一杯のコーヒー

一日に45杯のコーヒーを飲んでも、そのつどのコーヒーは「一杯のコーヒー」である。喫茶店からカフェへと呼び名を変えた店が多くなった。時代の流れでありライフスタイルの変化を象徴している。外で紅茶を飲むことはなく、店に入ればコーヒーを注文するのがお決まりなので、カフェのほうがしっくりくる。とは言え、ランチ後に誰かと行く時は「喫茶店」と呼ぶ。「近くにいいカフェがあるんです」とは言っても、「カフェにでも行きましょう」はない。コーヒーショップでもいいが、ちょっと古めかしい。

今朝もすでに2杯のコーヒーを飲んだ。朝一番の一杯のコーヒーは自宅で、もう一杯は午前10時にオフィスで。自宅はスペシャリティの豆で淹れたて、オフィスは廉価版のブレンドで作り置き。当然値段の差が味覚の差になる。仕事しながら飲むオフィスのコーヒーはそれで十分だ。寒い日の一杯はどこで飲んでもどんなふうに飲んでもありがたい。今日もたぶん午後に2杯、帰宅して食後にも飲むことになるはずである。最近は心してカップに向き合うようにしているが、惰性的飲み方を捨て切ったとは言い難い。


週末に古書店で『ウィーンのカフェ』(平田達治著)という本を見つけた。十数年前の記憶がよみがえる。空気まで凍てつくような極寒の日に、シェーンブルン宮殿のカフェ「グロリエッテ」で啜ったメランジェ。蚤の市近くの無名のカフェでもメランジェを飲んだ。メランジェはカプチーノのウィーン版。ウィーンに滞在した3日間のうちに一杯のメランジェを何度も味わった。ウィーンの後はローマ、フィレンツェ、ボローニャへと旅を続けた。口当たりのいいメランジェに慣れた舌はエスプレッソの強さにしごかれた。

ウィーンのオペラ座の前には二軒の有名なカフェがある。一軒はその名も「カフェモーツァルト」。そこでもメランジェを注文した。後に知ったのだが、かつてこのカフェは映画『第三の男』でロケされた場所だ。さて、この本に評論家ハンス・ヴァイゲルの次の一節を見つけた。

ワインハウスの主役はワイン、ビヤホールの主役はビール、料理店の主役は料理……しかるにコーヒーハウスではハウスの方がコーヒーよりもはるかに重要である。

同じ飲むならうまいコーヒーがいいのに決まっている。初めて入る場末の喫茶店。スポーツ新聞がカウンターに積んであり常連がたむろして落ち着かない店でも、淹れたてのコーヒーがうまければ満足できる。どんなに雰囲気がよく見え、隣席との距離に余裕があるホテルのラウンジでも、まずければ気分は台無しだ。こういう所見には一理あり、実際ぼくも与する。しかし、この言い分はコーヒーを飲み物としてしか見ていないことに気づく。カフェ発祥の意味と珈琲文化への想像が少し足りないのではないか。

イタリアではヴェネツィアの「カフェフローリアン」などを例外として、立飲みでもいい、エスプレッソはうまくて濃いのを一気に飲むのがいいという風情がある。ウィーンとパリのカフェはイタリアのバールとは様相が異なる。まずテーブルに座るべきである。本を読むにしてもぼんやりするにしても長居するべきである。長居してコーヒーをゆったりと飲む。この時に飲んでいるのが、まさにハウスなのかもしれない。ハウスの文化なのかもしれない。「コーヒーハウスではハウスの方がコーヒーよりもはるかに重要である」と言い切っても、コーヒーの味がどうでもいいということにはならない。つまり、ハウスが上等ならば必然コーヒーにも別格の味が備わるということだ。コーヒーの物性的な品質だけが品質ではない。嗜好者が主観的に感じるトータルな知覚品質である。というようなことに目を向けたら、次の一杯のコーヒータイムが変わるかもしれない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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