「あるがままに」などということはほとんど不可能だと思うが、仮にあるがままに現実をすべて受け入れることが可能だとしよう。その時、疑念は生じない。いや、生じさせてはならない。もっとよさそうな現実も想像してはいけない。何も考えず、ずっと今の現実に向き合うのみ。やがて願望も期待も消え去って思考停止状態に陥るだろう。未来の可能性は閉ざされる。翻って、あるがままであることをしばし棚上げしてみる。それは現実に問題――何か変?――を察知することにほかならない。おおよそ変革の発案動機はここから生まれる。発案に便宜上「新しい試み」と名付けておく。
新しい試みは現実の変革を目指す。したがって、そこに弊害が内蔵されているとしても、いきなり未だ見えぬ弊害に神経は使わない。新しい試みを実行した後にはじめて新たな弊害に気づく。気づいて知らん顔すれば、自ら変化を加えた現実をあるがままに受容することになる。それは発案動機に反するから、弊害にはそのつど対処療法を施すことになるだろう。現実の変革、その変革によって生じる新たな弊害、その弊害への対策という企ては、カオスへと向かうエントロピーの法則に似て、とどまる所を知らない。これは、ある種の自虐行為ではないか。
新しい試みに新しい弊害が含まれるというのは、別に稀なことではない。かつて完璧に成された試みがなかったのは、必ず試みの中に弊害の種が内因していたからである。自浄作用は自壊作用を伴う。そして、強引に言えば、自壊作用は何がしかの意志的な自虐作用を誘発する。
現状に対するアンチテーゼを出した勇気を褒めたものの、そのアンチテーゼの抱える新たな弊害を指摘した途端、不機嫌な顔になる。そして、可愛い自分のアイデアを必死に守ろうとする。このようなナルシズムを増長させる理由は何だろう。現状検証という客観的なプロセスを経たことと無関係ではないようだ。独りよがりではないと信じているのである。これでは、あるがままに現実を受容しているテーゼ側と何ら変わらない。
自分大好きというのは、ある意味であるがままであることよりも性質が悪い。そもそも自分などというものはないのかもしれないではないか。にもかかわらず、人は自分を発見して自分が好きになる。もっとも自分の発見は自分がよくわかっていることを担保しない。いや、自分をわからないままに発見した気になったから自分が好きなのかもしれない。
「このアイデアは現実のこんな問題を解決する試み。助言をいただきたい」と言うから、「そのアイデアからは新しい弊害が生まれる」と指摘する。ところが、この指摘が、批判ではなく、非難だと受け止められる。褒める人がいい人で、批判する人がよくない人とレッテルを貼られれば、批判指導する立場のはずなのに弱腰人間と化して無難に褒めのほうを選ぶようになる。自己保身のために他人を褒めているにすぎないのである。
辛口派のぼくは本人のことを考えて批判する。出来がよいと判断しても、いくばくかの皮肉や毒舌をからめて評する。長い目で見れば、ほめ殺しよりはよほどいいと経験的に学んできたからだ。自画自賛がまずいとは思わない。だが、自虐的なジョークの一つも挟みながらでなければならないだろう。
テーゼに対して批判するアンチテーゼ人間は己の変革案に驕ることなく、その案に対しても時々自虐的になることを忘れてはならない。自虐的とは自分いじめであり、高く重ねた積み木を崩すような苦痛を伴う。覚悟が必要だ。もし「時々自虐」が受け入れがたいなら、次善策がある。「日々自省」がそれだ。自省の念を込めて締めくくっておく。