新聞やウェブページ、その他のメディアを問わない。紙でもデジタルでも話は同じである。文章や写真などの情報は一つのまとまりのある「面」として伝達される。その面を便宜上「紙面」と呼ぶことにする。紙面の主役は文章である。読み手に伝わらなければならない。しかし、文章のわかりやすさや適切な表現という質だけが伝達を担うわけではない。むしろ、見出しや本文の位置関係のほうがメッセージの意味や伝達の精度に大きく関わることがある。ものは言いようであるが、ものは並べようでもあるのだ。
一ヵ月以上前の新聞記事を見て「凡ミス」に気づいた。大見出しは「ジャマイカリレー金剥奪」。副見出しが「薬物陽性 日本、『銀』繰り上げへ」である。大見出しと副見出しから、昨夏のリオ五輪を即座に連想する。リオ五輪の100㍍×4の優勝チームはジャマイカである。そして、日本はジャマイカに次いで2着になり、銀メダルを獲得した。あのゴールシーンは今も記憶に新しい。「銀の日本が銀に繰り上げ」とは変だ、金に繰り上がるのではないか……ひどい凡ミスだと判断したのは、実はぼくの早とちりであった。しかし、早とちりさせた主たる原因は記者と編集者のほうにある。
本文を読めば、「ウサイン・ボルト(30)を含むメンバー全員の金メダルが剥奪」とある。ボルトの年齢は現在の年齢である。だから今の話だと思う。さらに記事は「処分が確定すれば銅メダルだった日本が銀メダルに繰り上がる」と続く。「おいおい、リオでの日本は銀メダルだったではないか」とぼくが反応するのも無理はない。
「日本のリレーチームの銅は北京だったはず。次のロンドンはたしかメダルを取っていない。半年前のリオは銀である」などと思いをめぐらしていて、はたと気づいて写真説明文を読んだ。「北京五輪の陸上男子400㍍リレーで金メダルを掲げるジャマイカチームの……」と書かれている。ここでやっとこの記事が8年半前のレースのことについて書かれていることがわかったという次第。この時点で記事全体を俯瞰的に見渡したら、大きな見出しの下に申し訳程度に但し書きされた「北京五輪」という文字が目に入った。
周知の通り、再検査したところ、北京五輪当時から保存されていた検体が薬物陽性反応を示したのである。そんな長きにわたって検体が保存されているなどとは知らない。仮に知っていたとしても、ロンドンを飛び越して北京まで遡る金剥奪の話だとピンとくる想像力を持ち合わせていない。ぼくの想像力・理解力の問題ではない。この記事には紙面づくりの決定的な問題があるのだ。「金メダル剥奪」というテーマにとって最重要のキーワードは「北京五輪」なのであり、さらに親切に書くなら「2008北京五輪」とすべきだった。これが大見出しに含まれるべきだった。日本が銅メダルから銀メダルに繰り上がる情報よりも、目立つ場所に配置されてしかるべきなのである。
「見出しの下にちゃんと北京五輪と書いてあるではないか」という言い訳は通用しない。鳥の目で紙面全体を見渡してから記事を読むわけではないからだ。「見出しから本文へ誘導せよ」というのは記事や広告のセオリーである。見出しで何について書かれているのかがわからねばならない。紙面づくりに携わる者は、文章を綴ることに躍起になる。しかし、どんなに文章を分かりやすく書いても、置き場所が不適切であれば、記事全体の誤読が生じる。情報が氾濫して個々の情報価値が低減する時代、紙面を読ませるには新しい一工夫が必要になっている。