さいと知覚し判断する際の大小にかくあるべしという基準などない。まさに十人十色の感覚にほかならない。再び、もう一度、前のように大きくと言うのなら、どの頃の状態に戻ればいいのか。“We will make America great again.”という威勢のよいスローガンはそれを具体的に示していない。このスローガン自体がプラスチックワードなのだ。もっともらしく人々を鼓舞しているようだが、実は意味は曖昧で、一部の層を除けば誰ひとりとしてそのイメージを摑めていない。

多様性がいいことづくめでないことは百も承知である。画一的な前時代に比べて多様性の時代に救いがあるとすれば、大なるものばかりがちやほやされないという点だ。大あってよし、小あってよし、人や生き方には、あるいは所有するものには、人それぞれの必要や価値観に見合ったサイズがあっていいのである。みんながビッグに生きなければならず、グレートなものを目指さなければならない時代にはもう懲りているはずではないか。

故事由来の「大は小を兼ねる」は、大きいものは小さいものの代用になることを意味する。一般化に堪えない命題である。日常をよく見ればわかる。ぼくたちは小さいものなら上手に扱うが、大きいものの使い道には手を焼く。大きいものは、役に立ちそうでいて、実際はお荷物になることのほうが多い。大が小を兼ねる状況や場面を否定しないが、コストがかかりエネルギーを浪費する。総じて言えば、大は小を兼ねづらいのだ。それどころか、大は小を排除しかねない。大はさらなる大を求め、人間の手ではいかんともしがたい連鎖反応を起こして際限なく肥大化する。いや、あの“great”はそんな物量的かつ形態的な大きさではなく、崇高な偉大なのだ、と理屈をこねるかもしれない。しかし、多様性は明らかに排除されているから、かつて生きた悪しき前時代の発想への逆戻りと言わざるをえないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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