議論嫌い

ABかという選択があり、集団内でABに意見が分かれ、しかもABは同時に成り立たず、いずれかに決めなければならない。こんな状況は日常茶飯事。集団としてどちらにするか議論する必要が生まれる。しかし、案外議論という意思決定の方法に出番はなく、たいていは別のやり方で決着がつく。

➊力学決着
長いものに巻かれたり無難に大樹に寄り添ったり。あるいは長幼の序に随うというのもある。つまり、年配者や上司の顔を立てるわけだ。意に反しているなら涙を呑むことになる。

➋自然応接
平行線のまま様子を窺い、どちらからともなく歩み寄る。これは時間経過に解決させる方法である。特段の考えも策もないけれど「何とかなるだろう」という甘い見込みに期待している。

➌黙殺放置
見解の相違とか温度差があると言って知らん顔する。ノーコメントを基本とするのだが、合意形成を図るつもりはなく、ホンネは排他・拒絶にある。すでに水面下では嫌悪なムードになっている。

➍一触即発
やっぱり言わねばならない。ノーはノーであると、かなり時間が経ってから決断する。一事が万事の危うさが漂う。対立が明らかになり自爆覚悟で衝突し、やがて決裂する。居残った側の意見に収まって手打ちとなる。

これら➊~➍は利害関係が対立する異種集団間の交渉場面ではよく見られる。交渉では何でもありだから。しかし、一集団内での意見調整としてはいずれも好ましい方法とは言えない。したがって、五番目のオプションとして早期軽打〉という方法に踏み込むしかない。意見は早めに言い、深刻な対立を招く前に軽く議論を交わすということだ。長年ディベートを指導してきたが、ぼくのディベート観は世間のそれとはだいぶ違う。ディベートをヘビー級のような打ち合いと見ていない。仲間どうしで議論をして後味が悪くなっては意味がないからだ。異種意見によく耳を傾け、必要に応じてさらりとクールかつ率直に意見を言うのがよい。ここで言う意見とは、ある種の提案である。


議論の目的は、たとえば二者択一の岐路に立つ時に、選択の判断材料を増やす点にある。いくらよく考えたからと言っても、一人では材料が偏っているし、集団の利よりも個の利を優先的に考える癖が出る。そこで、A(またはB)の選択を促す材料以外にB(またはA)を支持する材料を知っておく。なぜ議論するのか。ABに、BAに変わる可能性があるからだ。たった一つの材料で自論を支えてきた材料が揺らぐことがある。もし、変化の余地がまったくないのなら、議論の必要性はなく、誰も歓迎しない、不器用な➊~➍の手段に頼るしかない。

議論嫌いな人にはいくつかのタイプがある。根っから嫌いな人。嫌いではないが、負けそうな相手とは議論しない人。議論などするよりも「まあ、そうムキにならずに……」と泰然と構える人(実は議論嫌い)。一見議論好きに見えるが、義務としてやむなくやり過ごしているだけで、実は隠れ議論嫌いである人。経験上、議論嫌いは議論に対して肩肘張って構えてしまう。そうではない。挨拶みたいなものなのである。集団に身を寄せているのなら、議論を拒否し輪に加わらないのは挨拶をしないのと同じだ。意見を言わない(逆に、意見にこだわる)のは選択権放棄に等しい。現在のテーゼよりも集団にとって利と理のあるアンチテーゼは常にある。そのことに気づいているのなら、反発に怯えずに自論を開示してみる。自分を生きたいという理想があるなら、議論を嫌っている場合ではない。

今書いたように、議論の前提に「テーゼに対するアンチテーゼ」という立場がある。考えが似通った同質性の高い集団では意見が画一化する。誰もノーと言わず、既存のシステムに対して別のオプションを提示しない。何も始まらないし、進化も望めない。実際のところ、意見が同じでも細部の解釈や拠り所とする論拠は違っているものだ。大同小異は似たり寄ったりと言われるが、大雑把に大同に束ねるのではなく、まず小異に目を向けてみる。そこに拮抗するイエス・ノーがあれば、活発な議論をしてみるべきだろう。それを経てこその大同なのである。

多様性の時代とは「議論ノルマの時代」でもある。そして、議論の機会があり、議論に加われるということは、その集団においてかけがえのない自分が存在する証なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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